カラッポ姫は生きている 中編
一日に2本連続投稿、1本目です。
揺れる荷馬車で、四日間の旅――わたくしは、裁縫をして時間をつぶしていた。一着だけ、完成間近の衣装を道具とともに持ち出していたのだ。
それは防寒着としてもたいへん重宝した。毛布は御者が占領しており、一緒に入れと言われるのだ。わたくしはその服をマントのように肩にかけ、ついでに肌も隠していた。
ガタゴトガタゴト……本当に、よく揺れる馬車だ。浅い眠りを繰り返しながら、毎日夢を見る。
油くさい職人街の工房で、粗野な男のひとたちに混じって、工房を立ち上げる夢だ。
――服飾職人になりたい。やりがいのある仕事をして、気の置けない友人たちと、笑ったり怒ったりしながら、人間らしく生きていきたい。
結婚なんてしたくない。
そんな贅沢な夢なんて、もうとっくに捨てたつもりだった。
――だけども、あんな目にあうことまでは覚悟してなかったわ。
「やめて!」
腹の上に、男が馬乗りになっている。体重だけでわたくしを拘束して、その男はドレスのボタンと格闘していた。
「くそったれ。お嬢様の服ってのは、脱がしにくくってかなわねえ」
全力で抵抗したのにびくともしない。わたくしはただ意味もなく手足をばたつかせていた。
がしゃんっ! ――足が、鞄を蹴り上げたらしい。旅の荷物が床に散らばる。
「あーうるせ、じっとしてろっ!」
「ぎゃっ!」
頬を叩かれた。わたくしの脆弱な首は、そんな衝撃にも耐えられなくて、目を回してしまう。ろれつの回らない舌で、言葉の抵抗を試みる。
「あ、あなた、自分がどうなるか、わかっているの? わたくし、は、伯爵さまの婚約者。この身はすでに彼のものです。こんなことをして、伯爵に知られたら、あ、あなたは終わりよ……!」
自分としては、会心の脅し文句のつもりだった。しかし男はむしろ、にやりと笑った。
「さあ、どうだろう。案外終わるのは、オレじゃなくてあんたのほうかもよご令嬢。大貴族の当主ならほかに婚約者候補はいくらでもいる。外国人に穢された男爵令嬢なんかを嫁にするかねえ?」
「な――なんですって?」
「下手すりゃ、あんたの方が姦通罪で叩き出され、男爵家に賠償請求が来たりしてな。そしたら――くくっ、あのケチなお父様が、家に入れてくれたら嬉しいなぁ」
そ……そんなこと……お父様は……伯爵様だって、まさか……。
硬直したわたくしを、男は嗤う。
「お互い、内緒にしておいたほうが身のためだ。だってあんた、『綺麗な体が金になる』以外に、何の価値もないだろう」
目の前が真っ暗になった。酷い侮辱をされ、怒りのあまり……ではなかった。
……その通りだって、一瞬でも、男の言葉に納得してしまったから。
わたくしが脱力したのを見て取り、機嫌よく服を脱がしていく男。下着まではぎ取ったところで、今度は自分が脱ぎ始める。醜悪なものが目に入らないよう、わたくしは顔を背けた。
――霞む視界に、何かが光った。夜闇のなか、一条の月明りに反射して、きらきらと銀色に光っているもの。
さっき鞄を蹴り上げて、ぶちまけてしまった物だろうか。何だろうアレ。きれいだ……。
仰向けに寝転がったまま、あたしは手を伸ばしてみた。指先に堅いものが当たる。瞬間、あたしは理解した。それはもう何年も使い続けているあたしの愛用品、裁縫用の、大きな裁ちばさみだった。
――何も考えなかった。あたしはそれを握りしめ、自分の肌に触れている、男の指を切りつけた。
――ギャッ! という、男の悲鳴が愉快だった。指を押さえて絶叫する、男の股間を蹴り上げて、あたしは飛び起きた。もう一発男を蹴り飛ばし、大きな声であたしは叫んだ。
「痛いかざまあみろ、クソ野郎!!」
男が呻きながら、あたしのほうへ手を伸ばす。ドレスなんて着ている暇はない、そばにあった布状の何か――手製の男装服をひっつかんで、あたしは馬車から飛び出した。
そこは運河の河川敷だった。真っ暗闇で、すぐそばをごうごうと大量の水が流れている。裸足で川石を踏みながら、あたしは走った。
追いつかれたのは案外すぐのことだった。後ろから髪を掴まれ、地面に引き倒される。
「逃がしてたまるか……!」
男も必死だった。未遂のまま逃げ延びられてしまったら、男の人生が終わる。もう欲望などではない、保身のために、男はわたくしを組み伏した。
顔は半分、砂利に埋まっているけど大丈夫、ハサミはまだこの手にある。あたしは再度、男の指を切りつけた。悲鳴が上がったが、髪を手放しはしなかった。
「――ええいっ、鬱陶しいっ!」
あたしは、自分の髪を切った。髪の大部分が男の手中に残り、代わりにあたしは自由になった。
また追いかけてくる足音がする。追いかけっこでは逃げきれないと悟った。
幸い、夜の闇は深い。まだ距離があるうちにとあたしは赤ん坊ほどある大きな石を持ち上げ――上げ、うっ、上がらな……上げたっ!
