もしもお姉様が、生きていたとしたら、
どくんっ――強すぎる鼓動で、胸骨が痛む。わたしは胸を押さえて呻いた。
――三ヶ月前に、落ちていた、職人の弟子?
話題にしていた男性二人は、特別大きな感想は持たなかったらしい。キュロス様はお茶を飲みながら、フーン、と相槌を打った。
「捨て子か……この頃は景気も良くなって、そういうのは減ったんだけどな。王都の外で拾ったなら、農村の子か。地方格差は王国政治の課題だな、ルイフォン王子」
「それをいうなら君の仕事だよキュロス・グラナド伯爵。王都の東はグラナド公爵領だし、職人街の人の出入りはグラナド商会の管轄じゃないかい?」
「把握しきれんよ。ノーマンには孤児身請けの届けを出してもらわないと……そうだルイフォン、指輪をノーマンに出しに行くんだよな。じゃあ今からでも、俺が直接――」
立ち上がりかけたキュロス様、その腕を、わたしは掴んで止めた。
「行かないでっ――」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。キュロス様も、ルイフォン様もギョッとしてわたしを振り向く。
「マリー? どうしたんだ」
尋ねられてから、理由を考える。反射的に捕まえてしまったのだ。……なぜ? 分からない、だけど……彼を行かせたくなかった。
「……キュロス様は……お忙しい方です。婚約式まであと二週間しかないのだし。……指輪は、ルイフォン様にお任せすればいいと、思います……」
「僕だってヒマなわけじゃないけどねぇ」
そう言いながらも、指輪をケースに仕舞い、ルイフォン様は帰り支度を始めた。
「まあ、職人街は騎士団の砦への通り道だし、任せてくれて構わないよ。孤児身請けの届けについては、僕からノーマンに話しておこう」
「……ああ、頼む」
「どういたしまして友よ。一応、騎士団は王国の警備も仕事のうちだしな。パトロールってことにすればどうにでも動ける」
「色々とありがとうございましたルイフォン様」
わたしは誰よりも早く席を立ち、ルイフォン様を見送るため、扉を開いた。ルイフォン様の眉が顰められた。――なにか、わたしの態度に違和感を持たれたらしい。わたしは怯えた。
強張った肩を、キュロス様の手が包む。庇うように引き寄せて、キュロス様はわたしの目をじっと見つめ、囁いた。
「……マリー、大丈夫だ」
「な……なにがでしょうか……」
本当に意味が分からなくて、聞き返す。キュロス様はわたしを抱いたまま、
「ルイフォン。その弟子とやらに、おまえは会ったのか」
そう尋ねた。ルイフォン様は、頷いた。
「会ったというか、ちらっと見た程度だけど。ノーマンと話してるとき、近くで作業していたよ」
「……どんな子だった?」
どくんっ――今度こそ、明確な痛みをもって、心臓が跳ねる。
「どんな子? 無愛想で生意気そう、だけどノーマンには懐いてるようだった。コーヒーを淹れてくれたけど不味かった」
「名前と、年齢と、性別は?」
どくん、どくん――キュロス様の腕の中で、震えながら、ルイフォン様の答えを待った。
怖い。
耳を塞いでしまいたい。
ルイフォン様は答えた。ひょいと肩をすくめながら。
「名前は、アーサー。十三歳って言ってたかな。もちろん男の子だよ」
スウ――と、奇妙な音が耳に聞こえた。何の音かと思ったら、自分の呼吸である。脱力して跪いてしまいそうなのを、キュロス様に支えられる。
わたしの様子に、キュロス様は小さく笑った。
「アナスタジアは、二十歳の美女だよな?」
「……は、はい……」
「アナスタジアが行方不明になってから、俺は王都中に尋ね人の紙を貼らせた。ノーマンだって見ているはずだ」
「あっ……そ、そうでしたね……」
「それに、職人街は男の街だ。深窓の令嬢が働けるような場所じゃないし、出歩くだけで酷く目立つ。俺の耳に入らないわけがないんだよ」
優しく言い聞かせられて、やっとわたしの足に力が戻ってきた。ホウと息を吐き、居住まいを正す。そして笑った。
「あは――は、は、すみませんわたしったら、タイミングが合っていただけなのに、もしかしたらって驚いてしまって。ははっ――」
「エッなんだい、あの子がお姉さんじゃないかって思ったのかい?」
ルイフォン様が今更驚き、大笑いした。
「そりゃちょっと無理があるな! 僕はアナスタジア嬢を見たことはないけども、マリーちゃんのお姉さんだろ? 無い無い。あの子はマリーちゃんより年下の男子、背も君よりずっと低い、まだ子供! 顔だって似ても似つかないよ」
「で、ですよね。すみませんお騒がせしました……」
頭を下げるわたしに、ルイフォン様は、にこにこしたまま。
「そう、アナスタジア嬢は、もういない。だからマリーちゃん、安心していいよ」
――え?
