声が、聞こえた気がした。
キュロス様が、次に着てきたのは純白の長衣。これは中央大陸の礼装ね。女性的なしなやかさがあり、露出度は極端に低いのにどこか艶っぽい。長身のキュロス様には言葉が出ないほど似合っていて、わたしはぼんやり見つめてしまった。
さらに、三枚目。今度はどこの国の物だかわからない、奇妙な形の上着を何枚も重ねた格好だ。きっと位の高い職業の制服なのだと思う。キュロス様の精悍さがより際立っていた。
四枚目、今度は一転ものすごくラフだ。上半身はほとんど裸、申し訳程度のジレにゆったりとした白のハーレムパンツで、黒髪はターバンにまとめている。これはもう、キュロス様のためだけにあつらえたかのようにお似合いだった。むき出しになった褐色の肌がまぶしい。
五枚目……残念ながらこれはちょっと笑ってしまった。きっと隣国フラリアあたりの学生服だわ。ブレザーにネクタイ、革のローファー。猛烈に似合っていないけど、わたしがあんまり嬉しがる物だから、キュロス様はコレも買うと言ってしまった。
「えーっ、いつどこで着るつもりなの?」
わたしが止めても、彼は涼しい顔。
「マリーが落ち込んでいる時、笑わせるために着る」
こんな調子で、キュロス様は次から次に試着をしては、そのほとんどを購入すると告げていく。見ているうちにわたしもなんだかうずうずしてきて、ナージ・ルーと一緒に店中を見回し、アレもコレもとキュロス様に差し出した。
「どうだマリー、格好いいか?」
「格好いい!」
試着室から出てきた彼に、歓声を上げたり拍手をしたり、笑ったり見とれたりと大忙し。
チュニカやツェリが、わたしの髪をいじりたがる気持ちがちょっと分かった。まさか他人を着せ替えるのがこんなにも楽しいとは……!
もう何着目だろう、次のは着付けに手間がかかる物らしく、キュロス様はなかなか出てこなかった。ナージ・ルーが呆れて言った。
「ほんまに一体何着買うつもりやねん。大体、旦那がうちに卸したもんをうちの売値で買ってどないすんのよ」
「金は循環させてこそ経済だ」
「お嬢ちゃんに褒められて調子に乗ってるだけやろ」
「そういう真実はマリーに聞こえないところで言ってくれ」
あはは、カーテン越しに漫才するのはやめてー。
キュロス様の着替えを待つ間、わたしも何となく店内を見て回る。
本当に色んな服がある。いかにも高級そうなタキシードから、革の切れ端のような紐のアクセサリーも……さっきはローブの値段に驚いたけど、全部同じ値段ってわけじゃない。もしかしてもっと安いのだってあるのかも?
わたしはナージ・ルーに近づき、そっと耳打ちで尋ねてみた。
「このお店で、安いものだといくらくらいかしら……あの、キュロス様に似合いそうなもので」
ナージ・ルーはわたしの質問には答えてくれなかった。ニッコリ笑うと、店の外まで手招きする。路上に面した棚にも色んなものが並んでいた。やはり男性向けだろう、小物である。
「ほら、このへんは客寄せで格安なんよ。お嬢さんでも買えるんちゃう?」
「あ……ありがとう……」
わたしはお礼を言って、そこにあった耳飾りを手に取った。値札を見ると、確かにわたしでも買える額だ。ごゆっくり、と中へ入っていくナージ・ルー。お言葉に甘えて吟味する。
小さな石がついたペンダント。防寒用の手袋やマフラー、革紐のチョーカー、重い金属のバングル、カフスボタン。天然石の数珠、アンクレット……。
わたしには初めて手に触れるものばかり。きっとどれも、安物の量産品だ。ありふれたものばかりで、キュロス様には珍しくもないだろう。
それでも……。
彼はわたしの好みを聞き、その通りに着替えてくれた。わたしが素敵と褒めるたび、とても嬉しそうにしていた。
……だから……もしかしたら……。
ふと、うしろがなにやら、賑やかしい。振り向くと、いつのまにやら通行人が増えていた。ほとんどが男性ばかり、飲食店街の方からぞろぞろと、奥に向かって歩いていく。
あ、そうか。この先は職人街、そして今はお昼を少しまわったところ。ちょうどその職人たちが昼食を摂り職場に戻るところなのね。
