初めてなので……そうっとでお願いします
グラナド城の馬車は、目がくらむような豪華仕様だった。
シャデラン領の貸し馬車など全く比べものにならない。黒鉄を主にした外装に、金銀と螺鈿をふんだんに使った装飾。それを引く馬がまた美しい。大きく筋肉質で、それでいて毛並みは艶々で、とても穏やかな眼をしている。ピカピカの馬車同様、大切に世話をされている馬だった。
内部は案外シンプルな内装で、広くて天井も高く、乗り心地優先という作り。緋色のクッションシートは、振動すら心地いいものに変えていた。
そうして小一時間。到着しましたと御者に導かれ、わたしたちは地面に降り立った。
「ここは……?」
「下町の大通りだ。指定の店はまだ先だが、ここから少し歩くぞ」
わたしはあたりを見回した。
とても、賑やかなところだった。大きな道路沿いにわたしたちのもの以外にいくつも馬車が停まっている。百貨店や銀行、ホテルや飲食店らしい大きな建物が並んでいて、角ごとに細い横道がある。
ゴージャスな洋装の貴婦人らは建物へ、平服の市民は小道へ流れていた。わたしは小道のほうに興味を引かれた。
「あの道の先には、何があるのですか?」
「庶民の市場だ。まず先に馬車を預けよう。それと、着替えと」
着替え? わたしもキュロス様もいつも通り、煌びやかな衣装である。特別な正装をしていくのだろうか。
馬車を御者とウォルフガングに任せ、すぐ目の前の建物に入る。
そこは馬車の預り所らしい。受付役だろう、入り口にいた男がこちらに気付き、背筋を伸ばした。
「――グラナド伯爵! こんにちは! 今日はお買い物ですか?」
敬意を示しつつ、笑顔が柔らかい。大貴族だから畏まっているというよりは、常連客への好意のようだった。
「ああ、私用だ。いつもの通り頼む。彼女にも」
「おや……どちらのお姫様で?」
「婚約者だ」
「ははっ、また冗談ばっかり」
男はあっさり笑って流した。ムッと眉を寄せるキュロス様。
「……冗談ではない。婚約式は来月だが、もううちで一緒に暮らしている。もちろんこのまま結婚する」
「ほおっ、なんとそうでしたか! 本当に。あのキュロス坊ちゃんが。婚約。ご結婚。ほぉおへえぇ」
よほど珍しいものでも見たのだろうか、大騒ぎする店員の男。そしてわたしの顔を覗き込み、また大きな声を出す。
「なんと、お綺麗な方じゃないですか!」
「……ど、どうも……」
お気を遣わせてすいません――と頭を下げる。
「へええええほおおおお。いや意外。ここは長年、グラナド公爵夫妻にもごひいき頂いているんですけども、坊ちゃんが女性を連れてきたのは初めてですから。公爵夫妻も嘆いておいででしたよ、坊ちゃんはたいそうおモテになるのにどうにもこうにも。痺れを切らせた夫人が一回、色街に坊ちゃんを――あいたぁっ!?」
突然、青年が悲鳴を上げた。キュロス様が足を踏んだらしい。仏頂面で無言のまま、店の奥へ入っていった。えっ、勝手に入っていいの? 戸惑うわたしに、男も笑って促す。わたしは慌てて、キュロス様のあとを追いかけた。
扉を開いてすぐ、またふたつの扉があった。女性用と男性とで分かれている。女性用に入ると、すごく狭い部屋に、大きな鏡がひとつだけ。何だろう、この部屋?
後ろから、さっきの男が声を掛けてくる。
「お嬢さん、こちらをどうぞ」
彼が差し出した物を受け取り、広げて見る。
うわっ、こ、これは……!
ややあって――出てきたわたしを出迎えた店員は、ほぉっ、と声を上げた。
「なんとまぁ可愛らしい! ゴージャスなドレス姿は素敵でしたが、平服だとなおさら、当人の素材の良さが際立ちますなっ」
「そ、そうかしら……あまり、似合わないと思うのだけど」
そう、わたしは中で着替えをしていたのだ。一般的な王都の庶民、町娘の洋服である。柔らかな綿のワンピースに、編み上げのオーバースカート、タイツと革のショートブーツ。スカート丈は膝が見えそうなくらい短い。フリルやレースといった装飾は少なく、代わりにたくさんの色が使われている。
……伯爵城のドレスも夢のようだったけど、こんな快活なオシャレも生まれて初めてのわたし。だ、大丈夫? おかしくない? 店員の男より背が高いのに、まるで女装みたいじゃないかしら……。
不安で震え上がるわたしの頭に、ぽんっと、帽子が載せられた。キュロス様だ。わたしよりも頭一つぶん長身の、端正な顔がわたしを見下ろしていた。
「そういうのもいいな。可愛い」
「あ――ありがとうございます。……キュロス様も、すごく素敵、です」
わたしが言うと、彼は微笑み、「そうだろう」と言わんばかりに腰に手を当て、胸を張ってみせた。キュロス・グラナド伯爵は謙遜をしない。する必要もないほど、実際とても似合っていたし、本当に素敵だった。
シンプルなシャツにチュニック、申し訳程度に装飾のついたベルト、ゆったりとした白のズボンに歩きやすそうなサンダル。長い黒髪は結い紐を解き、そのまま垂らされている。そんな、お世辞にも高級感があるとは言えない格好をしていても、伯爵は空気感が普通と違う。店員の言葉をそのまま頂くと、当人の素材が良すぎるのだった。
「市場はあまり治安がいいとは言えない。強盗や人さらいが湧くほど危険ではないが、とにかくスリが多いんだ。あまり金持ち然としていたら、気分の悪いことになる」
なるほど、それで変装……いや変装でもないか。あんまり大金を持ってなさそうな格好をするのね。
「同時に、客引きとのやりとりや値引き交渉なんかが楽しいところでもある。足下を見られないようにな」
「お買い物をするのですか?」
「ああ。歩きながら色々見て回ろう。城への出入り業者が決して持ってこない、庶民の菓子や海外の食材など。こういった服も、着心地がいいようなら買って帰るか。マリーと同じ年頃の娘が、ちょうど欲しがるような物がたくさんあるぞ」
「わあっ! 楽しみ!」
わたしは思わず歓声を上げた。キュロス様は何とも温かな微笑みを浮かべ、わたしの前に、手を差し出した。ん? この手はなんだろう?
きょとんと見下ろすわたし。
キュロス様は、当たり前のように言った。
「人が多く、はぐれやすい。手をつないでいこう」
「えっ?」
「それと、俺のことはキュロスと呼び捨てにするように。丁寧語も禁止だ」
「ええっ!?」
わたしは悲鳴じみた声を上げ、どうにか他の手段はないかと相談した。だけど店員の、
「そりゃそのほうがいい、迷子になったりスられたり、露店で定価の何倍もふっかけられて大損しちゃあ、せっかくのデートが台無しですからなっ」
という脅し文句に、観念するしかなく。
「さあ、マリー」
「は、い。うん。で、では参りま――行き、こう、キュロス……」
差し出された大きな手を、そうっと握り、歩き始める。
――グラナド伯爵城にやってきて、二ヶ月弱。わたしは初めて、婚約者と手をつないだのだった。