何か、酷く引っかかるものがあって、わたしは顔を上げた。彼はやはり、微笑んでいた。
「もし本当にお姉さんだったら大変だ。スミス・ノーマンは行方不明の男爵令嬢を拉致監禁してるってことになる。僕は騎士団長として、ノーマンを取り締まらなくちゃいけなくなるよ」
あ……ああ、そうか。たしかに……それは大変だわ。
騎士は警察とは別物だけど、王国の治安維持も仕事のうちだ。貴族のトラブル、不正、内乱の気配があれば駆けつけて、王国騎士の名の下に、貴族を逮捕、断罪できる権限がある。
そう考えると、やっぱりルイフォン様ってすごく強い立場にあるひとなのね。
ルイフォン様は城を出て、愛用の馬車に乗り込んだ。もちろん例の戦馬車である。御者台につくルイフォン様に、キュロス様が近づいた。
「ルイフォン。おまえの力を借りたいことがある」
「何? 珍しいね。うちの戦馬車で誰かを市中轢き回しの刑にしたいのかい?」
「違う! ん、違わない――いや違う、頼まずに済むならそのほうがいいのだが……」
何やら耳打ちを始めた。そばのわたしには聞かせたくないということね。わたしはルイフォン様に一礼をし、すぐにその場を立ち去った。
駆け込むようにして部屋へと戻り、すぐにクローゼットを開いた。今日着るためのドレスを探す。途中で、ミオがやってきた。
「今日は天気がよく暖かいので、思い切って胸元の開いたドレスは如何でしょう」
落ち着いたラベンダー色と白のシフォンレース、露出が多く、しなやかなデザインが美しい。
だけど……わたしは、別のものを選んだ。ピンク色の生地を、イエローやマリンブルーのリボンとフリルが埋め尽くし、スカートが大きく円錐型に広がったプリンセスドレスだ。
ミオはあからさまに眉根を寄せた。
「恐れ入ります。マリー様は背が高く、お顔立ちも体型も、大人びた色気のある方です。こういったドレスはあまりお似合いにならないと存じます」
侍女は、使用人とは違う。主の言いなりになるのではなく、本当に主のためになるよう、その真意を汲んで、提案をするのが仕事だ。
ミオの言葉はきっと、正しいのだろう。
それでも……わたしは、ピンクのドレスを身につけた。
ドレスを着け終えると、チュニカがやってくる。彼女は髪結い師ではないが、わたしの髪の管理人だ。櫛を入れながら、ウンウンと満足そうに頷いた。
「もうすっかり傷んでいたところがなくなりましたねえ。ふわふわなのに艶々。ほんと素敵な髪……うらやましいですわぁ」
彼女の指に絡む、赤い髪。わたしはそれよりも、鏡に映るチュニカのほうを見つめていた。
「うらやましい? どうして、赤毛なんかがうらやましいの」
尋ねると、彼女はキョトンとし、首を傾げた。
「どうしてって別に。単純に並んで比べて、私よりもマリー様のほうが綺麗だと思ったからですけど」
「嘘よ。だって、チュニカは金髪じゃない」
わたしは言った。チュニカはますます、首を傾げる角度を深くした。心底不思議そうに尋ねてくる。
「金髪だからって、モテやしませんよ? 私のはちょっとくすんでて、栗色に近いですしねえ。色よりも艶とか触り心地とか。マリー様の髪は細くてコシがあって、永遠に撫でていたくなる髪ですぅ」
言葉の通り上機嫌に、わたしの髪を弄んで、チュニカは退室していった。
あとに残ったミオが、お茶を淹れてくれる。その間、わたしはずっと鏡の前にいた。見事に結い上げられた赤い髪……わたしは呻いた。
「ねえミオ……ミオって、幼い頃、旅芸人の一座に拾われたのよね」
「はい。それが何か」
「わたしは、そういう芸人さんとは会ったことがないのだけど……絵本で見たのは、髪の色が紫や緑だったの。あれは、染めているのかしら――わたしの赤い髪を……金髪に染めることも、できるものかしら?」
わたしの問いに、ミオは答えなかった。自分がいたのは赤子の頃なので、と答えをぼかす。
代わりに、こんなことを言った。
「マリー様に金髪は、似合いません。そしてたとえ染めたとしても、あなたはあなたのままですよ」
――何か……叱られた気がした。
彼女が何を怒っているのかはわからなかった。




