旦那様は不思議なひとだと思います
今日の朝食はジャガイモとチーズのガレットに、厚切りハム、コンソメスープだった。まず、テーブルに陶器の皿を並べ、ワゴンの鍋からスープを注ぐ。
「服に跳ねてはいけないから、少し離れていろ」
そう言いながら、案外器用な手つきで給仕をしてくれたのはグラナド城主、キュロス伯爵そのひとである。わたしは呆然としたまま皿を受け取り、もくもくと口に運び、完食した。
「……ごちそうさまでした……」
「ん。では、食後のお茶を淹れよう」
「……。あ、あ……あのぉ……」
「心配するな。ミオやウォルフガングのように上手くはないが、普通にお茶を淹れるくらいは出来る」
「ええ、それは……いいのですけども。それより、その。……キュロス様。じ、侍女……というのは」
「ん?」
二人分の皿が並ぶテーブル。椅子を引こうとしたキュロス様は、不思議そうにわたしを見下ろして。
「この頃は、ミオも一緒にお茶を飲むようにしているはずだが?」
「そ、そういう話じゃなくて。あの――侍女って、その……」
言いよどむわたしに、彼は首を傾げ、あぁと声を上げ、穏やかに笑った。
「侍女ならば黒いワンピースに白のエプロンドレスが制服だろうって? ははは、さすがにそれはな。サイズ的に無理だった」
「もっと色んな意味で無理だと思います」
わたしのクレームは、何が? という顔で流された。もしかして本当に、サイズさえ合えば着るつもりだったのだろうか。
しかし今の格好もまた合っているとは言いがたい。服自体はよくある執事用スーツ……上品なフリルの付いた白ブラウスに黒ズボン。だけどなんとか着れているという状態で、丈も幅も足りていない。キュロス様は細身だけども、肩や胸、首にもけっこう筋肉がついているらしい。襟首や袖のボタンは開けたまま、紐タイはペンダントみたいにぶらさがっているだけだった。
……白い布地の隙間から、筋張った手首や褐色の逞しい肉体が見える。
目のやり場に、とても困る――じゃなくて。わたしは目をそらしたまま叫んだ。
「じ……侍女は、侍従する女性のことですよねっ? キュロス様は、男性なので、侍女にはなれないのでは! せめて執事では!」
「ああ、そうだな。でも俺の望みは執事とはまた違うし従僕がやりたいわけではない。まして家政婦は、やろうと思っても出来ない」
ちょっと本質とは違う質問になったせいで、頓珍漢な回答が来てしまった。まったく理解していないのが顔に出ていたのだろう、彼はわたしに向けて、指を折りながら説明してくれた。
「わかりやすく言うと、執事は主の業務を支える秘書。侍女は、主の日常生活の世話役。従僕はとにかく小回りのきく召使いで、家政婦は建物の管理が業務。侍従頭はその全てを統括する。――と、この城ではそんな風に役目が分かれている」
「……それは、何となくは……」
「執事と侍女、どちらが偉いとは言い切れない。業務面から見れば執事のほうが上だが、私生活面や心情的に頼りにするのはやはり侍女だ。とくに女性主だと、男性執事では出来ないことが多すぎる。実際、マリーはウォルフガングよりミオのほうが圧倒的に距離感が近いだろう?」
問われて、頷く。差し出された紅茶を頂きながら、
「そうですね。一緒にいる時間が長いですし……この城では、一番仲がいいというか。ミオには親しみを感じています」
「それだ。俺が、マリーの一番仲がいい人になりたい」
あまりにもさらりと、普通に、自明の理のように言われたので、お茶を吹き出すまでに数秒かかった。少量だったので汚れるほどじゃなかったけど、思いっきり噎せて呼吸が苦しい。わたしにハンカチを差し出しながら、キュロス様は爽やかに笑った。
「大丈夫か。今日のはまだ熱かったろう?」
「えほっ、けほっ、だ、大丈夫です、けど。げほっ。何? 何っ!?」
「何と言われてもそのままだが。侍女という言葉に抵抗があるならば、そうだな、世話係とでも名乗ろうか」
まだ困惑しているわたしをヨソに、キュロス様は立ち上がった。彼が動くたび、むき出しの鎖骨の上でループタイが揺れている。わたしはそれに何度も目を奪われ、目を回していた。ああ、これって催眠術……わたしは幻を見ているのだろうか。
幻のキュロス様が、わたしの後ろに立っている。
「ではさっそく、朝の支度だ。髪型を作ろう」
耳元で、低い男声とカサカサという紙の音。どうやらメモまで取ってきたらしい。
そして頬のすぐ横を、二つの手のひらが通過した。……なんだかとてもいい匂い。わたしの美容クリームなどとは違う、爽やかな甘さとかすかな苦みがある、男性用の香水だ。
いい匂いのする、男の指が、わたしの髪をつまみ、撫で、まとめていく。
「……うわぁ」
「なんだ、その声」
「わかりません……」
とても正直な気持ちを言うと、キュロス様はクスクス笑って、作業を続けていた。
ミオや、チュニカよりもずっと大きな手。ぎゅっと目を閉じたままでも、髪に触れるその指が、わたしの知る誰のものより長くて太いのが感じ取れる。
「……髪が細くて柔らかいから、まとまりにくいな。自分のとは全く勝手が違う。痛くないか?」
優しい気遣いに、わたしは平気だと答えた。本当は時々、頭皮がキュッと引っ張られた感じはしたが、不快ではなかった。
キュロス様はもともと器用者らしく、案外ちゃんとしたハーフアップが完成した。作った当人も、引いた位置から出来を確認しご満悦。
「よし。初めてにしては上出来だろう」
「はい……あ、ありがとうございました」
「じゃあ次はドレスだな。マリー、どれにする?」
「えっ!?」
わたしはぎょっとしてのけぞった。この流れ、侍女もとい世話係であるキュロス様がわたしに着付けをすること?
