旦那様は何をお望みですか?
ベンチに横たわるわたしを、団扇でパタパタ扇ぎながら、チュニカは唇を尖らせた。
「えーとぉ? つまりぃ……相思相愛?」
「そ、そういうのじゃないわ!」
わたしは叫んだ。起き上がった拍子に団扇に顔をぶつけたが、そんなことより主張しなくては。
「わかってるの、キュロス様はわたしの緊張をほぐそうとしてくださってるのよね逆効果になってるだけで! だってただの政略結婚だもの」
「はぁん? まだそこぉ?」
ブルーアイを半眼にして、チュニカは口の端だけでヘラリと笑い、わたしの脇腹を、いきなり指でつっついた。
悲鳴を上げて湯船に逃げる。
「なにをするのよ!」
「う、そ、つ、き。マリー様だって、おかしいなーって思うでしょぉ? お飾りの妻を相手に、あんなに甘々なセリフ言う必要あるぅ?」
「そ、それは……もともと、そういうひとなのかと。社交界では、お世辞の応酬やハグやチークキスが日常挨拶だって聞くし」
「いやいやいや、むしろうちの旦那様、そういうのが苦手で嫁探しに難航してたわけですしぃ」
「で、でもそれをどうにかしなきゃって、一念発起なさったのでしょ。きっとご無理をなさっているのだわ」
「アレが無理してるように見えますぅ?」
「た、確かに、すぐそばに近づいてくるし、髪や、肩に触れては来るけども」
「けどもー?」
うわあぁしつこいっ! どうしようなんて厄介なの!?
わたしはパニック寸前だった。言い出したからにはちゃんと話し終えなくてはいけないし、聞かれたことは答えなくちゃと思っている。だけどこんな感覚初めてだし、まして言語化したことなんか一度もない。
この感じを、気持ちを、どういう言葉にするのが適切なんだろう。
頭に思いつきはしたけども、間違っている気がして仕方ない。でも他にわからなくて、わたしはチュニカを手招きし、湯船のそばに屈んでもらった。耳元にそっと、内緒話で伝えてみた。
「……寝室に誘っては頂けない、から。……わたしのこと可愛いっていうのも、子どもかペットみたいな感覚なんじゃないかと……。男女としてじゃなく……」
チュニカは目を伏せ、ふっ、とシニカルに笑う。直後、無言で立ち上がりスタスタと浴室を縦断し扉を開き裸足のまま外に出て高らかに、
「旦那様―! 旦那様ぁ―っ!! マリー様が今すぐ旦那様にテイクアウトをご所望で!」
「うわあああーぁああっー!」
わたしは全裸のまま飛び出しチュニカを攫うと、浴室に戻り戸を閉めた。尻餅をついたまま、肩をすくめるチュニカ。
「何か私、間違えてましたぁ?」
「間違ってますっ!! わ、わたし、そういうことを望んでるなんて一言もいってないし思ってもないわっ!?」
人生最大級の大きな声で絶叫する。あくまでも首を傾げるチュニカに、わたしは懇切丁寧に説明した。
「キュロス様はいつもわたしを気遣ってくれるけど、わたしに何かを望まれたことがないの。これって、期待をされていないということだと思う……」
「んー。なるほど?」
「もしも、もしもね? わたしのことが本当に好きなら……もっと、自分の望みを言ってくれたらいいのにって。一応、その、婚約者なのだし……」
「ほおほおなるほど、そういうことぉ」
よかった、分かってもらえたみたい。わたしは心底ほっとした。
話している間にまたのぼせてきた。もうずいぶん長風呂をしている、いい加減に上がろう……と湯船から出たところで、チュニカが浴室の扉を開き声を上げる。
「旦那様ぁーっ、マリー様が旦那様の好きなことなんでもしてあげるって!」
「言ってないわ!?」
また飛びつこうと駆け出して、すぐにブレーキ。かつてない俊敏さで壁際に逃げ、籠からバスローブを引っ張り出す。纏うまではできず前だけ隠して、壁に背中を張り付けた。
直後、長身を屈めて現れたのは、キュロス様。
「なんだ、チュニカ。マリーがなんだって?」
そう、呼び出された彼に罪はない。彼はちゃんと、館のそばで待機していた。二回も大声で呼ばれ、とっくに上がっていると思われただろう。浴室を一瞥して、わたしの姿を探しても、そこに他意はなかっただろう。
一瞬、目が合う。彼は真顔になった。そのまま何も言わず背を向けると、悠然と立ち去っていった。
――平常なら、お風呂上がりは部屋に戻って、侍女の淹れたお茶を飲む。少しだけおしゃべりを楽しんで、湯で口を濯いでからベッドに入り、毛布を掛けてもらって灯りが消える。
今日は、侍女がいない。侍女見習いも、老執事もいない。世話役のキュロス・グラナド伯爵だけがいるけども、彼はずっと無言だった。
手早く、かつ優雅な手つきでお茶を淹れる。麗しい横顔から感情は一切読み取れない。
