カラッポ姫は生きている 後編
こちら一日2話連続投稿の2本目です。カラッポ姫~は、前編・中編・後編の三本立てなので、中編をお読み逃しがないようご注意ください。
あたしは魘されていた。
異国の男の、乱暴な腕。しかし抑え込まれているのはあたしじゃなくて、妹のマリーだ。
泣きわめくマリー。赤い髪がハサミで切られる。なんとか逃げ落ち足を引きずりながら、幽鬼のように一人で彷徨う。たどり着いたのは親切な老人のいる工房ではなく、白亜の城だ。そこにはまたあの男がいて、マリーを捕まえて――そして――
「――やめてーっ!」
絶叫とともに飛び起きる。
ぼろぼろと零れ落ちる涙をすかさずぬぐい、あたしはいつものように、『呪文』を呟いた。
「マリーじゃない。グラナド伯爵の新しい妻は、マリー・シャデランではないわ……」
マリーなんて、よくある名前だ。
キュロス・グラナド伯爵は、元来シャデラン男爵なんて相手にならない大貴族だった。政略結婚の相手ならいくらでも選べるし、あたしに求婚したのは、あたしの見目を気に入ったから。
――だからマリーのわけがない。マリー・シャデランは、あたしとは全く似ていないのだ。妹は今頃シャデラン領で、これまでと同じように過ごしているはずだ。あたしが『死んだ』ことで口が減り、少しはいいものを食べているかもしれない。寂しさに飢えたお母様が、マリーの髪を梳いているかもしれない。
「そうに決まってるわ……!」
そう自分に言い聞かせながら、頭からシーツをかぶる。
いっそ、明らかにしてしまおうか? ノーマンに尋ねれば、伯爵と花嫁のフルネームは知れるだろう。違うと分かればこの苦しみから解放される。だけどもし、マリーだったら……妹があたしの身代わりになったとしたら……。
「だめ……それはあたしの『役目』だわ……」
知ってしまえば、一刻も早くマリーを助けに、ここを出なくてはいけない。だけど知らなかったことにすれば、一刻だけでも長く、あたしはここにいられる。
「明日こそ確かめる。遅くなってごめんマリー、お姉ちゃんが助けに行くからね」
そしてまた、魘されるだけの夜が来る。
あたしは壊れてしまいそうだった。
――もう、逃げ続けることすら無理になったのは、二週間もあとのこと。
サイズの確認に、指輪をグラナド城へ運んだ王子様が戻ってきた。これでオーケー、ぴったりだったと言う。
そこで初めて、あたしは仮留めされた宝石を見た。コーヒーを出しながら、思わずつぶやく。
「……すごい、綺麗な宝石……」
「レッドダイヤモンド。これだけのサイズと透明度は、この世に二つとないだろうね」
王子様は得意げに言った。
「希少なイエローダイヤより、さらに珍しくて価値が高い……キュロス君は、どうしてもこれを贈りたかったんだって。花嫁の髪がこれと同じ、目の覚めるような赤色だからさ」
小さな鞄に、ひとつひとつ、思い出を詰め込んでいく。よく砥がれたハサミと小鎚は、ノーマンから譲り受けたもの。七色の絹糸はあたしが働いた報酬で買ったもの。燕の形をした木の釦は、あたしが削り出したもの。
「あっそうだ、あれを忘れちゃいけないわ」
あたしは作業台から小刀を持ち出した。ノーマンからもらった、彫刻用の小刀だった。なんとなく鞄に入れるのはもったいなくて、ツナギのポケットに、小刀を入れた。
――三か月。あたしの小さな体から、あふれてしまうくらいたくさんのものを得たつもりだったけど、鞄に入れれば、なんとも小さなものばかり。あいた隙間を埋めるように、あたしはピンクのドレスを押し込んだ。市場の古着屋で買った安物だけど、ちゃんと女の子に見える服……。
