婚約を破棄して下さい
――わたしは逃げていた。
遠くから、わたしを呼ぶ声がする。そのたびに方向転換して、ひとの気配から逃げ続ける。
グラナド城は広く、使用人は少ない。夜闇に身を隠すのは苦じゃなかったけど、門扉はすべて封鎖されて、外には出られない。
あてもなくただ逃げ続ける。ひとの気配が無いほうへ……逃げて、隠れて、走った。ずいぶん走りにくいと思ったら、いつの間にか靴が片方脱げていた。残った靴を手に持って、また彷徨う。
城の構造は頭に入れていたはずだけど、だんだん分からなくなってしまった。夜も更け、疲れ果てて、ぼんやりしてくる。
裸足で、ただふらふらと古城を歩く。
……まるでわたしのほうが、死んで、幽霊になったみたいだな。
それでも、闇は恐ろしい。冷たい石床を嫌い、寒さに震え、ぬくもりと安堵を求める。
……あたたかいものがほしい。安らぎたい。どこへ行けばいい? わからない。
視界すらも霞むなか、わたしは何かを探して、どこかへと向かう。
――その時、懐かしいような匂いがした。ここだ、ここがわたしが探していた場所だと確信する。壁に背をつけ、そのままずるずるとへたり込んだ。膝を立てて、組んだ腕の中に顔を埋める。そうしてわたしは、目を閉じた。
どれくらい時間が経っただろう。
コツコツと、堅い靴音が近づいてくる。
わたしは顔を伏せたまま、覚醒した。ああ逃げなくてはと思ったけど、身体が動かなかった。
――そのままじっと、そこで待つ。
だがいつまで経ってもそのひとは、わたしを揺さぶり起こしはしなかった。
顔を上げると、すぐ目の前に彼はいた。大きな身体を畳むようにして、その場にしゃがみこんでいた。わたしと同じ高さに、緑の瞳が煌めいて見える。
「…………キュロス様」
わたしの声に、凜々しい眉を垂らす。
「やっと、見つけた」
脱力した手から、わたしの靴が片方、転がり落ちる。そして彼は、大きくため息をついた。
「まさか……ここにだけは来ていないと思ったのに……」
そう言われて、わたしは視線を巡らせた。古城の石壁を、キュロス様の持つランタンが照らしているだけで、ここがどこだか分からなかった。わたしはキュロス様に尋ねた。
「ここはどこですか?」
「俺の部屋」
彼の指さすほうを見ると、確かに。わたしのすぐ横に、見覚えのある黒い扉があった。彼はまた嘆息した。
「君がいなくなってから、俺は城中を探し回って、馬小屋の飼い葉桶まで浚って……。一時間でも休憩をしろと、ミオに言われて、ここへ来たんだ」
「……すみませんでした……」
「それは、何の謝罪だ?」
問われて、わたしは答えられなかった。キュロス様は、今度はため息をつかなかった。ふっ、と微笑むような息を漏らし、わたしの肩をそっと掴む。抱き寄せるわけではなく、ただ一瞬肌に触れて、眉を顰めた。
「酷く冷えているな。部屋に入ろう。温かいお茶を淹れるから、飲んだらもうベッドで寝てしまえ」
優しく囁き、部屋の扉を開けて、わたしを招く。
それでも動かないわたしに、彼は剽軽な仕草で手を振った。
「ああ、変な心配をするな、俺は屋敷のほうで寝る。ただ君に休んで欲しいだけだから」
「……いえ……」
「使用人のみんなも心配していたぞ、俺が大騒ぎをしたからだけど。トマスは今日、非番だったのに、私服のまま飛び出してきてな、ここは死守しますって門扉に張り付いてた」
「……キュロス様。ごめんなさい……だけど、わたし」
「ミオなんかすごいぞ、屋根の上で――あいつ壁を登れるんだな、俺も初めて知った。トッポは厨房中の鍋を出してきて、煮炊きを始めたんだ。美味しい匂いでマリーを釣るんだって、ははは、野豚を捕獲するんじゃないんだぞって――」
「キュロス様」
「ツェリは泣き叫んで、俺がワルイコトしたんだろうってポカポカ殴ってきて、ウォルフが」
「キュロス様聞いてください、わたしはもう、この城には」
キュロス様はわたしの腕を掴み、ぐいと引いた。ぎょっとするほど強い力で、全身が持って行かれる。
悲鳴を上げる間もなく、わたしは部屋の中へ放り込まれた。目の前で扉が閉ざされる。すぐにドアノブへ飛びついたけど、押しても引いてもびくともしない。扉の向こうで、キュロス様が押さえつけているらしい。
「あ……開けてください!」
わたしは激しく、扉を叩いた。彼は応じない。
「チュニカは何故か、じゃあお湯を沸かしますねーとか言って、風呂場に行ってしまった。前から思ってたけど、あの湯番はちょっと変だよな」