わたしが飲んでいる間、彼は同伴しなかった。本当の侍女のようにただ静かに佇むのみ。飲み終えるとすぐ湯が出され、ベッドに行くよう、所作だけで促された。
恐る恐る……ベッドに身体を横たえる。
キュロス様の両手が、わたしの身体を跨いで開かれ……毛布をそっと掛けられた。
「おやすみ、マリー。また明日」
「あ……あの、う……」
毛布に鼻まで埋めながら、わたしはどうにか、視線を彼のほうへと向けた。ん? とこちらを見下ろす眼差しは、穏やかに細められている。
……いつものキュロス様だ。
なんとなく、気まずい感じだったのは、わたしのほうが意識しすぎていたせいかな。わたしは毛布から顔を出す。
「明日も、この世話役って、続けるのですか」
「……君が望むならな。そうではなさそうだから、もうやめる」
……わたしが望むなら、か……。
「……いいのですよ。そんなに、気を遣わなくても」
「いや、これは俺が、君と親しくなれるのではないかと思って始めたことだ。……かえって怖がらせてしまっては意味がない」
「怯えてはいないわ」
「嫌な思いをさせたな。やはり、異性としての距離は保つべきだった」
「構いません。あなたの良いようになさって」
会話がどこかズレているような気がした。キュロス様も同じように思ったらしい。凜々しい眉を、困ったように垂らした。
「俺は今でも望むままに、やりたいことをやっている」
……わたしに贅沢をさせ、生活を保証し、世話をすることが?
「マリーは、俺の妻になると約束してくれた。ならばそれ以上望まない。あとは君が、心穏やかに暮らしてくれたらそれでいい」
「……それだけ?」
「ああ。贈り物ももてなしも、俺が楽しんでやっていること。望みを言うならそれを遠慮や萎縮をせず、喜んで受け取ってもらいたいな」
「それだけ? 本当にそれだけなの?」
わたしは尋ねた。彼は答えた。
「……それだけだ」
「……そう……ですか」
わたしは納得した。長い息を吐くと、酩酊にも似た、穏やかな諦観があった。
キュロス様は、おやすみと短く囁いて、部屋の灯りを消した。暗闇の中、わたしの横たわるベッドに背を向けて去る背中。わたしはもう一度だけ、彼に伝えた。
「わたしに何か、して欲しいことがあったら言ってくださいね。なんでも。
わたしだって……あなたを喜ばせたいという、欲くらいあるのよ」
立ち去ろうとする足が止まった。
「――考えておこう」
低く、独り言のような呟き。扉が閉められ、わたしは一人、ベッドの上で目を閉じた。
世間知らずなわたしだけども、考えておく、という言葉が、やんわりとしたお断りの文句だってくらいは知っている。
それを裏付けるように、翌日からのキュロス様は、わたしと距離を取っていた。わたしの世話は侍女見習いと執事に任せ、髪や身体に触れることは決してせず、図書館にも付いて来なかった。
食事を共にしても、会話が弾まない。キュロス様はほとんど無言のままで完食すると、カラッポの皿を見下ろして、じっと顔を伏せていた。
何度か声をかけても、上の空。眉を寄せ、難しい顔をしている。
……これが、本来の彼の距離なのね。わたしは自分が夢見がちで、自意識過剰な人間なのだとよくよく思い知った。
もう何も緊張することがない、静かで心穏やかな日々を、ひたすら俯いて過ごしていく。
そうして、三日。ミオが出て行って四日目の朝。
キュロス様は、わたしの部屋にやってきた。
「マリー! 俺は君とデートがしたい!!」
「……へっ?」
髪にブラシを挿したまま、きょとんとするわたし。
彼はそこで、何か大変なことに気がついたようだった。
「間違えた。やり直す」
退室して扉を閉める。三つ数えるほどの時間を空けて、再び扉が開かれた。
「おはようマリー。今朝、俺と君宛てに手紙が届いた。差出人は俺の旧友で、ルイフォンという男。あのハンナとイルザを紹介してくれたのが彼で、いわく自分の侍女たちがマリーに無礼を働いたのを詫びたいと」
「は? は、はい。ええ」
さっきのは何だったの? ものすごく気になったけど、キュロス様はナニゴトもなかったかのように言葉を続けている。あれ? 本当に幻を見たのかしら。
「たいそうな贈り物を用意したから、王都の店まで来てくれ、だそうだ。そんなに殊勝な男ではないから物に期待はできないが、君はこの城に来てから二ヶ月近く、一度も外に出ていないだろう。気分転換を兼ねて出かけないか。俺と、二人で」
「……はい。参りましょう。楽しそうですね」
わたしが頷くと、彼は破顔した。
「うん。楽しみだ」
その笑顔は気遣いなんかじゃなく、本当に嬉しそうに見えた。




