【特別章】みらいのおはなし前編➀
私の名はエリーザベト・グラナド。
リサという愛称で呼ばれることのほうが多い。当年とって6歳。太陽の女神のように豊かな赤毛と、魔法使いのように神秘的なエメラルド色の目を持つ美少女である。
私は最強だ。なにせ、まずもって顔が良い。私がニコッと笑うと、大体の大人はニコニコってなるのだから、私はとても可愛い。
そして住居はここディルツ王国最大の城塞、グラナド城だ。父親は城主――公爵、キュロス・グラナド。
褐色の肌に私と同じ緑の瞳、艶やかな黒髪をうなじで結わえ、三十路すぎてもなお誰もが見惚れるほどの美丈夫である。控えめに言って、パパ世界一かっこいい。
この広大な城において、一番えらいのはパパだ。その次が私。その他、百人余りの侍従達が一緒に暮らしている。パパは、この城では王様だ。だからもっと偉そうに、ふんぞり返っていてもいいはずだけど、あんまりそんな感じはしない。私が門番の男の子に「門番君」と呼びかけると、パパに「こらっ」と叱られた。
大きな体で膝をつき、私と視線を合わせて、真剣な顔で話してくる。
「トマスはこの城の従業員だが、おまえの部下ではない。この城の入り口を護ってくれている人に、敬意を払いなさい。ちゃんと名前を覚えること」
いつもは優しいパパだけど、時々こうして私にお説教をする。私は「はあい」と頷いた。
すると、パパはすぐに笑顔になる。私を抱き上げて、高いところまで持ち上げる。
「よし、素直でえらいぞリサ」
パパはこうして、よく笑っているひとだ。
大体いつも機嫌がよくて、たとえお仕事で難しい顔をしていても、私の姿を見るとパっと笑顔になる。
「おまえが居てくれたら、パパはいくらでも頑張れるぞー!」
叫びながら私に頬擦りする、ちょっと暑苦しいパパ――キュロス・グラナド公爵。
そんな明るいパパだけど……時々、明るくなくなるの。
夜、窓辺でじっと佇んでいる時がある。真っ暗な空を見上げて、その緑の目ははるか遠く、どこかを見つめていて……とても寂しそうに。
そして時々、呟くのだ。
「――マリー……」
と、ここには居ないひとの名を。
マリー・シャデラン・グラナドという女性――キュロス・グラナドの妻であり、私の「ママ」である人はもういない。
私とパパを残し、何処かへ旅立ってしまったのだ。遠い異国の地へ、『長い長い旅行中』と聞いている。
――旅行って、なにしに? パパや私を連れて行ってくれなかったのは、どうして?
そう聞いても、誰も教えてくれない。「いつかわかるよ」と、まるで私の口を封じるように囁いて、立ち去っていく。
私ももう、問いかけないようにしていた。なぜならパパがとても悲しい顔をするからだ。
きっとママは、何か悲しい理由……あるいはパパを悲しませる理由で、この城を出て行ったのだろうと思う。本当のところは、やっぱり誰も教えてくれないけどね。
教えてくれないくせに、パパはよく、ママの話をする。
「リサはやっぱりママ似だったな。緑の目以外はマリーにそっくりだ」
「今年はトマトの当たり年だな。こんなに美味しいトマト、マリーにも食べさせてやりたい」
「リサ、憶えているか? 昔マリーがここで花を摘み、おまえの髪飾りを作ってやって――」
話の途中で、私が反応に困っていることに気付き、口を噤む。それがパパのルーティーンで、私達父子の日常だった。
パパだけじゃない、『マリー』の奔走は、城の侍従達みんなの心に悲しい重しを残したようだった。
門番のトマス、湯の番のチュニカ、庭師のヨハン、料理長のトッポ、厩番のアダムやメイド長のオードリーまで、『マリー』を知る人はみな、時々彼女を懐かしむ。
そして私が黙り込んでいるのに気付き、アッ……と声を漏らして、気まずく顔を逸らすのだった。
きっと……ママはこの城の中で、娘の私が思っているよりもずっと大きく、大切な存在だったんだろう。
幼い私にはもはやおぼろげな記憶だけど、ママがいた頃と比べ、この城は気温を一回り下げたようだった。
窓から差し込む朝の光さえ、かつての輝きを失ったように感じられるほどに。
今朝もまた、パパは母の残した品々を眺めていた。
「ここはマリーがこの城に来たばかりの時、寝泊まりをしていた部屋でな。なんとなく、今でもそのままにしているんだよ」
パパはそう言って、大きなクローゼットの扉を開いた。
そこには美しいドレスの数々が、トルソーに着せられて保存されていた。床には細いヒールのついた靴がたくさん並んでいる。トルソーの肩には微かな埃が積もっていた。
「あ――これ、懐かしいな。赤いドレス……本当に初めてここへ来た日に着ていたものだ」
パパはそっとドレスの布に指を這わせ、目を閉じた。頭の中に大切にしまいこんである記憶を、無理やり引っ張り出すように……。
「マリー……」
緑の瞳が揺れ、唇がわずかに震えているのが分かった。私はやっぱり何と声を掛ければいいかわからなくて、パパの背中をじっと見つめていた。
するとその時、背後から鋭い声が飛んできた。
「旦那様! またマリー様の部屋に入って、なにやってるんですかもーっ!」
振り返ると、銀髪おだんごの少女が部屋の入口で仁王立ちになっていた。
年のころは十五、六。黒のワンピースドレスにエプロンという、侍女の制服を着た少女である。
つい最近、侍女見習いから私の専属侍女に上がった、ツェツィーリア・シュトロハイム。パパの執事ウォルフガングさんの孫でもある。私にとって姉のような存在だ。
彼女は細い眉毛を縦に釣り上げて、わかりやすくプンプンと怒っていた。パパが半ば呆然と、彼女を振り返る。
「……ツェリ」
「いつまでもいつまでも名残惜しむようなことしてっ! それ、いい加減捨てるか譲るかするべきですよ。もう着ることのない服なんだから」
「しかし……マリーが帰ってきたら、また着るかもしれないし」
パパが食い下がったが、ツェリは容赦なく首を振った。
「 そんなことは、ありえないです。旦那様も本当はもう分かっているでしょう?」
ツェリの、厳しくもどこか切なさが混じった声に、パパはますます眉根を寄せた。部屋の空気が一層重くなる。パパは眉間を押さえ、大きく息を吐いた。
「……わかっている。ただ……可能性に賭けているだけだ」
この時、私とツェリは全く同じ表情になっていたと思う。
ママが帰ってくるなど、ありえない。
ママがこの城からいなくなって長い時が経った。私の中の記憶さえ薄れつつある。だがそれでもパパは信じている――いや諦めきれないでいるんだ。ママがいつか帰ってくるってこと、またこの城で一緒に暮らせるってことに――それが、私には痛ましく映る。
それに、私はもう……知っているんだ。本当に、ママがここへ帰ってくることは絶対にないって。




