すべての謎が解けました(解けました)
翌朝、宿の食堂で、みんないっしょに朝食を摂る。
変装をしたままのわたしとアナスタジア、キュロス様とルイフォン様、ミオ、ウォルフガング、弟、両親。
それぞれの動きを、わたしは離れたり近づいたりしながら、ずっと見ていた。
「なんだこの紅茶は! 熱いじゃないか!」
給仕の少女に怒鳴るお父様。
「は、はい、そちら淹れたてでございますので――」
「そんなことは分かっている。もうじき夏だぞ、アイスティーを出すくらいの気を利かせろ」
「えっ? でも皆様ホットでご注文……」
「言い訳をするな、商売人だろう! 金を返せ!」
「代金はグラナド家が出しておりますけどね」
パンケーキを天井に届きそうなほど積み上げたミオが呟く。
キュロス様は、給仕の少女に話しかけた。
「連れが失礼な物言いをして、申し訳ない。冷たい飲み物は注文できるだろうか」
「す、少しお時間を頂けたら、氷室から氷をお持ちします」
「ありがとう。男爵、どうする?」
そう父に尋ねてくれたのに、父はそっぽを向いたままティーカップを呷り、「あづっ!」と悲鳴を上げていた。
朝食を終えて、馬車へと乗り込む。昨日と同じ組み合わせで乗ろうとしたが、突然、父は怒鳴り散らした。
「エルヴィラ、なぜ先に乗り込んでいる!」
母はキョトンとした。何の意味もなく、突然怒鳴られたとしか思えない。それでも母はまず謝って、それから、自分の何が悪かったのか夫に尋ねる。
父は一瞬言葉に詰まってから、
「私が車酔いしやすいのを知らないのか? 夫に窓際を譲るべきか、考えもしないとは。気の利かない女だ」
「あぁ……そうだったのですね。申し訳ありませんでした」
母は一度馬車から降りて、父に奥の席を譲る。わたしは父を横切るように腕を伸ばし、窓を開いた。
「男爵が酔いやすいとは、私も初めて聞きました。昨日はなぜ窓を開けてくれとも言わなかったのですか」
「あ……ああ……」
父は、そうだなすまんとも、開けてくれてありがとうとも言わず、ただ顔を伏せていた。
ここから道は少し悪くなり、さすがの戦馬車もガタガタ揺れる。キュロス様は何度か父に、休憩が必要かと尋ねた。父はどちらとも答えず、ろくに返事もしない。
昼になるより少し前――お母様が青ざめて、ウッと呻いた。すぐにキュロス様が気付き、御者のミオに合図する。
馬車から降りるなり、母は地面に嘔吐した。ハンカチーフを渡すと、母は咳き込みながら頭を下げた。
「ごめんなさい……私、昔から馬車は苦手で……」
そこで、母はひどく悲しそうな顔をした。
「どうしましょう、あなたのハンカチーフを汚してしまったわ。とても綺麗なレースなのに」
「お気になさらず。他に何か欲しいものは?」
「ああでは、お水を一杯……ありがとう。あなたはとても優しいのね、男のひとなのに」
「――どけ!」
母を踏みつける勢いで、父が馬車から飛び降りてきた。全力疾走で藪のほうへ駆けていくのを、キュロス様が逃がしてたまるかと追いかける。……ややあって、二人一緒に戻ってきた。キュロス様は苦笑いで、肩をすくめていた。
「お二人とも、上からにせよ下からにせよ、出したいものがあるなら早く言え」
「……申し訳ありません。ありがとうございます」
母は深々と頭を下げた。その横で、父は気まずそうに黙って顔を伏せていた。
少し早めの昼食休憩のあと、母とアナスタジアが馬車を交代した。戦馬車よりグラナド城の車のほうが広くクッションが良いからと、酔いやすい母への配慮である。
そう提案したとたん、アナスタジアは「げっ、無理」と即答した。
「あたしも昨日から見てたけど、お父様って『目下の人間』に酷い口の利き方じゃない? 『奉公人の少年』として、何時間も同じ馬車なんて絶対絡まれるわ。あたし殴っちゃうよ」
「そ、そうね。では……こういうのはどう?」
わたしは姉と、キュロス様に耳打ちした。
『奉公人の少年』が同車すると案の定、父は上機嫌になった。吐き出す言葉は怒鳴り声だったけど、表情は晴れやかなのだ。その年で奉公などロクな親元に生まれてないなとなじったり、やはり父への気遣いが無いのを、役立たずだと嗤ったり。
それを五分ばかり聞き流してから、『アーサー少年』は、ニッコリ笑った。
「今オッサン、ナンテ言ったデスか? ワタシ、ガイコクからの移民デス。王国語よくわかりまセーン」
「……へっ?」
間の抜けた顔をする父に、実際にイプサンドロスの言葉を使ってペラペラ喋る。
「だからオイラ言葉わかんねーの、耳毛伸びすぎて穴詰まってる? しっかり除毛して、頭に植えたら一石二鳥だからそうしなよ」