それは無理! 死んでしまうわ!!
こ、困った。いったいどうすれば!?
「どうした? 特に希望がなければ俺が選ぶぞ。今のマリーの髪型だと、そうだな、スクウェア襟でパフスリーブの――痛っ!?」
上機嫌だったキュロス様が、突然悲鳴を上げてしゃがみ込む。わたしも驚き見下ろすと、キュロス様の後ろに、銀髪の幼女が仁王立ちになっていた。ふくらはぎを押さえながら、キュロス様が振り返る。
「ツェツィーリエ……! お、前っ……」
「約束やぶり! 旦那さまは髪の毛だけって言ったでしょー!」
「だからっていきなり蹴るやつがあるか!」
キュロス様は断然抗議したが、ツェリも負けない。小さな身体で、キュロス様よりよっぽど大きな声で主張した。
「マリーと仲良くなりたいのあたしも一緒! みんな一緒! 旦那さまがおうちに全然いなかったのが悪いの!」
「うっ。いや、それはだって仕事が」
「あたしだってこれが仕事だもん! ご飯も髪結いもほんとは全部あたしのだもん!」
「ツェリのではないだろう、侍女の仕事だ!」
「ツェリは侍女見習いだもん! 旦那さまこそ侍女じゃないもん! 男だし旦那さまだし伯爵だもん!!」
「ううっ」
言葉に詰まるキュロス様。まあそれはそうよね。わたしも助けられなくて、傍観する。
ツェリとキュロス様はまだしばらく口論していたが、やがてキュロス様が追い込まれ口数少なくなっていった。言い負かされたのではなく、六歳女児相手に大人げないと悟り、譲ってあげたのだとわたしは思う。無口になった主に向かって、ツェリは指を突きつける。
「ただマリーに触りたいだけでしょ、旦那さまのすけべー!」
「これ、ツェリ。それ以上はいけません」
いつの間に部屋にいたのだろうか、ウォルフガングは、ツェリをひょいと抱き上げた。いつもの執事服に温和な笑みを浮かべた翁は、まず孫娘の態度を諭し、キュロス様に無礼を詫びる。「だがそれはそれとして」と前置きをして、
「旦那様。子供との約束を破ってはなりません。無茶をするならそれなりの道理を通さねば、ひとの信頼を失いますゆえ」
「う。……ああ。……うん」
「奥様も困惑しておいでです」
「あー……」
老執事に言われて、キュロス様はいよいよバツが悪そうに俯いた。後ろ頭を掻いて、まずはツェリに、それからわたしに謝った。
「……悪かった。支度が終わるまで廊下にいる」
ぱたん……と閉じる扉の音までが、なんだか切なげである。壁の向こうから、ウォルフガングが優しく慰めているような声がした。
ツェリは明るい歓声を上げて、さっそくわたしのドレスを選び、背中のリボン紐を結んでくれた。
化粧品を並べながら、頬を膨らませる。
「旦那さまはおんなごころがわかってないの。自分がしたいことしてるだけなの、だめなおとこだと思うわ」
あまりの言われように、思わず笑ってしまった。一応、言い過ぎだとは注意をしたけども、必要以上に叱らないでおく。キュロス様は「侍女見習いの、子供のくせに!」などと言い返さずに、彼女の主張に同意し、謝罪した。彼女の言動は主に許されているのだ。わたしが口を挟むことじゃないだろう。
……そういえばあのひと、ミオやヨハン、トマスにも謝ったことがあるわ。このわたしにも、何度も。
……不思議なひと。
ツェリにフェイスクリームを塗られながら、思考にふける。
キュロス様は、この城の主。使用人も婚約者のわたしのことも、どうにでもできる権限がある。
それはシャデラン領におけるお父様と同じだった。父は男爵家の主として、いつも毅然と振る舞っていた。使用人にもわたしにも、「命令」はすれども「お願い」はしない。謝罪どころか、感謝の言葉も聞いたことがない。わたしは理不尽に感じながらも、貴族の男とはそういうものだと、理解していたんだけど……。
「お待たせしました……」
扉を開けると、キュロス様は少し離れたところにいた。ウォルフガングだけでなく、いつもの使用人達に囲まれている。
「だから言ったのにぃ。女の髪を触るのは、性交と同じくらいオオゴトだって」
「旦那様、いつになったらデザート取りに来るの? お茶だけ出したの?」
「慣れないことをするならまず、慣れた人間をそばに置いておいてくださいませ。二人きりになりたい気持ちはお察し申し上げますが」
「発想が突飛なのです。なぜ花を贈るくらいから始めないのか」
「旦那様が嬉しくなっちゃう距離は、マリー様にとって緊張する距離です」
「急いては事をし損じる、と申します。初日でございます。勇み足はほどほどに」
「……だからわかったって。もう部屋に長居はしないから……」
長身を壁にもたれさせ、頭を垂れている伯爵様。
わたしはまた吹き出しそうになりながら、スカートの裾をつまみ、彼らのほうへ駆け寄っていった。




