ずたぼろ令嬢は姉と婚約者に溺愛されている
――どうしよう?
わたしは思考を巡らせていた。
暴漢は、背後からわたしの首に腕を巻き付け、ぶら下がるみたいに締め付けている。どうやらわたしより背が低いらしく、腕も細い。それがなおさら首に食い込んで動けない。
わたしはのけぞったまま、喘ぐように言葉を紡いだ。
「マ……マリー様に、何をするつもり?」
「話をするだけだ」
「何を言うの? 話なら、侍女のわたしが聞きます」
「お前には関係ない」
「では、夜が明けてから、グラナド伯爵を通して……」
「関係ないと言っただろう! いいから、マリーに会わせろ!」
城のひとに言えないようなことを、わたしにするということか。
一体誰の恨みで? 恨みを買うほどの人付き合いをしていないわたし。キュロス様と婚約したことが理由だろうか。グラナドの利権目当ての貴族や商家か、キュロス様自身を慕っていた娘の逆恨みかはわからないが、ありえる。いずれにせよ、自分がマリーだと名乗っては危険だわ。
「……マリー様のお部屋は……まず正門に戻って、石城の一階、メインフロアのそばです」
「嘘をつくな。伯爵夫人の寝室がそんなところにあるものか」
「マ、マリー・シャデランは、貧しい男爵の家から買われてきた娘。伯爵の寵愛を受けることなどなく、使用人の部屋に寝泊まりしているのです」
かなり苦しい言い訳だと思ったけど、暴漢は何故か、あっさり信じたようだった。ちっ、と舌打ちする。
「そうか……人目につきそうで面倒だな。……仕方ない。せめてまだ暗いうちに、さっさと攫っていく」
攫う!? では、わたしを傷つける目的ではなく、キュロス様を脅迫、交渉材料に使うつもりだったのね。グラナド商会のライバル、貴族の関係? いやだ、キュロス様にご迷惑をかけたくない。
一瞬、この場で自害をするべきかと思った。
だけどすぐ考え直す。彼は絶対にそれを望んでない。むしろ――だったら、この場でわたしが取るべき行動は――
「っ……たっ――助けて! 誰かぁーーっ!! 誰か来てーーーーっ!!」
「なっ!?」
暴漢はギョッとして、慌てて腕の力を強め、わたしの首を絞めた。案の定、ナイフは使わない。わたしを傷つけたくはないものね。
わたしは一度腰を落としてから、飛び上がるように身体を伸ばした。わたしより背の低い暴漢を背負う。
暴漢の両足が宙に浮いた。首がさらに締まったけども、こちらは手を縛られてるわけじゃない。伊達に長年、薪割りやってきてないんだからっ。両手で暴漢の腕を鷲掴みにし、力任せに引き剥がす。
「――ひきゃっ? あいたっ」
暴漢は案外かわいい悲鳴を上げて、地面に落下。わたしは振り向きもせず駆け出した。不意打ちで抜け出すだけならともかく、まともに向き合えるような格闘術なんて習ってないもの。だけどグラナド城には、わたしよりずっと強いひとたちがたくさんいる。
城に向かって走る。使用人たちの何人かはこの近くにいるはずだった。信じられないくらい強い侍女や、キュロス様だっている。
わたしがするべきことは、彼らに自分のピンチを報せること!
「助けてーっ!」
だけど城に辿り着く前に、髪を掴まれた。痛みにつんのめり、膝を落としたところを馬乗りされた。
「騒ぐなってば! 大丈夫、マリーを傷つけたりしない!」
背中に乗られたまま、わたしはどうにか顔を振り向かせ、暴漢の顔を見ようとした。朝日はほとんど昇りきり、ずいぶん明るくなってきた。せめて相手の特徴を、ダイイングメッセージで遺さないと。だから顔を。顔を……。
…………えっ?