たまらず、わたしとキュロス様は吹き出した。言ってる内容もだけど、発音がデタラメでメチャクチャだ。それもそのはず、お姉様がイプス語を使えたのは十年以上前。しかも教材はあの『ずたぼろ赤猫ものがたり』だ。口の悪いドラ猫を真似ているのか、もともとのお姉様の語彙なのか……カタコトでなんとも痛快な毒舌。しかも言われているお父様は、ひたすらにキョトンとしているだけ。
「へいへいおとーさま聞いてるかい、オイラってばここぞとばかりにぶちまけちゃうぜ。前から思ってたけども、おとーさま服のセンス悪くない? 今時そんな、貴族らしい貴族服着てる男爵いないっしょ。遅れてるぅ」
わたしはキュロス様と目配せをした。イプス語で会話する。
「……やはりお父様は、イプス語はわからないようですね」
「ああ。しかしイプス語はマイナーだ。男爵はイプスを蛮族だと馬鹿にしていたというし、商売人でもなければ、よほど教養のある者でなければ使えない。問題は、シャデラン領にも移民の多いバンデリー語、王侯貴族の公用語であるフラリア語……」
そこでふと、キュロス様はイタズラっぽく目を輝かせた。仏頂面で、窓の外を見ているお父様を真顔で見つめ、バンデリー語で、ぼそりと言った。
「男爵。今ここで謝れば、家に帰してやるぞ」
お父様は……振り向きもしなかった。自分に話しかけていることも気づいていない。キュロス様は続いてフラリア語、ついでに東の大陸シャイナの言葉でも同じように言う。お父様が耳にすれば、絶対に食いつくような甘い言葉を並べていく。
それでも、お父様は一度も……たったの一言でさえも、反応しない。きっと言語が切り替わったことすら気付いていない。
「……確定だな」
キュロス様が呟く。わたしは、そうですねと頷いて……溜め息をついた。
父が、外国語をたったひとつも出来ないのではないかというのは、薄々感づいていた。
父は、字が書けないわけじゃない。現にわたし宛ての手紙や、わたしの誕生日兼アナスタジアのお披露目会への招待状は、父自身が書いて配ったのだ。
わたしに代筆させた手紙や書類は、すべて各地の王侯貴族や大使館……あるいは出稼ぎに来ている労働者。すなわち、外国人に宛てたもの。
父は、戦後の貴族として、領主としてあるまじきことに……彼らと交流することが出来ないのだった。
「領主の仕事ができないわけだ。それに、婚約式に来ない理由もこれだろう。新婦の父として、諸国の要人からの祝辞を無視し続けるわけにいかないからな」
その通りだろう。だけどもうひとつだけ、確認しないといけないことがある。
わたしは王国語で、お父様に話しかけた。
「――シャデラン男爵。私が通訳をしましょうか? イプス語、出来ないんですよね?」
父は、わたしを睨みつけた。眉間に深い皺を刻み、唾を飛ばして絶叫する。
「誰が言葉が出来ないと言った? ただ私は外国人が嫌いなだけだ! 余計なお世話だ、ひとを馬鹿にするんじゃない!」
「……失礼しました」
わたしは頷いて、座りなおした。
「まったく、どいつもこいつもっ……!」
父はそれきり二度と、誰にも話しかけることは無かった。
――結局、父は一度も気分が悪いと言うことはなく。母だけが何度か馬を止め、休憩を必要とした。
結果、王都の手前でもう一夜を明かすことになった。今度は大きな宿だったので、全員に個室が取れた。お父様たち三人はやはり同じ部屋に閉じ込めたが。
部屋で一人、やっとくつろいでいた頃……コツコツ、ノックの音がした。はーいと気軽に出てしまう直前で、ミオの声。
「シャデラン夫人が、マディ様にお話があるそうです」
わたしは慌てて鬘をかぶり、シュミーズから男装に着替えた。扉を開くと確かに、ミオの後ろには母がいる。母は神妙な感じで俯いていたが、わたしの姿を見て、クスリと笑った。
「あなた、お部屋でもマントと帽子を着けているのね」
「は、はい。騎士の嗜みでしてっ」
だってさすがにバレちゃうんだもの! 帽子のズレを直すふりをして、さらに深く鍔を下ろす。その時、突然母がわたしの手首を掴んだ。ぎょっとする間もなく、すぐに放したが。
「ああごめんなさい、つい。綺麗な金髪が、隠れてしまうのがもったいなくて」
「……それでご婦人、私に話とは?」
「話というほどではないのよ、これをお渡ししたくて」
と、渡されたのは昼間に渡したハンカチーフ……いや、色だけが同じの別物だ。白の木綿でお世辞にも高級そうには見えないが、新品らしく綺麗だった。
「ごめんなさい、本当は新しい物を買ってお返しするべきなのに、出先で、私はお金も持っていなくて……私が作ったものだけど、これならまだ新しいから」
