泡沫の現実
――その夜。
わたしはミオと共に、日中あった出来事をキュロス様へ報告をした。
ミオもわたしも、ただ事実だけを淡々と説明した。ミオ個人の進退について彼女は話題にしなかったし、わたしも何も言わなかった。
今、キュロス様はお仕事の関係で多忙を極めている。そのお仕事を邪魔しないよう、妻として努めなくてはいけない時期だ。
……さすがに笑顔ではいられなかったが。
膝の上でリサと手遊びをしながらも、わたしは無言で、ミオの声を聞いていた。
「トマスの体調に問題はありません。すぐに目を覚まし元気になりましたが、念のため、本日は非番としております」
「ああ、それがいい。労ってやってくれ」
ミオの説明を受け、キュロス様は頷いた。
「それより、彼らの正体と目的が気になる。ハドウェルの名を出さなかったんだよな?」
「はい。わたしが何度か問い詰めても、聞こえてないふりというか……意識的にはぐらかしているような気がしました」
わたしは応えた。
「ですが、状況的にはそうとしか考えられないです キュロス様が不在の間、この城を訪ねてきたオラクル人はハドウェルとヤンの二人だけですから」
「……そうだな」
キュロス様は低い声で呻き、頷いた。
カウチに深く腰掛けて、背もたれに体を預け、天を仰ぐ。
「……気分が悪いな。俺に直接干渉はしてこず、マリーやトマスをチクチク突いて、いったい何の意味があるのだか」
そう――彼らの行動の意味が分からない。それが一番不気味だった。
わたしが監修している『人魚の約束』は、もちろん利益になってはいるが、グラナド商会全体の収益からすれば微々たるもの。それこそ、狡い詐欺だと思えたほどに小さな攻撃だった。
門番トマスへの言いがかりも、客観的にはひどく小さい。グラナド城には百名を超す侍従がおり、そのうちの一人を失ったからと言って何にもならない。通常の城主ならば名を覚えてもいないからだ。実は一緒に料理をしたり我が子と遊んでもらうくらい仲良しだなんて、部外者は思ってもみないことだろう。
そんな彼を狙ったのは、本当にトマスが泥棒をしたと疑ったのか、あるいは……わたし達が仲良くしていると知った上での、イヤガラセ?
一瞬よぎった自分の発想に、まさか、と首を振る。
わたしへのイヤガラセのためだけにこんな大掛かりなことをするなんて、バカバカしい。わたしはそんなに大層な人物ではないわ。
「そういえばわたし、一度彼らの目の前でリサをトマスに預けました。それを見て、トマスがグラナド家にとって重要な人物だと思った、とか」
「そうかもしれないな」
キュロス様は大きなため息をついた。
「なんにせよ、何らか大きな目的があって、そのためにあらゆる手段を使ってきている……ということだろう。今後も警戒するよう、他の小さな仕入れ先や納品している商店にも話を通しておく」
「旦那様、私からもひとつ、憶測を申し上げてよろしいでしょうか」
ミオが一歩前に出た。
「……ん、なんだ? おまえはハドウェル達が来た時も留守にしていたと聞いたが」
「はい。ですので旦那様の仕事に関しては何も……もともと私は経済に疎うございますので何も言うことはないのですが。日中の闖入者達に、一点、気になるところがありまして」
「……言ってみろ」
「彼らは兵隊です。全員が戦闘のプロとして、厳しい訓練を受けた人間でした」
わたし達は、彼女に根拠を問いたださなかった。ただ無言で息を呑んだ。
ずいぶん長く無言の時間があってから、キュロス様は頷いた。
「……そうか。おまえがそういうのならば、そうに違いないんだろうな」
「お、オラクルの兵隊? それって、オラクル国家が絡んでいるということ?」
震える声でわたしが問うと、ミオは半分だけ首を傾げた。いつものクールな無表情のまま、さらっと簡単に返答をくれる。
「どうでしょうね。それはなんとも。ただ、イチ商人が雇った私兵や傭兵の寄せ集めにしては統制が取れすぎています。全員が同じ指導者により、同時に訓練を受けた者かと思われます」
「オラクルの警察ってことはないんだよな? あるいはディルツの」
「どちらもありえませんね」
ミオはきっぱりと言い切った。
うん……そう、わたしもそう思う。
ディルツで起きた事件はディルツ国家でしか裁けない。ゆえにオラクル警察がこの地まで調査に来ることはあり得ない。かといってディルツ人であるわけもなかった。だって彼ら、オラクルの民族衣装を着ていたもの。ディルツの警察がそんな仮装をする理由が無いわ。
だとしたら……彼らは一体なんだったの?
キュロス様は顎に手をやり、しばらく考え込んでいた。
その視線が時々、ミオからの視線と重なる。二人の間にアイコンタクトが出来ているのがわかった。だけどその意図までを、わたしは読み取ることができない。
……今、彼らはわたしに聞かせたくない話を視線で交わしている。わたしはそれを、聞いてはいけないんだ。
わたしは立ち上がった。
「あの……そろそろわたし、失礼いたします。わたしが話せることってもう何も無いですし、リサを寝かしてあげないと」
「ああ、では先に、隣の寝室に」
「今日は以前使っていた客室のほうをお借りしてよろしいでしょうか」
わたしが問うと、キュロス様の顔に戸惑いの色が浮かんだ。
「ああ……もちろん構わないが、どうして」
「別に……ただの気分転換です……」
「マリー様、申し遅れましたが今夜、リュー・リュー夫人もこの城に滞在しております。お一人になりたいのならば、今夜はリサ様をお預けになっては」
わたしは首を振った。リサを抱き上げ、部屋を出る。
そして客室へ駆けこんだ。
ここは一年半前までわたしが寝泊まりをしていたところ……グラナド城に来た時に、わたしの部屋として与えられていた部屋だ。キュロス様の部屋と隣続きの部屋を改装してからは、ここはリサの遊び場になっている。
お昼寝の時に使っているので、このベッドも久しぶりということは無いんだけど……。
リサをお腹の上に乗せ、どさっと背中から倒れ込む。
ぼふっと全身が沈み込む、柔らかな感触。ああ、懐かしい。初めてこのベッドに寝転がった時、夢のようだわと思ったっけ。いや、「そうかこれは夢だったのか」と本気で思っていた気がする。
――白亜の城、金の刺繍が入った深紅のドレス、硝子の靴。美味しいお茶やお菓子……無表情でやたらと強い侍女、緑の瞳の伯爵様――綺麗になったわたし。
この城に来て以来、物品も楽しい記憶も増える一方だった。
何より家族が増えた。わたし自身が生み出した、赤い髪と緑の瞳を持つ娘が、今わたしの隣で穏やかな寝息を立てている。
これが夢で、泡のように消えてしまうなんて思わない。
そうは思わないのだけど――。
これから……突然すべてを失ってしまうことは、あるのかもしれない。
またわたしはずたぼろになって――知らない街でひとり寂しく死んでいくことだって、あるのかもしれない――と。
ふと、そんなことを考えてしまったのだ。