よいしょぉおおおっ!
という、気合の声は心の中でこっそりと。あたしは石を、濁流に向かって放り投げた。
――どぼぉんっ。激しい水音と水柱。
「まさか、落ちたのかっ!?」
川辺に駆け寄り、水面を覗き込む男。その隙にわたしは闇に紛れてこっそり、そうっと、そうっと……。
距離を取ってから、木の陰で様子をうかがう。男は「どうしようどうしよう」と頭を抱えながら、馬車のほうへ戻っていった。
その背中が完全に見えなくなって――あたしは笑った。
「ばーかばーか、騙された!」
爽快だ。愉快だった。大きなことを成し遂げた気分だった。
高笑いしながら、街道を歩く。
裸に、男物の服をやっと一枚羽織っているだけ。長年伸ばし続けた金髪は、肩より上くらいに短いのにでたらめに切ったせいでボサボサ。無一文、食べ物も水もなんにもない。
すっからかんのカラッポだ。
あーあ、ひどいことになっちゃった。こんな格好で、伯爵を訪ねても門前払いになるだろうな。お父様はあたしを勘当して、お母様は泣き叫び失神しちゃったりするんだろうな。そしたらあたしには何にもない。あたしの人生終了だ。
それでもあたしは、愉快だった。
「逃げ延びてやったわ、ざまあみろ。ざまあみろ畜生――ちくしょう。……ちくしょう。あたし生きてる……」
春になったばかりの、ディルツ王国の夜は冷える。
手も足もしびれて、今にも気絶しそうだった。帰るところなんてどこにもない、何の道しるべもない中を歩いて……ただ歩いて……。
ガラガラガラ……舗装された道を車輪が走る音。直後、けたたましい馬のいななきと、男の叫び声がした。
「――うわっあぶねえっ! なんだ坊主、道の真ん中ふらふら歩いてんじゃねえぞっ」
顔を上げたとたん、あたしは後ろむきに昏倒した。
馬車に乗っていた、スミス・ノーマンという老人は、王都職人街の釦職人だった。二年前に引退し田舎へ引き上げたが、大口の仕事に呼ばれて王都に戻る途中だったという。
助けられたのだと気づいたのは、目の前にホットミルクを差し出された時。
寝起きでぼんやりしているあたしに、ノーマン爺は嘆息した。
「礼くらい言ったらどうだ、坊主」
「ぼ、ぼうずっ?」
一瞬混乱したが、そういえば自分は髪を切り、男物の服を着ていたと思い出す。ついでに体型も――いやそれにしたって、二十歳の女が、少年に見えるものだろうか。
「なんだ違ったか? 御者がそう呼んだから、子供だと思っておった」
そこであたしは初めて、老人の目が白く濁っているのに気が付いた。もしかしてこの老人、目が……。
だとしたら幸運だ。老人と言えども男、あたしが女と知られたら、何をされるか分からない。もうあんな目に遭うのは御免だった。
「ち、違わない。あの、助けてくれてありがとう。ご迷惑をおかけしました」
「坊主、名前は?」
「わた、オイラは、ア――アーサー」
「アーサーか。お前さんどこへ行こうとしていたんだ? 家はどこだ。家族は」
重ねられる質問に、あたしは一つも答えられなかった。素性を知られたら、伯爵か実家のどちらかに連れていかれるだろう。それは避けられないことだけど……せめてあと半日、心身を休めたかった。あたしは自分が男の子であるのを前提に、家が貧しく変態野郎に売られたのだと、実情とほぼ変わらぬ嘘を伝えた。
拙い嘘を、老人は信じてくれたらしい。
「そうか……まあ、ゆっくりしていきなさい。大した賄いはできんがね。儂は仕事をせねばならん」
「仕事……そういえば、目が見えないのにどうやってるんだ?」
「材料や細工は、手触りでわかる。機材の置き場所も、出て行ったときのまんまだから覚えている」