言葉だけが明るい、世間話のまま。
「キュロス様、ここを開けて。お願いします!」
「みんなに、言って回らないとな。マリーが見つかった、もう心配ないって――」
「キュロス様!」
「それは俺に任せて、マリーは寝ていろ。体調を崩したら大変だ、婚約式まで、もう日がない……」
「キュロス様っ……!」
「身体を温めて、ゆっくり休めて――明日になれば気持ちも落ち着くだろう。そうすればもう大丈夫。何もかも大丈夫になる――から、そうしたら――」
彼の声は、急速に小さく、か細くなっていった。わたしは思わず、戸を叩くのをやめ、耳を澄ます。
頑丈な木の扉越しに、キュロス様の呟きが聞こえる。
「この城を、出て行くなんて言わないよな。マリー……」
それは彼の独白だったのか、わたしへの問いかけだったのか分からなかった。だけどわたしは回答した。
「……ここから出して。わたしは……シャデランの家に帰ります」
扉は、やはり開かなかった。その代わりに、彼は問う。
「何故?」
キュロス様は、扉に額を押し当てているらしい。すぐ近く、戸のわずかな隙間から彼の言葉が伝えられる。
「結婚しよう。俺は君が好きだ」
わたしは叫んだ。今までの、どの言葉よりも確信を込めて。
「わたしは、わたしのことが大嫌いよ!」
叫んだ途端、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
その気配を、キュロス様も感じ取ったのだろう。扉越しに、戸惑うような声が届く。
「君が不幸になれば……アナスタジアの慰めになると思っているのか?」
わたしは、首を振った。
――ちがう。そうじゃないの。
彼は、それは気付かなかったらしい。強く優しい言葉で、わたしを諫めてくれる。
「優しい姉だったんだろう? アナスタジアはきっと、君の幸福を祈っている」
そう――その通りだ。姉は優しい人だった。
だけどわたしは……姉のことを――唯一わたしを可愛がってくれたひとを――誰より大切なお姉ちゃんを――あんなに、愛していたはずなのに。
――死んでくれて良かったと、思っているの。
「うっ――!」
嗚咽と共に、猛烈な吐き気に襲われた。それはわたし自身への激しい嫌悪感だ。
自分のせいで姉が死んだ罪悪感なんてものではない。その逆だった。
姉の死を悼み、懐かしい記憶を辿るたび姉への愛が強くなって、同時にドス黒い感情がわたしのなかに生まれていった。どうか生き返ってこないで、そのまま死んでいて。どうかわたしから、大事なものを奪わないでと――
「ううっ――う……!」
嗚咽の声は間違いなくキュロス様にまで届いただろうけど、どうしようもなくてむせび泣く。
彼は、しばらく無言でいた。
ああきっと、彼には訳が分からないでしょうね。もし彼がわたしなら、身内の死を喜んだりなんて絶対しない。強くて大きくて、そして優しくて、この城のみんなに愛されているキュロス様……彼は姉と同じだ。身体も心も美しい人間だった。
わたしの本性を知れば、彼はわたしを軽蔑する。
そして嫌いになってしまうだろう。
――嫌われたくない。それだけで、頭の中がいっぱいだった。
震えが止まらない。わたしは自分の身体を抱いて……自分を飾る嘘を吐く。
「姉も、あなたとの結婚を望んでいるわ。だからわたしに男装服を突きつけてきたのよ。わたしには男装服を贈り、自分は馬車でドレスアップして現れるつもりで」
「三ヶ月も名乗り出なかった」
「スミス・ノーマンからあなたの話を聞いたのよ。もともと、姉は婚姻を不安に思っていたもの」
「……俺との結婚が、アナスタジアの幸せとは限らない」
「そんなことはないわ」
それだけは、わたしは自信を持って断言できた。このひととの暮らせば、幸せになれるに違いない。だってわたしがあんなにも、幸福な日々を送れたのだから――
――やがて……彼の声が届く。
「……どうすればいい? ……君を救うために、俺には何が出来る?」
喉の痙攣を抑え込み、わたしは答えた。
「ここから出して」
わたしのことを、まだ好きでいてくれているうちに。
「わたしと、婚約を解消してください……」
長い、長い沈黙――
やがてカチリと小さな音がして、扉が開いた。キュロス様はわたしのそばに屈み込み、水浸しの頬を、一度だけ指で擦った。そしてまた立ち上がる。
わたしの前に、扉を開いて、
「わかった。……俺は、君が望むことを叶えよう」