わたしは納得すると、再び商品のほうへ顔を戻し――
「――マリー?」
聞こえた声に、硬直した。
…………女性の声だった。
…………わたしは、王都に知り合いなどいない。
…………シャデラン領にだって、女友達はいない。
…………わたしのことをマリーと呼ぶ女性……なんて……この王都には。誰も。もう。
一人だけ、頭に思い浮かんだ顔があった。この王都に向かう途中で、亡くなってしまったひとの名を呼び、振り返る。
「アナスタジア?」
――すぐ目の前にひとがいた。だけど全く知らない男だった。愛嬌のある顔立ちで、ニコニコしながらわたしの顔を見つめている。
「あれっ?」
きょとんとするわたしに、彼は片手を上げた。
「やっ、お姉さんひとりでお買い物? ご飯まだならぼくとカフェでもどう?」
「へっ?」
わたしは慌てて辺りを見回した。男が目の前に立ち塞がっているためよく見えないけど、とりあえず女の姿はなさそうだ。
なんだ、何かの聞き間違いか。それともたまたま別のマリーさんがいたのかな。そうね、マリーなんてどこにでもある名前だもの。わたしはホッとして、とりあえず、正面の男と向き合った。
「ごめんなさい、わたし少しぼんやりしていたようです。ええと、どなただったかしら、お名前を頂戴できますか?」
「あはっ、なんだい堅苦しいな。敬語やめてー、ゆるくいこうー?」
……? 何だろう……人違いをされているのかな。知り合いではないはずだけど。
もしかして客引きかしら。カフェとか言ってたし、そこの店員さんなのね。商売熱心なことだ。
わたしは微笑んで、お断りした。
「せっかくだけど、ご飯はさっき食べてしまっておなかいっぱいなの」
ところが、男はそれで退かなかった。さっきまでわたしが見ていたペンダントを手に取って、
「これ欲しいのかい? ぼくが買ってあげるよ」
「えっ、どうして」
「いいからいいから、お近づきのしるしにプレゼント。でもコレ男物じゃないか?」
その通りです、中にいる連れのために――と言うより早く、手首を掴まれた。転ぶほど強い力で引っ張られる。
「きゃっ、何!?」
「女物なら向こうの通りだよ、市場は初めてかい、ぼくが案内してあげる」
「い、いりません! 何ですか!? 離してください、離して!」
わたしは思い切り腕を引き、男の手を振り払った。
客引きにしては強引すぎる。まさか強盗? それとも詐欺やスリ目的だろうか。意味が分からないが、とにかく逃げたほうがいい気がする。
店に飛び込む、その肩をまた捕まえられた。無理矢理振り向かされる。男はまだ笑顔だった。ヘラヘラ、ニヤニヤと、わたしを眺めて笑っていた。
「可愛いなあ……」
ぞわり――肌が粟立つ。
失礼だとは思わなかった。男はわたしよりも背が低く、怖いとも思わなかった。怒りや恐怖で血の気が引いたのではない。
なのになんだろう、この感じ。わからない。これまで経験のない気持ち悪さだった。
気持ちが悪い。
男はもう一度、わたしのことを可愛いと褒めた。お礼を言うべきなのかもしれない。わたしのような醜女に、可愛いとお世辞を言ってくださったのだもの。ありがたく思わないと――。
そう思った、けど、口から出てきた言葉は全く別のものだった。
「いや、だ……助けて。……キュロス様」
直後、男の身体が真上に浮かんだ。
大根を引っこ抜くみたいに、男の襟首を掴み持ち上げたのは――キュロス様。
「うわっ? うわ……うわあ!」
空中で足をバタバタさせる男。キュロス様は、王国騎士のような軍服を着ていた。腰に飾り剣まで携えて、小男を片手でぶら下げている。
男がどれだけ暴れてもびくともしない。彼はそのまま、男には何も言わなかった。わたしを見下ろし、尋ねてくる。
「何をされた?」
「……い、いえ……別に、何も」
「ではなぜ泣いている」
慌てて目元を触ると、確かに濡れていた。でも涙がにじんだ程度だ、泣きまではしていない。わたしは首を振った。
「本当に何もされていません。声をかけられ、腕を掴まれただけです」
「誘いを断って、振り払って、それでも追いかけてきたんだな」