なるほど。そういえばこのホットミルクも彼がいれてくれたのだ。この工房兼自宅内ならほとんど不便はないらしい。
「しかし、文字が読めん。材料の発注や客からの注文、名前や住所のメモも取れなくなってしもうた。ひとりもんにはどうにもならんわ」
翌朝、あたしはノーマンの工房を見学させてもらった。
釦屋と聞いて、地味な販売店かと思ったのはまったくの誤解だった。量産したものを売るのではなく、顧客の要望に合わせ完全オーダーメイドで削り出す。象牙や本物の宝石を使い、シンプルな布一枚をそれで留め、ドレスにしてしまうようなものだった。それはもう、あたしの中の釦という概念を覆し、宝飾品と呼べるものだった。実際その技術を買われ、ブローチですらない宝飾品も請け負っていた。
今やっている仕事も、依頼主はこの国の第三王子様、国宝級の石を使った婚約指輪だというから驚きだ。
工房には貴金属だけでなくたくさんの布と糸、なめし皮、出来上がった服までたくさんあった。主役はあくまで釦ではあるが、ノーマンは……服飾職でもあった。
ふと、あたしの中に、邪ともいえる打算が思い浮かぶ。
あたしはノーマンの代わりに字が読める。受付として、ここで雇ってもらえないかな……?
「号外です! お知らせですよー!」
窓に新聞が投げ入れられた。王都ではよくある光景らしい、ノーマンは少々迷惑そうにしながらも、あたしにそれを読んでくれと言った。よし任せろと言ってあたしは新聞紙を広げ……ひっと小さく悲鳴を上げた。
――昨日深夜、王都ほど近くの運河で事故発生。流され行方不明となった婚約者、アナスタジア・シャデランの目撃情報を求む。当城まで送り届けた者には、望むだけの報酬を――キュロス・グラナド。
「どうしたアーサー、何の記事だった」
「あ……っ、アヒルが、市場でアヒルの丸焼きが大安売り! だってさ!」
あたしは新聞を丸めて潰した。
ノーマンとのぎこちない同居は、そのまま二日間続いた。三日目、ノーマンが昼寝をしているときに、通りすがりの客がやってきた。あたしは帽子で顔を隠しながら、ノーマンは一つの仕事にかかりきりだが、もしかしたら請けるというかもしれない。聞いておくのでお名前と注文内容を書いてくれと受け付けた。
結局ノーマンはその仕事は断ったけど、また客が来たら注文を聞いてくれと頼まれた。釦屋ノーマンはやはり人気があって、復活を知った客が毎日のようにやってきた。あたしはその受付と在庫の販売、御用聞きや、買い出しのお使いもこなした。
あるとき、ひとりの紳士がオーダーメイドにやってきた。
「マントを留める釦ブローチと、揃いのキャメルのヴェストが欲しいんだ。高級素材でなくても構わないが、ちょいと面白いデザインのものがいい」
メモの内容を聞いたノーマンは、その仕事を受けると言った。この工房を再開して初めてのことだ。驚いたあたしに、ノーマンは言った。
「アーサー、その仕事、出来るところまでお前がやってみろ」
「え!? い、いいのか!?」
「いいから言っている。作業場は、空いとるスペースに勝手に作れ。わからないところがあれば聞きに来い。よろしく頼むぞ」
あたしは茫然としながらも、深く頷いた。
さらに二週間がたった、ある日……
「やあノーマン、作業の進みはどうだい?」
なんだかやたらとキラキラした、白っぽい美男子がやってきた。聞くと、これが例の王子様らしい。『王子様』を擬人化したみたいな美男子は、実際に王子様だった。
「おや? そちらにいるのは?」
「ああ、しばらく前に拾ってな。名前はアーサー」