「綺麗な顔に傷を作りたくないだろう、そのまま大人しく……綺麗な、顔……。顔が……」
『暴漢』の声が細くなっていく。
目深にかぶった帽子の奥で、青い瞳を大きく見開く。金色の長い睫毛をパチパチさせて、「えっ?」と疑問符を浮かべた。
次の瞬間、その身体が宙に浮いた。
「わわっ? ――あ!」
「キュロス様!」
『暴漢』の後ろ襟を掴んで持ち上げたのは、グラナド城の主そのひとだった。キュロス・グラナド伯爵は背が高い。『暴漢』を猫の子みたいにつまみ上げると、大きな身体をしならせて、遠くにむかって投げ飛ばした。
人間が、弧を描いて宙を飛ぶ。――壁に激突する! と、危ないところで、ミオがキャッチ。小柄な自分よりさらに小さい『暴漢』に、眉を顰めた。
「軽い?」
投げ飛ばしたキュロス様も、同じ感想を持ったらしかった。右手を見下ろし不思議そうな顔。
だけどそれよりも、とすぐにわたしを抱き起こす。
「マリー! 無事かっ?」
「だ、大丈夫です、ありがとうございます……」
「やっぱりマリーなの!?」
ミオに後ろ手をねじり上げられたまま、『暴漢』は叫ぶ。投げ飛ばされた勢いで、帽子がなくなっていた。むき出しになった顔を見て、キュロス様は首を傾げた。
「お前、アーサー、だな?」
「……いえ。姉の……アナスタジア、です」
わたしは断言した。
キュロス様は、エッと怪訝な声を上げた。
「あれがアナスタジア!? まさか……あんな感じだったか?」
姉との面識はないが、遠目に見たことがあるというキュロス様だから、なおさら違和感が強いだろう。姉の姿は、わたしの記憶とも変わり果てていた。
見事な金髪は、耳の辺りまでバッサリと短く切られていた。そのくせ前髪やサイドはほったらかしで、クセがあるためクシャクシャふわふわ、金色の毛玉のよう。隙間からわずかに、あの青い目が覗いていなければ、わたしにも分からなかったかもしれない。
服はスミス・ノーマンが着ていたものによく似ていた。だぶつくほど大きなシャツにオーバーオールのズボン。職人の作業服らしく、大きなポケットがいっぱいついている。
全体的に、薄汚れていた。不潔ではないが、ロクな洗剤を使っていないのだろう。いや洗うそばから汚れてしまうのか。服も、髪も肌も、土埃や塗料でくすんでいた。
どう見ても、職人見習いの少年。だけど鮮やかな青の大きな眼、小さな鼻にぷくんと丸い唇、ふっくらした頬に細い顎の、天使のような美貌は変わらない。
アナスタジア・シャデランお姉様……だった。
「ミオ、お姉様を放し……」
「マリーから離れなさいよ、大男!」
姉は叫んだ。自分を締め上げる侍女よりも、わたしの方を抱くキュロス様をまっすぐに睨んで。
キュロス様は、姉だと理解しても警戒を解かなかった。わたしを護りながら、状況を確認する。
「俺はさっき起きて、君を迎えにきたところでちょうど居合わせただけだ。何があった? アナスタジアがなぜここにいる」
「王都に帰ったふりをして、城に忍び込んでいたのでしょう」
姉の腕を捻ったまま、ミオが言う。
「この城に着く前に着ていたのと同じ格好です。着替えるというのも嘘だったわけですね」
「き、着替えようとは思ったんだよ、本当に」
妙なところの言い訳をするお姉様。
「けど、そしたらさすがに、オイラの正体がノーマン爺にもバレちまうし。『女』に戻るのは、マリーと入れ替わってからでいいかなと思って……」
「オイラ?」
「入れ替わる?」
わたしとキュロス様が同時に呟く。姉はしばらくまだモゴモゴしていたけど、またキッと強い眼差しで、キュロス様を睨んだ。
「ああ、伯爵の婚約者はオイラ――わ、わたくしが、適任でしょう。いますぐマリーとの婚約を解消し、わたくしを娶ってくださいませ」
「お姉様……!?」
キュロス様は、ミオに合図を出した。解放された姉はすぐ、わたしのもとへ駆けつけて、キュロス様から引き剥がす。
わたしよりも小さなお姉ちゃんは、わたしを背中に庇い、大きなキュロス様の前に立ちはだかった。
「もともと、あなたが求婚したのはわたくしですもの。……死んだふりをして、無断の婚約破棄をしたのは深くお詫び申し上げます。だけど妹が身代わりにされるなんて、思わなかった。シャデランの姉妹は全く似ていないから……。
――グラナド卿。わたくしはこうして帰って参りました。貴族の娘を嫁にして、子を産ませたいだけなら、このわたくしで事足りるでしょう?」
「……ああ。それは、その通りだが」
なんとも言いがたく、困惑するキュロス様。わたしは姉の背中をつついた。
「あのう、お姉様。お姉様が、キュロス様と結婚……したいわけじゃないですよね……?」
「当たり前でしょう、女の胎を金と権威で買うようなクズ」
「おい」
