……許しません、決して。(後編)
涙が止まらなかった。悔しくて、苦しくて、キュロス様の胸で泣きじゃくった。
キュロス様の腕は優しく、わたしの激情を鎮めてくれる。それが悲しい。
アナスタジアはあんな男に殺されたのに。冷たい河の底へ沈んだまま、遺体すら掬われていないのに。可哀想なのは死んでしまった姉だ。だけど今、慰められているのはただ泣いてるだけのわたし。それがたまらなく悲しくて、悔しい。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん」
キュロス様の胸で、姉を呼ぶ。彼は黙ったまま、ずっとわたしを撫でていた。
視界の隅っこで、大の字になって失神している男をトマスが担ぎ上げた。そのそばではミオがいつにも増して仏頂面だ。握った拳を見つめて、苦い声で呟く。
「……出遅れました」
「そりゃー良かったです、僕はそれを見越して離れているように言ったのでー」
「そのせいで、マリー様と旦那様に、ひとを殴らせてしまいました。こういうことは私の仕事でしたのに」
ミオはトマスから、男の身柄を引き受けようとした。だがそれも、トマスは制する。
「警察には僕が連れてきます。ミオ様はお留守番しててください」
「なぜ?」
「僕は男ですので」
きっぱり言うトマス。ミオは今度こそ顔をしかめた。
「……私の方が、あなたより強いですよ?」
「そうですね。でもこいつはそれをわかってません。目を覚ましたらミオ様にも嫌なこと言います、絶対」
「私には効きません」
「僕が聞きたくないんです。もううんざりだ――反吐が出る」
「同感だな。付き添いは儂が行こう」
ヨハンが申し出た。彼が城を出るのはとても珍しいらしく、目を丸くするミオ。ヨハンはわたしとキュロス様に向き直り、深々と頭を下げた。
「警察でまた、言語が通じないと誤魔化すでしょう。バンデリー語を話せる人間は少ない。旦那様、儂がいれば何かとスムーズに、最速で、こやつに相応しい刑罰を与えられるかもしれません」
「……そうだな。よろしく頼む」
「近場の署ではなく、王都北区へ向かいます。……あそこの署長は外国人をひどく嫌っていて、取り調べや刑罰は、どこよりも厳しく執り行ってくれるでしょうから」
「あははっ、いいっすねー。ぜひ拷問や残酷刑の禁止っていう、法の壁を破って欲しいですねっ」
トマスはカラカラと大笑いして、ヨハンとともに、男を城外へと運んでいった。
わたしはふと心配になった。外国人が嫌いな警察署……ヨハンもまた、嫌な扱いを受けるかもしれない。いや、実際にあったからこその経験談だわ。
慌てて引き止めにいこうとしたのを、キュロス様に止められる。
「行かせてやれ。ヨハンは、俺たちへの贖罪のつもりなんだ」
「贖罪? 男に作り話を言ったこと?」
頷くキュロス様に、わたしはぶんぶん首を振った。
「あれはあの男に喋らせるためでしょう。何も詫びることはないわ」
今度は、キュロス様が首を振る。わたしを強く抱きしめて、俯いた。
「……ヨハンが言った、一部は本当のことだ。俺は……つい先ほどまで、アナスタジアの死を、嘆いたことがなかった」
「えっ……?」
わたしの肩を掴む、キュロス様の手が冷たい。
さっき男を叩いて吹っ飛ばした掌が、赤ん坊みたいにわたしに縋っている。キュロス・グラナド伯爵は、血の気を引かせていた。
ミオが歩み寄ってくる。旦那様を慰めるのかと思いきや、彼女もまた目を伏せた。
「私も、同罪でございます。……いいえ、私のほうがずいぶんと酷いですね。もしアナスタジア様が生きていたら、お二人の婚約の邪魔になる――そこまで考えて、勝手にシャデラン家を訪ねたのですから」
「ミオが……シャデラン家に?」
「俺はずっと、アナスタジアは両親とともに、マリーを虐げていたと思ってたんだ」
「えっ? 違うわ!」
ぎょっとして、思わず大きな声で反論した。キュロス様から身を離し、俯く二人に弁明する。
「どうしてそんな誤解を? お姉様は何も悪くない。わたしは姉に叩かれたことも、醜女となじられたことも一度もない!」
「でも、君の誕生日に主役を奪い、男たちに囲まれ笑っていた。いやあの日だけじゃない、辛い仕事をマリーにばかりやらせて、自分は華やかに着飾って――」
「それは両親がそうさせたの。アナスタジアは望んでいなかった!」
叫んだ拍子に、また涙が零れ落ちた。キュロス様に慰められるより早く、自分で拭う。泣いている場合じゃないわ、アナスタジアの汚名を晴らすまで叫ばないと。目元の皮膚が切れるほど擦る手を、キュロス様が掴んで止めた。
「大丈夫、それはもうわかっている。……だから俺は罪深い。そう誤解をして、彼女の死は天罰だ、いい気味だとすら思っていた。アナスタジアに求婚し、この城へ招いたのはこの俺だ。彼女が馬車に乗ったのも、俺が名前を間違えたから」
「でも……川に落ちたのは……あなたのせいではないわ」
「キッカケなのは間違いない。……それに俺は、思ってしまった。間違えて良かった、死んだのがアナスタジアで良かった。おかげで、マリーが無事で良かったと――」