「ご婦人が、針仕事をなさったのですか?」
わたしが尋ねると、母は心外そうに苦笑した。
「貴族の婦女子といえばレース編みだものね。だけど男爵家は貧しいし、私はもともと、村の農家の娘なのよ。私は要領が悪くって、ろくに手伝いにもならなかったけど……お裁縫は私の唯一の特技だったの」
「……そうだったのですか。……知りませんでした」
わたしは、母の手縫いのハンカチを受け取り、ありがたく頂戴しますと一礼する。そして体勢を戻した時、母はわたしよりもずっと深く、深く、頭を下げていた。
「ごめんなさい。夫があんな態度ばかりで」
「……いいえ。構いません」
「あれで、冷たいだけのひとではないの。……何の取り柄もない私を、男爵家の妻に迎えてくださった。サーシャ様と大喧嘩をしてまで――」
「お祖母様、結婚に反対だったんですか!?」
うっかり、ほとんど地声で叫んでしまった。母は一瞬不思議そうな顔をしたが、正体に気付きまではしなかったらしい。ええそうよ、と頷いた。
「『女傑のサーシャ』は、私たち世代の村娘なら誰もが憧れた女性像。私も彼女に近づきたくて、グレゴールの妻になったわ。
サーシャ様は、そんな狡い考えも見抜いていたのでしょうね。もっと賢く教養のある女を娶りなさいと、夫を激しくなじったの。……それで母子は仲違いをしてしまったし、私は嫌われたままだったけど……私を庇ってくれた夫を、今は心から愛している。……少しでも、彼の期待に応えられるように――」
母はそう語ると、またぺこりと頭を下げて、自分の部屋へと戻っていった。
すぐ扉を閉めようとしたが、ミオが止める。離れた母には聞こえないよう小声で、
「マリー様、夫人の入浴は終わりました。すぐ外鍵をかけ見張りに立ちますので、マリー様はごゆっくり、お風呂へどうぞ」
「……お母様は今、お風呂から上がったばかりだったの?」
わたしが尋ねると、ミオは小首を傾げながら、その通りですよと頷いた。
――湯に浸かりながら、考える。
十八年間……わたしはマリー・シャデランとして、あの家で暮らしてきた。
何もない田舎の農村で、ずたぼろゆえに社交界にも出ず、恋人も友人も出来なかった。ほとんどの知識は本から得て、家族のことは、家族自身が語ることだけを信じていた。
……外の世界に出て……グラナド城でキュロス様達と出会い、いろんなことを知った。
わたしの常識は、酷く狭く、偏ったものだった。盛大に間違えていたものもたくさんある。
わたし自身の評価はもちろん、男のひと、女らしさ、貴族社会のこと、夫婦や家族についても……。
そうして新たに知識を得たことで、わたしの世界と視野が広がった。
シャデラン家で、一緒に暮らしていた頃には気付かなかったことも……今なら視える。見えたものを咀嚼し、腹に落として……呟く。
「お父様は……罰を食らわなくてはいけないわ」
湯舟の中で、滲んだ涙をグイと拭った。
部屋に戻ると、わたしはすぐに鬘を外した。まだ濡れた赤髪が零れ落ちてくる。
ブラシを入れて整えると、鏡に全身を映した。服装こそ騎士風の男装だけど、帽子やマント、胸をつぶす下着を取ると、もう女性にしか見えない。それでもわたしは首を傾げ、うーんと呻った。
「……これは……仕方ない。うん、必要なので、仕方ないことよね。……うん」
そうして一人、キュロス様の部屋を訪ねる。同じく風呂上りだったらしい、楽な服装をしたキュロス様は、扉を開くなり目を見開いた。
「マリー。もう男装はやめたのか」
わたしは頷いた。
「はい。明日、夜が明ける前に馬車を一台貸してください。ミオとアナスタジアとわたしの三人だけで、一足先に城へ戻り、両親を出迎えたく思います」
「……ほう? もちろん構わない。君がそう言うなら、何か考えがあるんだろう。詳細は聞かず楽しみにしておこう」
「ありがとうございます。では……お部屋に入れてください」
そう言うと、先ほど快諾したキュロス様は何か、複雑な顔をした。一応わたしを招き入れながら、決して肩には触れようとせず、ないしょ話みたいに囁いてくる。
「……あまり長居されたら、キスをしてしまうぞ」
「もう、男装の必要はないって言ったでしょう?」
わたしが答えると、彼は一度、不思議そうに小首を傾げる。直後、意味に気が付いて破顔した。
戸口のわたしを攫うみたいに抱き寄せると、はやる手つきで内鍵を掛けた。
その所作がなんだかとても可笑しくて、可愛くて、わたしはクスクス笑ってしまいながら……少しだけ久しぶりに、彼と深く唇を重ねた。




