ただいま戻りました。
どちらともなく口づけを解くと、キュロス様は、わたしの顔を手で覆い、頬を親指で圧した。それからすぐ、その場所にキスをする。触れるだけのキスを終えると、今度は逆側の頬へ。
目尻や耳のそば、髪の一房にも唇を押し当て、身を離す。すぐそばに佇んだまま、彼は目を伏せた。
「……マリー、本当にそこにいるか?」
可笑しな問いかけをする。だけど、わたしは共感した。笑って答える。
「おります。消えていません」
「……今なら君の、城に来たばかりの頃の気持ちがよくわかる」
彼は眉を垂らした。自嘲気味に笑いながら、わたしの頭を撫で撫で可愛がり、
「嬉しすぎて、俺はうっかり泣いてしまいそうだよ」
そんなことを言った。
「マリー、大事にするぞ」
「……もう十分に」
「いいやもっとだ。本当はもっともっと大事にしたい。君がどこへ行く時も俺が抱きかかえて、堅い地面など一歩も歩かせないように」
「それじゃあ、足が弱ってしまいます」
「そう、だから、我慢している」
シーツに顔を埋めて溜め息をつくキュロス様。ん? 今のは冗談ではなかったのかしら?
彼はそのまま、クックッと笑い声を漏らす。肩をふるわせて、本当に笑っていた。
「嬉しい……妻が手に入ったからじゃない。マリーが俺に、意思を言えるようになったことが、とても嬉しい。……こんなに嬉しいことはない……」
キュロス様は、しばらくそのままベッドのへりに腰掛けて、わたしを見つめていた。時々手を伸ばし、ヨシヨシ撫でる。
わたしも黙って見つめ返し、時々ふいに照れくさくなって俯いて、頭を撫でられて顔を上げる。目が合うたび、彼がふにゃっと笑うので、わたしもつられて笑ってしまう。
そんな、何の意味もない時間がずいぶんと過ぎて――
不意にキュロス様が「あっ」と声を漏らし、立ち上がった。
「忘れてた。マリーが目を覚ましたら知らせるようにと、医者に言われてたんだ」
「まあっ、それはいけないわ。もう夜明けだもの、お医者様も休ませて差し上げないと」
慌てて、わたしもベッドから出ようとするのを、キュロス様が手で制す。
「俺だけで行けば十分だ。君はまた眠ったほうがいい」
「……もう少し、一緒にいたいの」
「うぐっ!」
キュロス様は突然、胸を押さえてしゃがみこんだ。えっまさかわたし、感染する病気だった!? 大慌てで駆け寄ると、彼はやはり胸を押さえながら呻く。
「大丈夫、ただ心臓が止まりかけただけだから」
「重篤じゃないですかっ!? キュロス様こそ寝ていてください、わたしがお医者様を呼んできます!」
「駄目だ、古城の夜明けは冷え込む。すぐ戻るから、ベッドで待っててくれ」
わたしはハッと息を呑み、頬を紅潮させて、俯いた。
「は……はい。わ、わかりま、したっ……。……あの……お待ちしています」
「……。……あっ。違う!」
「えっ? あっ」
自分の誤解に気が付いて、さらに顔から湯気が出る。きゃーきゃーわあわあ頭の中だけで絶叫しながら、シーツを被って無言で震えた。
キュロス様もしばらく何か呻いていたが、やがてポンポン、シーツ越しにわたしを慰めて(ちなみに彼はそこを頭だと思っていたようだけど、おしりだった)、では行ってくるっと元気よく宣言し、部屋を出て行った。
あとに残されたのは、全身を真っ赤に染めて悶える、わたしひとり。
「ううう。やっぱりまだ、キュロス様と二人きりは、慣れないかも……」
そんなに酷く緊張するとか、何を話していいかわからないってことはもうないけど、時々ちょっぴり意思疎通が出来てない気がする。お互いが相手の言動や何かを勘違いして解釈して、そのあと七転八倒……ということがあるみたい。
これからは、そういったすれ違いがなくなるようにしなくちゃね。
わたしたちは、夫婦になるのだから。
考えた瞬間、また顔が火照る。枕に顔を埋めて、わたしは呻いた。
「ああでもまだ、間に誰か……わたしたち二人とものことをよく知る、気の利く誰かがいてほしいなあ……」
と、その時。
――ゴッ! ……と、遠くで何か、堅い物同士が衝突する音がした。何? 同時に男性の悲鳴が聞こえた気もする。まさかキュロス様!?
わたしはシーツをはね除け、裸足のまま部屋を飛び出した。夜明け前の古城は寒い。でもそんなの気にしていられない、あたりを見回し、長い廊下の先に、屈み込んでいるキュロス様の背中を発見。
わたしは叫びながら駆け寄った。
「キュロス様! どうなさったの? 大丈夫!?」
わたしの声にも、返事がない。キュロス様は頭を押さえて呻くばかりだった。
その小さく丸まった大きな背中に、そっと――どこから取り出したのか、バンソウコウを一枚置いて……
青くつぶらな瞳に、ダークブラウンのおさげ髪をした侍女は、いつもの無表情でぼそりと言った。
「――マリー様が、旦那様の部屋から出てこられたというあたりから、状況はお察しいたします。しかし旦那様、古城は館よりも天井が低くできております。その背丈でスキップなどしては、梁に頭をぶつけて然り。浮かれすぎるのも大概になさいませ」
「……スキップ……は、してな……い……ただ一回、ぴょんって飛んだ、だけっ……」
「馬鹿であらせられますか?」
ほんの十日ばかり離れていただけなのに、なんだかとても、懐かしい声。わたしは歓声を上げた。
「ミオ! お帰りなさい!」
ミオはわたしを振り返ると、ほんのかすかに微笑みを浮かべ、丁寧なお辞儀をした。
「ただいま戻りました」




