夢の終わりと硝子の靴
スミス・ノーマンという男は、一言でいえば、「偏屈な職人」である。腕は立つが頑固が過ぎ、人付き合いを嫌い、六十を超えても未だ独身。俺も何度も仕事を依頼したが、交わした言葉は数えるほどだった。愛嬌を仕事に注いだ男――そのノーマンが弟子に取ったという少年に、興味はあった。どんな人物だろう、顔を見てみたいものだなと。
――まさか、アナスタジアなわけがない。
だが同時に……もし当人ならば、それでもいい。
マリーの、姉に対する異様な劣等感は、自分のせいで死なせてしまったという、罪悪感によるものだろう。生きていればまず、そのストレスから解放されるはず。
そのうえで、俺がちゃんと宣言すればいいんだ。二人の令嬢を前に、今度こそマリー・シャデランの手を取って、「君が好きだ」とプロポーズする。それでいい。それで、何もかも解決――
「お待たせしました。ノーマン様をご案内いたします」
ミオの言葉に、席を立つ。マリーは座ったままぼんやりしていた。俺が促すと、慌てて立ち上がる。顔色が悪いようだった。
ノーマンは、ミオが開いた扉をくぐり、サロンに入ってすぐ、ひざまずいた。顔を伏せたまま、挨拶をくれる。
「ご無沙汰をしております、グラナド伯爵」
「……ああ。久しぶりだな」
俺はひとまず、ほっとした。
ノーマンはやはり耄碌などしていない。これなら同居人の性別を間違えたり、王都の張り紙を見逃すなんてありえない。
やはり人違いだったらしい。あっさり解決してしまったことに笑いながら、ノーマンへと歩み寄った。
「変わらないなノーマン。存外元気そうじゃないか」
「ええ、風邪一つひくことなく……して、お呼びたていただいたご用向きは……」
「ああ、わざわざ呼び出してすまなかった、特に用事があったわけじゃないんだ。急に引退してまた急に仕事を受けてくれたから、どんな様子かと――そういえばどうして、引退なんて」
歩みと言葉が、途中で止まる。
近づいて初めて、俺は気が付いたのだ。スミス・ノーマンの両眼が閉ざされていることに。
――ヒッ。と、後ろでマリーが息を呑む声が聞こえた。
ノーマンのそばにたたずむミオは、苦い表情だった。
「三年前、作業中に熱した鉄片が弾けて保護眼鏡を突き破り、眼球を傷つけてしまったそうです。今のノーマン様は、ほとんど視力がありません」
ノーマンは目を開いた。黒い瞳は濁り、焦点が合っていない。俺がいない空間に向かって、老職人は言った。
「全く見えないわけではない、明暗と、色くらいはわかります。案外これで、生きるには不便が無いのです」
「……そ、そうか。それは……良いことだ」
「細工も、手が仕事を覚えております。ただ注文書の文字が読めませんでな、受注も、材料の発注もできん。仕事にならんと思い、引退いたしました」
「……人間の……顔や体の造形は?」
「なじみの人間ならばなんとか。新規客も問題はございません。弟子が受け付けをしてくれますので――」
ノーマンの言葉を遮り、俺は叫んだ。
「ミオ! ノーマンの弟子はどうした。彼女を連れてこいと言ったはずだっ」
「彼なら、まだ馬車にいらっしゃいます」
ミオが答える。彼女と言ってしまった俺と、彼と言ったミオの間で、マリーの視線が揺れていた。
「馬車? ノーマン、なぜおまえの弟子は一緒に出て来ないんだ」
「ああ、せがれのやつ、城についたらごねはじめましてな。伯爵さまの前に、こんな小汚い作業着姿じゃ出られない、着替えさせろと言うもので」
「着替え……」
「普段は儂の寝巻でも、ツギハギの古着でも着ているような子なんですがね。いやすみません、もう少しお時間をください」
弁明をするノーマンは、まるきり息子を庇う父か、甘い祖父のようだった。やがて出てくるというなら急かさなくていい。それより、確認しなくてはいけないことがある。
「ノーマン、奇妙な質問だが答えてくれ。ノーマンはその視力で、どうやってその人間が少年だと知りえたんだ」
「は? そりゃあ、当人が言ったので……」
ノーマンは素っ頓狂な声を出した。少なくとも演技、嘘ではない。だがノーマンの視力では、真実が得られたとは限らない。俺はミオに目をやった。迎えの馬車で、ミオは少年と長時間対面している。しかしミオは首を振った。
「確かに男性服で、体型は少年のように見えました。しかし帽子を目深にかぶり、何を聞いても一言も返事をくれないままでした。……断定はしかねます」