もう一つ、立派な化粧箱を用意する。男装の麗人衣装……馬車の中で縫い上げ、この工房で仕立て上げたものだ。丁寧に畳んで入れておく。
小さな鞄と、大きな箱を抱えて、わたくしはノーマンに呼びかけた。
「ノーマン。出かけてまいります」
ノーマンは驚いたように振り向いて、盲いた双眸でわたくしを見つめた。
「なんだアーサー、変なしゃべり方をして。買い出しか、それとも飯か?」
「……いえ……少し遠くまで」
「そうかい。気を付けていきなさい」
「ええ、ノーマンも……。……どうか体に気を付けて、長生きをしてね……」
うっかりしゃくりあげてしまう前に、わたくしは部屋を飛び出した。工房の扉を開き、職人街の道へ出て――すぐそこにいた、小柄な女とぶつかった。
わたくしとさほど変わらぬ体格なのに、わたくしだけが吹っ飛んで、女はびくともしなかった。どこかのメイドだろうか、黒い侍女服におさげ髪、無表情……死神のような女は、しりもちをついたわたくしに手を差し出す。
「恐れ入ります。スミス・ノーマンの弟子、アーサー様ですね? グラナド城の主キュロス・グラナド伯爵と、その婚約者マリー・シャデラン様が、あなたをお呼びでいらっしゃいます」
――わかっていたことだった。
本当は、もっとずっと、最初から。あの下衆男から逃げ延びたのに、実家にも嫁ぎ先にも連絡を入れず、死んだことにしたあの日から。
いつまでも、甘い夢に逃避し続けていられないってことも、もしかするとマリーが、身代わりにされるのではという可能性も。
そう、わたくしは気が付いていたの。それでも逃げ続けた。
三か月もの間、マリーが何をされ、どんな思いでいたのか。憂いを持てば気が狂いそうになるからと、考えすらしないようにしていた。
何を差し出したって、償えるわけがない。もちろん、あの衣装だって同じだ。これは伯爵夫妻への婚約祝いなんかじゃなかった。
これは、わたくしが生きているという暗号。
他の誰もが理解できなくても、マリーならこれを見ただけで理解する。きっと妹は大喜びで、婚約者に姉の生存を報告し、わたくしと入れ替わるよう提案するだろう。
そうなったら……それで、終わりだ。
その覚悟は決めていたけど、同時にほんのわずかな期待を捨てきれないでいた。
案外マリーも、綺麗なお城で贅沢な暮らしをして、幸福になっているかもしれない。この衣装を見ても無視をして、引き続き伯爵の妻でいようとするかもしれない。
……もしそうだったら……アナスタジアは、死んだままでいられる。
「到着しました、どうぞ」
侍女に導かれ、ノーマンが先に馬車を降りる。わたくしは、服が汚れているので着替えたいと主張した。『婚約祝い』をノーマンに託し、マリーに渡してくれるようにとお願いする。
一人残された馬車の中で、わたくしはピンクのドレスを取り出した。
……マリーと伯爵が、わたくしを迎えに出てくれば、これに着替える。もしもそうならなかったら……馬車の扉が開かれるのが、「遅いぞ」というノーマン爺のお叱りだったら……。
「……そんなわけないじゃない……」
――ああ。覚悟をしたはずなのに、まだ夢から抜け出せない。
往生際が悪い。質素で勉強家で、恋にもおしゃれにも興味のなかったマリーが、伯爵夫人の暮らしを楽しんでいるわけがないじゃないか。
わかってるのに……分かってるのに!
