わたしが敵うわけがないのです。
何を言っているのか、分からなかった。
唐突に話題が変わったとしか思えない。……なぜアナスタジアの名が出てくる?
マリーは俺の腕からスルリと抜けて、一人、ホールに立った。歌うように語るその表情は、不思議と安らかで、上機嫌にすら見えた。
「一度だけ、アナスタジアと踊ったことがあるんです。彼女の社交界デビューの前日。立っているだけで良いから、男役になってやってくれって、両親に言われ……姉の手を取り肩を抱きました」
マリーは、背筋を伸ばした。遠くを撫でるように、そうっと手を伸ばす。まるで美女をエスコートするように。長身の彼女がそうすると、見蕩れるほど凜々しい。
「姉は綺麗でした。小さくて華奢で、可愛らしくて……ふわふわの金髪に、吸い込まれるような青い瞳。……男の視点で触れたアナスタジアは、本当に美しかった」
彼女の指が宙を撫でる。姉を撫でているのだと気付くまで、少し時間がかかった。それは姉妹が仲良く遊んでいる所作ではない、まして妬み、憎らしく思う女への怒りなんてない。
俺がマリーに触れるのと同じ……愛おしくてたまらない、大切なひとへ捧げる愛撫だったから。
「姉の踊りは上手でした。わたしを上手にリードして、軽やかに踊っていました。
もともと、姉は、快活な少女だったんです。令嬢として社交的ということでなく、跳んだり跳ねたり、屋敷を走り回ったり。おしゃべりが過ぎると、おばあさまによく叱られていました。
姉は、ただ綺麗なだけじゃない。明るくて元気で、優しい……本当に素敵な女性だったのよ」
朗々と語るマリー。俺は自分の中に、強い熱がくすぶるのを感じた。嫉妬かもしれない。
同時に、不安と苛立ちがあった。
マリーは何の話をしている?
「……わたしは……なにをどうやったって、アナスタジアには敵わない」
ほとんど怒鳴るようにして、マリーの言葉を遮った。
「そんなことはない、君は綺麗だ。踊りだって上達した。明るくて優しくて、城のみなに好かれている」
「……みんなはアナスタジアを知らないから」
「関係ない、俺はあの夜アナスタジアと会った。だけど求婚したのは君だ!」
「会っていないわ、見ただけでしょう!?」
とうとう、マリーは叫んだ。その迫力と言葉に息を呑む。
……マリーの言うことは正しい。俺はあの日、マリーを探してシャデランの屋敷中を駆け、メインホールでアナスタジアを見た。マリーと違って小柄だった、マリーより若く見えた、華やかな格好をしていた、笑っていた、金髪だったような気がする――その程度の印象しかない。
マリーは戦慄きながら後ずさる。捕まえようと伸ばした手を払われた。
「マリー」
「わたしは、アナスタジアには敵わない」
彼女の声は、かつてないほど力強かった。
ひどく後ろ向きな内容なのに、いつよりも自信に満ちあふれ、確信的だった。
それもそのはず、これは彼女の本心だ。両親からお仕着せられた洗脳ではない、彼女自身が、その身と心で感じ取ったことだから。
――それを否定する材料は、無い。
「あなたがわたしに言ってくれた言葉は、嘘じゃないって分かってる。……だけどここは姉の場所だった。わたしは、返さなくてはいけないの」
俺はそこで、初めてある可能性に気が付いた。
温和で、なんだかんだいって芯の強い彼女、それもこの頃めっきり明るくなって、俺とも気持ちを通わせたのに、急に荒れたものだから面食らってしまったが……もしかして?
「マリー、まさか、アナスタジアが生きていると思っている?」
マリーの視線が、肯定した。俺は笑った。あえて軽薄に、無い無い、と両手を振った。
「昨日ルイフォンが言ったやつか? ノーマンのところの拾い子。あれは早とちりだったって、自分でも言ってたじゃないか」
「……当人と会ったわけではないわ」
「ルイフォンは顔を見た、十二、三歳の少年だったって」
「姉はわたしよりずっと小柄だった。男物の服を着て帽子をかぶり、顔を伏せておけば、短時間の滞在客を騙すくらいは可能よ」
そう言われると、アナスタジアの姿がうろ覚えな俺は反論しがたい。確かに、十八のマリーより年下と思った記憶はある。男装すればさらに幼く、声変わりもしていない少年に見せかけることはできる……?