「そ、そうです」
「そうか」
彼は、優しく微笑んだ。わあわあ叫んでいる男をぶら下げたまま、もう一つの手で、わたしの頭を撫でる。ヨシヨシ撫で撫でポンポン、子どもをあやすように慰めてくれた。
「ごめんな。俺が目を離したから。怖かっただろう」
果てしなくわたしを甘やかす。それから、男を見上げた。
「ナンパにしては少々マナーが悪いな」
「あっあァ、わ、悪かったよ、その。アノ、あんたみたいな男前の連れがいるなんて思わなかったから、だから下ろして……」
「そうじゃない。男の影があろうがなかろうが、女が嫌がったら一度で退け。許可も無く身体を触るんじゃない」
「……は……はい……失礼いたしました……下ろして……」
「わかれば良い。以後気をつけろ」
そう言って、キュロス様は男を下ろし……はせず、店先の梁にぶら下げた。諦めたようにぐったり、空中に手足を垂らす男。それでもう何もかも解決とばかりに、キュロス様は試着室へ戻っていった。次に出てきた時には元の服装……まだ用意した服は残っていたけど、これで切り上げることにしたらしい。
「ごめんやでぇ旦那、あたしが表に連れ出したんや。こんな別嬪さん、そりゃ一人にしたらあかんかったわね。ごめんやで……」
謝るナージ・ルーに、キュロス様は怒ることもなく、値切りもせず、支払いを済ませる。商品は後日グラナド城に届けられるらしく、キュロス様は何も持たず店を出た。
代わりに、わたしの手を握る。今日一日、つないで歩いていたときよりずっと強い力だった。わたしはすぐに謝罪した。
「キュロス様、申し訳ありませんでした……」
「何を謝る」
問われると、よくわからない。少し考えてから答えた。
「……わたし、あのひとに誘われていたのですね。わたし気がつかなくて、強盗かもって、むやみに怖がってしまって。ごめんなさい、ご面倒をおかけいたしました」
「マリー。君は今、三つのことを間違えている」
間違え? 彼はわたしの手を握って、振り向きもせずに言う。
「ひとつめ。まずマリーは何も悪くない。君はただ普通に買い物をしていただけだし、被害者でしかない。隙を見せようがぼんやりしていようが悪くない。ふたつめ。他の男に口説かれたことを、俺に謝る必要はない。困っていれば助けるのは当たり前だし、仮にあの男と意気投合したなら邪魔をする権利もない。君は、俺の所有物じゃない」
「……みっつめは?」
「君の認識はおかしい。ナンパなんて珍しいものじゃないだろう。なぜ気がつかない?」
わたしは、きょとんとした。なぜと言われても……逆に、なぜ分かるものなの?
黙ってしまったわたしに、キュロス様は歩きながら、質問を重ねた。
「マリーは、深窓の令嬢として引きこもっていたのか。男との接点は無かったのか?」
「いえ、シャデラン領の仕事も学校も、むしろ男性社会でしたので」
「交流があったんだな。それが恋愛に発展したことは?」
「あ、ありません」
「口説かれたことは?」
「ありえません」
わたしは断言した。
「必要最低限の会話をするだけでした。みんなわたしに興味なんかなかったし、むしろ指さして笑っていました」
「それこそありえない。ドレスアップしていなくても、君は十分に魅力的だ。男が放っておく訳がない」
「まさかそんな、とんでもないわ。だってわたしは不細工で、髪も服もずたぼろで」
「ああ――そうか」
キュロス様は、足を止めた。
「そうか……。そのためのずたぼろだったのか」
わたしは顔をしかめた。わたしの手を、キュロス様の指が痛いほど強く握ったのだ。
「キュロス様、少し、痛いです」
そう言うと、ほんの少しだけ緩めてくれる。だけど決して離しはしない。
「離すものか」
彼は言った。
「もう絶対に離さない」
また握る力が強くなる。わたしは抵抗しなかった。
さっきの男と同じ強さで引かれても、このひとの手なら振り払う気になどならない。
他のひとと同じ言葉でも、このひとの言葉なら嬉しく思う。
つないだ手を同じ強さで握り返し、歩調を早めて、わたしは彼と並んで歩いた。