「……そうか」
「なんですか伯爵。儂が女を攫って囲っているとでも?」
ノーマンが唸るような声を漏らし、直後、怒鳴り始めた。
「冗談じゃない、工房に女を入れるなど頼まれたって御免だ!」
「あっ、いや、すまないそういうことではなくて」
俺は慌てて弁解したが、ノーマンの怒りは収まらなかった。自分が疑われたからではなく、弟子のために、彼は激怒していた。今にも掴みかかってきそうな形相で詰め寄ってくる。
「アーサーは立派な弟子だ。まだまだひよっこだが才能がある。何よりやる気と根性がある! うちに来てからの三か月で、デザイン用のスケッチブックを何冊描きつぶしたと思う? 色の名前を全部覚えた、針の種類も見分けられるようになった、古着や余り物をツギハギして、大層な衣装一着を仕立ておった。そこいらへんの小娘に、あんなことが出来るか!」
「わかったわかった、悪かったってばっ」
「いいや何にもわかっとらん!! アーサーはな!」
退こうとしても許されない。困り果てていると、クスクス……と明るい笑い声。後ろでマリーが笑っていた。
「ノーマン様は、お弟子さんを本当に可愛がっておられるのね」
それで毒気を抜かれたか、ノーマンは肩を落とした。また跪き、首を垂れる。
「……申し訳ない。子供を保護するなら、領主に報告せねばならんのは分かっておりました。しかしもしもあらぬ疑いをかけられて、アーサーと引き離されたらと思うと、つい先延ばしにしてしまいました」
呻く男は、偏屈な職人らしさはなくまるきり哀れな老人であった。俺も片膝をついて身をかがめる。
「離れがたかったのはノーマンだけか? アーサーは、親のことは何と?」
「あまり話したがりません。ずいぶんひどい親だったようです。儂が拾ったとき、彼は無一文で……王都を彷徨っておりました」
――王都?
俺は眉をひそめた。
「王都を歩いていたのか。運河に流されていたのを、救ったのではなく?」
今度はノーマンがキョトンとする。
「運河とは? 伯爵、儂はほとんど盲人です。人を救い上げる力などなく、そもそも川辺に近寄りません」
「そ、そうか。そうか……!」
いやまだ断定するには早い。さらに詳しく、当時の状況を聞き出した。
アーサーは、夜の運河ではなく、早朝の王都で拾われた。空腹で消耗してはいたが、髪も肌も濡れておらず、服も着ていた。もちろん男物の乾いた服だ。服飾の専門家であるノーマンは、ぼんやりと色しか見えずとも仕立ての特徴から男物だったと断言した。
彼は馬車の事故などではなく、生家の貧しさゆえ身売りに出された。男娼としてだ。
憐れんだノーマンに、アーサー少年はこう言った。
――まったく、胸糞わりぃったらありゃしねえさ。なあおっちゃん、オイラをここの弟子にしておくれ。オイラはもう、腐れ外道な親元にも、人のケツを金で買おうってぇ輩にも、いいようにされる人生はまっぴら御免だぜ――
「その言葉を、アーサーが言ったのか? そのままの文言で!?」
「ほほっ、そうです。なかなかどうして、口の達者な小僧でしてな」
大笑いするノーマン。そこで、俺はやっと確信した。
ああやっぱり別人だった。ここに至るまでの状況よりも、深層の男爵令嬢が、そんな啖呵を切れるわけがない。
これでアナスタジア生存の可能性は無くなった。それはもちろん悲しく、残念なことだ。アナスタジアは哀れだし、もし彼女が生きていれば、大団円まで一直線だっただろうから。
しかしその死を受け入れられないよりは、はっきり確定したほうがずっとマシだ。マリーの心の傷もいずれは時が癒やすだろう。
そう考えながら振り向くと、マリーは、笑っていた。
眉を垂らし、頬を上気させ、明るい声でくすくす笑っている。俺も笑った。
「ノーマン、いい弟子を拾ったな」
「ええ、まったく。毎日騒々しくってたまらんのです」
「ノーマン工房が将来安泰で何よりだ。身請けに関しては、あとは俺に任せてくれ。二人にとっていいようにしてやる」
「ありがたい……よろしくお願いします」
ノーマンは深々と頭を下げた。
ひとまず、問題解決。ここからは少しばかり領主の仕事だ。俺はミオに合図をし、メモを取らせる。
「一応、生家に連絡は出さねばなるまい。アーサーの家名は? 大体の住所が分かればそれも」
「あ……すみません、知らんのです……」
「では当人が来たら聞くとしよう」
「そういえば遅いですね。私、迎えに行って参ります」