上機嫌になり、あたしを紹介し始めるノーマン。まずい。第三王子なら、もしかしたら社交界に顔を出したことがあるかもしれない。
「お茶を淹れてくる」
あたしは帽子を目深にかぶり、そそくさとキッチンへ引っ込んだ。ケトルから上がる湯気越しに、二人の会話が聞こえてくる。
「すまないがノーマン、ちょっとだけ仕様変更をお願いしたくてさ」
「なんですか、もう型は作っちまいましたよ。今更サイズの変更は厳しいですな」
「サイズはそのままでいいんだけど、刻印する名前が変わってね」
「は? グラナド伯爵、この土壇場で婚約者を取り換えたってんですか?」
――グラナド伯爵。あたしは手が震えた。あの婚約指輪は、王子様の妃のものではなかったのか。では伯爵は、『死んだ』あたしとの結婚を諦めて、新しい婚約者を……。
思わず、顔がほころぶ。あたしは大量のコーヒー豆に、たぶん沸いたと思しき水をぶっかけて、王子様に出してあげた。
「いや、ちょっと行き違いがあってね、というわけでこっちの名前に変更を頼む――っと、メモは読めないのか」
「構いませんよ、弟子に読んでもらうので」
「ほお、さっきのは弟子だったのか! それは何より。ノーマン工房はこれで安泰だな」
王子は大きな声を上げ、大げさにノーマンを冷やかした。ノーマンはそれ以上何も言わなかった。
客が帰った後、あたしはそっと、ノーマンのそばに寄って行った。
「ノーマン爺……あの。弟子って……」
「ああ全く、お前の淹れるコーヒーはいつまでたっても不味いのう。あんな繊細な飾り彫りまで出来るようになったのに、料理関係は見込み無しだな」
それは不愛想な職人の、精いっぱいの誉め言葉……。
「そんな驚くようなことでもあるまい。アーサーはもう、いくつも仕事をこなしたじゃないか」
「それは……失敗してもいいような、小さな仕事だからでは……?」
「客から金をもらうのに、失敗していいものがあるか。儂は、お前なら出来ると思ったから回したんだ」
「! ど、どうして!?」
「初めて会った時の服、あれはお前さんの仕立てだな?」
あたしは神妙に頷いた。手の感触で素材を見分ける職人は、あたしの服が普通でない……男物、女物どちらもの定石を破って作られていると、出会ったその日に気づいていたのだ。
「儂は知っておるぞ。お前がいつも、儂の仕事を見物し、熱心にメモをとっていたこと。あまりものを使ってちまちま細工をしていたこと、毎晩スケッチブックに、デザイン画を描き連ねていることも……」
スケッチを持ってこいと促され、ベッドの下から取り出す。ノーマンは見えない目を開き、あたしのデザイン画を指で撫でた。
「残念ながら、儂にはこの絵がほとんど見えん。お前が考えたこの衣装が、どんなに面白く素敵なものなのか……これが実物の服になれば、この手で触って理解るものを。
正直に言うと、儂はそれが目当てでお前を拾い住まわせた。……寂しい老人のお願いじゃ。アーサーよ、どうかお前のアイディアを、儂に視せてくれないか?」
――ノーマンの目が見えなくてよかった。もし見えていたら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったあたしの顔に、呆れて笑っただろうから。
嬉しいことばかりがあったこの日……あたしは浮かれていた。手前の仕事に夢中になって、ノーマンの作業場には近づかなかった。
王子様から預かったメモは、ノーマン自身が作業場の壁に貼り付けた。そこにあるスペル――伯爵の花嫁の名を確認したのは、現物に刻印を入れるその日。
「アーサー、スペルを読み上げてくれないか」
――マリーと書かれたメモを見て、あたしの視界は暗転した。