さすがに半眼になるキュロス様。腕を組み、大きな身体をさらに膨らませて、アナスタジアを睨み付けた。
「俺はそういうのじゃない。けど、それはそうとして、政略結婚は一般的な婚姻方法のひとつだ。家同士の結びつきであり、大体は親が決めるもので、子が好みの娼婦を買うのとは全く違う」
「じゃあ親が買ってきた女をアリガトウパパママーって抱く糞」
「おいおい」
というツッコミは、ミオが呟いた。キュロス様は眉を跳ね上げる。
「違うと言ってるだろうが。俺は嫌がる女を囲ったりなんてしない」
「はい? 現にわたくし有無も言わさず馬車に放り込まれましたけど? 『事故死』の直後に妹が攫われて、ここに監禁されていますけど?」
「攫ってないし監禁してないっ。えっと君の件は色々と申し訳ないことがあってあんまり強く出られないのだが、それはそれで。マリーは大事にしているぞ」
「大事にぃ? こんな明け方まで働かせて、使用人の部屋で寝泊まりさせてるのに!?」
「あ、お姉様、それはわたしの嘘です」
という、わたしの声は、続くキュロス様の怒号に掻き消された。
「無理に働かせてなんかない! 実際色々やってくれているが、それはマリーが望んで始めたことだ。マリーは贅沢なドレスで着飾るよりも、そうして努力を続けるほうが居心地がいいみたいだから――」
「うちの親と同じこと言ってんじゃねぇーわよこの宿六! いくらなんでもあのずたぼろが、マリーの好みだなんてガキでも信じないっつーの!」
「いや待て見ろ、もうずたぼろじゃないだろうが! 綺麗だろうが!」
「だからそれが無理矢理だって言ってるのよ腐れ外道! マリーはこんな可愛らしい、フリフリヒラヒラの綺麗なドレスは、大嫌いなの!」
大きな声で断言されて、わたしはヒックとシャックリをした。
ん?
「マリーはね、勉強が好きなの。男の子との恋愛なんて興味がないの。貴族の暮らしより、異国の下町文化に憧れていたのよ。それをこんな無理矢理……!
ごめんねマリー。わたくしが逃げたばっかりに、辛い役目をあなたに負わせてしまって。伯爵の新しい婚約者があなただなんて、つい昨日に聞いたばかりなの。お姉ちゃんばっかり、好きなことしててごめん。ごめんね……」
「あ……あの……お姉様。……なにか、すごく、大きな誤解があるような……?」
「ごめんなさい。髪はまた伸ばすし、職人のまねごとも、もう……辞めるから……」
姉はグイと涙を拭うと、再び、キュロス様に向き直った。
「さあ伯爵。わたくし、もう逃げも隠れもいたしませんわ。わたくしのこと、お好きなようになさいませ」
キュロス様は、まっすぐに姉を見据えていた。
それは、不幸な事故の被害者を憐れむ目でもなく、可憐な美女を慈しむ表情でもない。
天敵と対峙したように、胸を張って、威嚇していた。
「……俺は、マリーを愛している」
そう低い声で言った。姉は応えた。
「わたくしのほうが、マリーを愛しております」
キュロス様も引かない。
「マリーも、俺を愛してくれている」
「あなたがそう思い込んでいるだけね」
「思い込んでいるのはどっちだ。君も、いくらか両親に騙されているようだな」
「いいえマリーはあなたを憎んでいるわ」
「大切にしているつもりだ」
「だったらどうして別々の部屋で寝ているの? 愛し合っている婚約者なら、同じ寝室に――」
「それがっ、出来るものなら! とっくの昔にそうしているっ!」
キュロス様は絶叫した。
堅く拳を握りしめ、わたしと姉に向かって――朝露のきらめく庭園の真ん中で、彼は精一杯、主張をした。
「金や権力で思い通りになるならば、出会ったその日に攫ってる! マリーを傷つけるシャデラン家など滅ぼして、求婚の手紙や親への目通し、婚約式などもすっ飛ばし、仕事も何もかも放り出して、マリーと二人旅に出る! 部屋の床にバラの花びらを敷き詰めて、ふかふかのベッドに寝かせ、甘いケーキを口に運んで呑み込むたびにキスをして、毎日毎日毎日毎日! 朝から晩までずっとずーーっと、抱いて抱いて抱きまくって、一瞬たりとも手放すものか! でもマリーに嫌われたくないしちょっとでも嫌な思いをさせたくないし、独り占めしたら使用人のみんなが怒ってくるから我慢してるんだ、正直結構前からいっぱいいっぱいだ! 当たり前だろう、これが恋じゃなければ抱き枕なんか買うか馬鹿野郎――っ!」
…………。
わたしは、その場にしゃがみこんだ。
「…………。」
アナスタジアは、ぽかんと、伯爵を見上げていた。
遠くでミオが頭を抱えている。
そんなどうしようもない空気が、しばし流れ……。
生け垣からひょこっと現れた部外者によって、沈黙は破られた。
「わーい、なんか楽しいことやってるーぅ。私も仲間に入れてほしいでーす」
キュロス様も、今更のように頭を抱えてしゃがみ込んだ。