ミオがそう言って、サロンから退室していった。二人を待つ間、俺はさらにいくつか、ノーマンに質問を振ってみた。しかしその都度、ノーマンは首を振る。
「生まれのことはあんまり教えてくれんのです。よほど、親元に帰りたくないようで。儂も何度も尋ねました、『家の名前はなんていうんだ、まさかアーサーってのも偽名じゃないだろうな?』と――すると、やけにおどけた口調で言うのです。
『うるせえばかやろ。名前なんかあるもんかい。オイラはただのボロ猫さ』――」
俺は笑った。なんだ、やたらと芝居がかったセリフだなと。
「……ぃっ――!」
後ろで妙な音が聞こえた気がした。まるで声にならない悲鳴のような。
だが俺は振り向かなかった。このいかつい職人相手に啖呵が切れる、けなげで威勢のいい少年に、強い興味と好感を持ったのだ。ぜひ会って話してみたい。前のめりになって尋ねる。
「面白い子供だ、職人に向いているな。腕の方はどうなんだ?」
「細工の方はまだまだ。しかし裁縫のほうは大したもので、端切れを集めては勝手に何着も仕立ててしまいました」
「それはすごい。生家がそういう生業だったのかな」
「いや、おそらく当人の趣味でしょう。工房の道具や生地、高級な釦も自由に使っていいというと、飛び上がって歓声を――おお、そうだ、忘れていた!」
ノーマンは突然大きな声を出した。横に置いていたカバンから、ずるりと大きな箱を取り出す。
「ご挨拶が遅れました。伯爵、ご婚約おめでとうございます。祝いはあの指輪の仕上がりでもって代えさせていただきますが、こちらはちょっとした土産でございます。お納めください」
「土産? なんだろう、開けてもいいか」
「どうぞ――と儂がいうのは良くない。それはアーサーから、奥様へのプレゼントなのです」
「マリーに?」
聞き返しながら、婚約者を振り返る――と。
マリーは、後ずさっていた。心なしか顔色が悪い。呼び寄せても首を振り、さらに遠くへ退いてしまう。
何が引っかかったのだろう。このプレゼントを警戒している?
俺は箱のふたを取り、中身を先に確認した。
……服だ。光沢のある白の、外套衣だった。騎士の礼服などに使う、しっかりと厚く上等な生地である。太い金糸を使った繊細な刺繍、象牙の釦と立派なフリンジ。優美ではあるが、フリルやレースなどは一つもない。俺は首を傾げた。
「これをマリーに? どう見ても男性用のデザインだが」
「ああ、それで女性用なのだそうです。ほほほ、面白い趣向でしょう、これがせがれの趣味でな、長身の凛々しい女性を、男装させるのが大好きなのだと――」
ふうん? ずいぶん変わった趣味である。しかしよくできていた。箱から出してみると、丈は男性の平均並みでも、肩幅と袖は細く、胸のふくらみとウエストのくびれに沿った裁断がされている。まさにマリーの体型に合いそうだった。
頭の中で想像し、その華やかかつ凛々しい姿に眉を垂らす。案外アーサー君とは趣味が合うかもしれない。
「マリー、良いものをもらったな。せっかくだし羽織って――」
顔を上げたそこに、マリーの姿はなかった。
「……マリー?」
首を巡らせても、見つからない。呼びかけても返事がない。
大きな声を出すと、遠くでコトンと堅い音がした。サロンの最奥、中庭へ繋がる小さな戸口がいつの間にか開いていた。躓きでもしたのだろうか、段差の手前に、靴が片方転がっている。
「マリー?」
靴を拾って、戸をくぐる。ディルツの夕暮れは早い。すでに日が落ち、あたりは闇に包まれていた。目に見える色は黒色のみ、彼女の燃えるような赤い髪は見つからない。耳に届くのは木立のざわめき、彼女の涼やかな声は聞こえない。
「マリー……マリー? マリー。
――マリーっ!!」
俺は絶叫した。飛び出した直後、ミオに遭遇した。青ざめた侍女はしゃがれた声で俺に言う。
「旦那様、急ぎ報告申し上げます。馬車にいたはずのア――」
「どうでもいいっ! 今すぐ城門を封鎖しろ!」
面食らう彼女に、ノーマンから受け取った、アーサーからの贈り物を押し付ける。ミオなら必ずそれですべてを悟る。どうでもいいものは彼女に任せ、俺は走り出した。
マリーの名を呼びながら、庭園を駆ける。出会った使用人達には各々、城中の扉や出口を塞ぐよう命じる。そして自分の足で、マリーを探して駆けずり回った。彼女が落としたガラスの靴を、その手に握りしめたままで。