「勇気を……! 勇気を……!」
――結局……わたくしはドレスに袖を通すことが出来なかった。
馬車に近づく足音を聞いた瞬間、ドレスを投げ出し逃げてしまった。
そのまま職人街まで帰ってしまおうかと思ったけど、それじゃいけないと足が止まった。城のすぐ近くに身をひそめ、門を見つめながら、あと十を数えたら中へ戻ろう、あと十回、息を吐いたら門へ向かおうと……。そうしてとうとう、深夜にまでなってしまったのだ。
「わたくしは、なんて弱い人間なの」
その時だった。
大きな馬車が門から出てきた……と思った直後、なんかデカい男が一人、全力疾走で追いかけてきた。おおっすごい、足が速い……けど、馬車も全くスピードを緩めない。馬車と男はあたりをぐるぐる回って、男は何度も「止まれミオ!」と叫んでいたけどなぜか御者には無視されて、とうとう屋根に飛び移ったもののやはり止まらず、むしろ急加速してぶっとばす。
爆走する馬車の上で、男が「無理! 死ぬ!」とか悲鳴をあげ……そのまま、馬車は城へと戻っていった。
一部始終を見ていたあたしは、目を点にしたまま呟いた。
「なんだあれ」
シュールな喜劇を観ている間に、涙は引っ込んでしまっていた。いつの間にか、体の震えも収まっている。
バシバシッと、あたしは自分の顔を叩いた。
「――よし! 勇気をっ!」
そして、あたしは城へと戻っていった。
夜の城に忍び込み、身を潜めているのは容易だった。初めてくる場所だけど、なんとなく伯爵夫人が居そうな――心地よい寝室がありそうな、館の玄関口を張る。
誰かが通りがかったら、マリーの部屋を尋ねよう。しかしなぜか、人の気配がない。おかしいな、確かに真夜中だけど、それにしても使用人が少なすぎるのでは? まるで葬式みたいに静まり返っている。
そういえば――と、事前に聴いていた、キュロス・グラナドの悪評が脳裏をよぎる。
使用人にも容赦の無い、傲慢な城主。マリーがもし伯爵の慰みものにされているならば、監禁まがいことをされているのでは? わたくしが名乗り出ても姉妹まとめて囚われるだけなのでは。それじゃ何にもならない、なんとしてもマリーと二人だけで話を、伯爵に気付かれる前にしなくては。
その時、誰かがやってきた。夜明け前の一番暗い刻――顔も髪色も見えないが、ヒールの音とスカートの広がりから女性だとわかる。
いけない、館に入って行っちゃう! わたくしは慌てて飛び出した。ポケットに入れたままだった、彫刻用の小刀をちらつかせて。
「動くな! マリー・シャデランの部屋はどこだ?」
――これが……シャデランの家を出てから、マリーと再会するまでの、あたしのすべて。
ノーマンの家にいた三か月間、夢のように楽しかったけど、悪夢みたいに苦しかった。
罪悪感で狂いそうになりながら、それでも勇気を出せなかった。
ごめんねマリー。本当にごめんなさい。弱いお姉ちゃんでごめんなさい。
もう逃げないわ。あたしはあたしの役目を果たす。大丈夫よ、お姉ちゃんはずっとそうして生きてきたの。大丈夫だから、遠慮しないでちゃんと教えて。
――ねえマリー、あなた本当につらいことはなかったの? 何も痛いことや、怖いことはされてないの? あの伯爵は優しいの? 何も我慢してない? 泣かされてない?
教えてマリー。あなたは今、本当に幸せに暮らしているの?
――アナスタジアお姉様は、わたしの胸に縋り付き、泣きじゃくりながらそう言った。
すっかり日は登り切り、昼の光が部屋を明るく照らしている。だけどわたしたちはまだベッドに寝転がったまま、二人きりで、アナスタジアの独白を聞いていた。
小さな肩を震えさせ、気丈な言葉を並べるアナスタジア。わたしにはそれが、悲鳴にしか聞こえなかった。
大丈夫よマリー、お姉ちゃんに任せて――助けてマリー、あたし怖い。
わたしは無言のまま、姉の背中を撫で続けた。
扉がノックされる。
訪問者はグラナド城の主、キュロス伯爵と、侍従頭のミオ、執事のウォルフガングと、公爵の妻リュー・リュー夫人までが揃っていた。
「……話は、あらかた済んだか?」
問うてくるキュロス様に、わたしは何よりまず、礼を言う。
「はい。姉の話を、まずは二人きりで聞かせてほしいというお願いを聞いていただき、ありがとうございました」
「ああ……腹を割って、わだかまりがなくなったなら何よりだ。……それで、今後のことなんだが――」
シーツの下で姉が震える。わたしはキュロス様の口上を遮って、大きな声で言った。
「何よりもまず、スミス・ノーマンに連絡を入れてください。『アーサー』はほんのしばらくこちらに滞在するけれど、かならず、ノーマンの家へお返しすると」
姉がシーツを跳ね上げ、飛び出した。涙と洟で水浸しの顔を、わたしはハンカチーフでぬぐってあげた。とうとう声をあげて泣き出したアナスタジアを胸に抱き、慰める。
そんなわたしに、キュロス様は眉を垂らした。
「案外、落ちついてるなマリー。アナスタジアと一緒に泣いているんじゃないかと思っていた」
確かに、泣きはしていない。泣いている場合ではなかったから。
わたしは首を振り、キュロス様をまっすぐ見つめる。今までになく冷静で、かつて口にしたことない言葉をわたしは発した。
「わたしは今、激怒をしておりますので」