低い声で呻く。ミオも押し黙っている。わたしは、そこで初めて、自分の罪に気が付いた。
そうだ……わたしは、死んだ姉の身代わりに、この城へとやってきた。
キュロス様は、本当はわたしを求めていたのだとおっしゃった。ならば本来、あの馬車に乗っていたのはこのわたし。
わたしの身代わりになったのは、お姉ちゃんだ。
「――あっ……ああ! あああっ!」
わたしは頭を抱えた。耳の奥が痛い。激痛で立っていられないほど。鼓膜の奥でゴオウゴオウと、恐ろしい音がする。ああこれは、運河の濁流だ。アナスタジアが聴いた音だ。今なお川底で、聞き続けている水の音だ。
猛烈なめまいと吐き気で、わたしは前のめりに倒れ込んだ。膝をつく直前で、キュロス様が支えてくれる。だけど彼もまたわたしに縋り、自身の慟哭を押さえ込んでいた。
わたしたちは同じくらい震えながら支え合い、冷えた体温を分け合って、どうにかそこに立っていた。
キュロス様が呟く。
「アナスタジアに詫びたい。彼女の墓はどこに?」
わたしは首を振った。アナスタジアの墓は無い。葬儀は家族だけで、ひどく簡素に執り行われて、領土の共同墓地に名を刻む間すらなく、わたしはここへ送られた。
「俺に出来るだけのことがしたい。せめて彼女の霊を慰めたい。アナスタジアの墓を建てよう。彼女が好きだった場所はどこだ。好きな景色はどういうものだ」
また、首を振る。わからない。アナスタジアはめったに家から出なかった。仕事や学校にと出かけるわたしと違い、日焼けすることを許されなかった。
「好きな食べ物は? 好きな花は?」
わからない。知らない。無かったかもしれない。
旬の野菜の収穫も、花の苗付けもできなかったアナスタジアは、青菜の名を知らぬままただ口に運んでいただろう。二階の窓から園庭を見下ろし、そこにある花の名を知らぬまま死んでいったんだ。
ずたぼろの衣を纏い、汚れた身体に目一杯の好物を詰め込んでいたわたし。
お人形のように着飾られ、何一つ得ることは許されず、からっぽのままだったアナスタジア。
懺悔をするキュロス様とミオだけど、わたしもやっぱり同罪だ。わたしもまた、彼女の死を悲しんでいなかった。姉が死んだと聞いてから、今初めて涙を流した。
わたしにとって、アナスタジアは天使だった。花だった。宝石だった。憧れのお人形だった。
姉は生きた人間だと――今初めて、わたしは気が付いたのよ。
アナスタジアは可愛すぎるから、天の国へ、神様に連れて行かれたんじゃなかった。あんなちっぽけな男の手によって、残虐に命を奪われたんだ。
今初めてそれを知り、わたしは、今更嘆き悲しんだ。
哀れだ。お姉様は哀れだわ。可哀想に。可哀想に、お姉様……ごめんなさい。
今まで目を逸らしていて、ごめんなさい。
ちゃんと悲しんであげなくてごめんなさい。
……市場で聞こえたあの声は、わたしを恨む、アナスタジアの呪詛だったのだろうか。
それとも本当はずっと前から理解っていて、目を逸らし続けていたわたしの、罪悪感が見せた幻か。
「……殴られるべきは、俺だ。あの男を打つ権利など、俺にはなかった」
キュロス様よりも、わたしが先にあの男を打った。右手が痛い。
生まれて初めて、ひとを殴った――そこに後悔はなかった。あの男は殴られて当然のことをした。だけどわたしに、彼を叩く権利があっただろうか。
わたしもまた、アナスタジアを殺した人間のひとりなのに。
「マリーは何も悪くない。すべては俺の罪だ。……俺に何が出来るだろうか……」
「ごめんなさい……」
贖っても謝っても済まない。アナスタジアはもういない。
決して許されない罪をキュロス様と分け合って、わたしは延々と、姉に詫び続けるしかなかった。
――昼よりは少し早い頃、トマスとヨハンが帰還した。
彼らと、やはり徹夜続きだというミオには休息を取らせる。そして正午、わたしとキュロス様は二人、王都の外へ出た。
ここ数日は天候が良く、運河の流れはとても穏やか。水面は透き通った光を反射して、きらきらと、ガラス細工みたいに輝いていた。
「……おやすみなさい、アナスタジア」
ヨハンに選別してもらった、慰霊の花束を河の流れにそっと捧げる。
王国式の手礼を行い、二人でともに目を閉じる。
祈り終えてから、キュロス様は、川下の方を指さした。
「この運河は王都の中央市場、職人街のほうへと続いている」
……職人街……。
そういえば、アナスタジアは生前、王都で服職人になりたいと零していたっけ。キュロス様にそう話すと、彼はかすかに微笑んだ。
「そうか。……川下では、服飾系の職人が、洗濯や布の染色にと集まって、いつも賑やかにやっている。この場所なら……アナスタジアも、寂しくないかもしれない……」
「……そうですね。そうだといいなあ……」
わたしたちが捧げた花は、流れに弄ばれながらも散ることはなく、運河を下っていく。
わたしはキュロス様と並び、それを見つめていた。遠く遠くまで流れ、見えなくなってしまうまで。