いやいや。すぐに思い直し、俺は首を振った。
「ルイフォンは騙せるかもな。でもその子供――ええと、アダムス?」
「アーサーよ。アナスタジアと名前も似ているわ」
「どこにでもある名前だろう、確かトマスの弟……五人兄弟のまんなかもアーサーだった。どだいこの国はそんなに名前のバリエーションが豊富じゃない。商人仲間にトマスとヨハンがいるし、ルイフォンの祖母もマリーだぞ」
「市場で、誰かにマリーと呼ばれたの」
「だからどこにでもある名前……」
「姉の声だった。同じ日に姉の姿を見たわ。男の子のような格好をして帽子をかぶった、金髪の女性だった。あれは、お姉ちゃんよ。アナスタジアは……っ……生きてる!!」
見開かれたマリーの目から、ぼろっと大粒の涙が零れ落ちた。両手で顔を覆い、お姉ちゃんお姉ちゃんと呟いて、子供のように泣き出した。
俺は困り果てていた。
俺がマリーに惚れていること、マリーが綺麗であることは肯定できる。だが「もし姉と出会っていたら」と、架空の話をされてはどうしようもない。
アナスタジアの死は確信している。事故の報告を受けた日、運河を浚って探し回ったのはグラナドの指揮だ。死体は上がらなかったが、前日の雨で増水した、夜の運河である。まず助からない。
それに、その『捨て子』を保護したのはスミス・ノーマン。俺と商売上の付き合いも長く、義理がある。消えた令嬢の捜索状は王都中に貼り紙をしたんだ。ノーマンが知らないわけがなく、仮にアナスタジアが身を隠したがったとて、俺を裏切ることはないだろう。
アナスタジアは死亡している。だが……生きていて欲しいと願う、マリーの気持ちも、痛いほどよく分かった。
アナスタジアは、俺のちょっとした勘違いで、マリーの代わりに死んでしまったのだから……。
「お姉ちゃん……」
泣き続けるマリー。
俺は、彼女の肩を優しく抱いた。
「分かった。ノーマンとその弟子、アーサーと会おう」
マリーが目を見開く。俺を睨むようにして、じっと見つめてきた。
「……アナスタジアが、本当に死んでいると、わたしに言い聞かせるため?」
……マリー・シャデランは聡明だ。俺の意図を汲み、しばらく震えていたが……やがて、頷いた。
残酷な選択だったろうか。いや、やはり必要な過程だと俺は思う。
俺たちは罪悪感から逃げてはいけないし、マリーは「アナスタジアの妹」としてでなく、マリー自身の結婚、人生を歩いて行くべきだ。
俺はミオを呼び出し、馬車を出して、ノーマンの工房へ向かうよう指示をした。
ミオも同じように考えていたらしい、問答をすることなく支度をしてすぐ、出発した。
スミス・ノーマンの工房がある、市場の職人街まで往復、二、三時間。すぐにノーマン達が応じてくれたら夕方に――少なくとも今夜のうちには、城を訪ねてくれるよう、ミオならば交渉してくれるだろう。
サロンの隅にある、休憩用の小さなテーブル。俺とマリーは向かい合って座り、短い会話を少しだけ交わした。
「……姉が来たら、何もかも、おしまいなのですね」
「これで、何もかも解決だ」
マリーは寂しげに微笑むだけだった。
会話のない、気まずい時間。
それは全く、楽しい時間などではなかったが……早く終わって欲しいとは思えなかった。
俺の中にも、ほんの少しだけ、恐れがあった。
……もし、本当にアナスタジアが生きていたら?
時折、そんな考えが頭をよぎる。
アナスタジアは俺と会ったこともない。当人が望んで嫁入りにきたわけがないから、事故は怪我の功名とばかりに身を隠し、まんまと家出をせしめたのかも。
……いや、無いな。職人街は男社会、令嬢がやっていけるわけがない。
「アナスタジアは、王都の服飾職人に憧れていました」
マリーが、怖いことを呟く。俺は聞こえない振りをした。
それでも、また不安になる。
……もしも、ノーマンも令嬢の男装に騙されていたら?
……いや、ありえない。無理だ。ノーマンは引退したが、耄碌するほどの年ではない。ただの来客程度ならともかく、同居をしていて、相手の性別に気が付かないわけがない……。
時が流れる。
夕日が窓から差しこむ頃――スミス・ノーマンと、その弟子を乗せた馬車がグラナド城に到着した。




