閑話 カラッポ姫はけじめをつける
歌が聞こえる。
もうじき日が暮れるというのに明かりもつけず、その女は一人、部屋の真ん中で椅子に座っていた。黙々と、ただ手元を動かしている。
来訪者を振り返りもせず、じっと、自分の指先だけを見つめて……。
「何をしているの?」
あたしが尋ねると、女は視線だけをこちらに向けた。
「編み物……靴下を作っているの」
独り言みたいにぼそりと答えて、また視線を手元へ戻す。
背の高い女だった。酷い猫背でもその頭身の高さがわかる。長い足を折りたたむようにして、小さな椅子に腰かけている。
……そういえば、この女はいつもそうして背を丸めていた気がする。
特に夫であるシャデラン男爵と並んでいる時は、首まで竦めていたようだった。そうまでして自分を小柄な女性と見せかけようとした。家族にバレないはずがないのに――バレたって誰も嫌いはしないのに。
あたしは女の許可を取らず、勝手に部屋へと入って行った。彼女の足元に転がる毛糸玉をチラと見て、呟く。
「靴下なんて編めたのね」
「なんでも作れるわよ。うちは貧しいもの。自分と家族が着るものは自分で作るわ」
「……絹糸でレースを編んでるとこしか見たことない」
「だって、シャデラン家は貴族だもの。服を作るなんてはしたないこと、人前でするものじゃないわ。農家の娘じゃあるまいし」
「あんたの中ではそういう基準があるってことね」
女はもう何も反応しなかった。聞こえているのかも定かじゃない、亡霊みたいな女に向かって、あたしは一方的に『報告』した。
「あのさ。今度このシャデラン領で、羊の畜産を始めるんだって。今までも飼ってた家はあったけど、一気に何倍にも増えるらしいよ。羊も人も」
女は答えない。あたしは続けた。
「そしたらきっと、人手が足りなくなるの。羊の世話したことある人、そんなに多くないし。経験者の助力はいくらあってもいいんじゃないかなって」
「…………」
「で、まぁ、ふと思い出したんだけど。たしかあんたも農家の生まれでしょ。羊の飼い方、覚えてるんじゃない?」
女は無言だった。
「働きなよ。たまには外に出て、人と関わって……お日様浴びたほうがいいよ。……たぶん」
あまりの反応の薄さにこちらも尻すぼみになっていく。ずいぶん時間がたってから、女はボソリと呟いた。
「飼い方、知らない。羊……居たけど、わたしバカだから、大事な家畜、おとうさん、触らせてくれなかった」
「……あっそう。じゃあ……仕方ないね」
女はコクリと、居眠りしたみたいに頷いた。
そのまま無言の時間が過ぎていく。
空の色が変わるほど、長い時間が経って……女はふと顔を上げた。
「そういえばあなた、誰?」
「 ……アナスタジア・シャデラン」
「嘘よ」
女は即答した。
「アナスタジアがここにいるわけがない。だってあの子はもう、いなくなってしまったもの」
あたしは思わず笑ってしまった。
……そっか。どっかおかしくなってるだろうと思っていたけど、ここまで来てたか。
アナスタジア・シャデランは川に流されて死亡した――そう世間に思われてたのは、もう何年も前のことだ。あたしが生きてたことを、この女も知っている。その先の生活――王都で釦職人として働いていること、スミス・ノーマンの養女になったこと、第三王子と婚姻したことまで……彼女は知っているはずだった。あたしが手紙で知らせていたから。
あたしは自分の環境が変わるたび、彼女に手紙を出していた。
そして返事を待っていた――あたしの生活についてコメントを求めたわけじゃない。ただあなたが無事でいるか、ちゃんとご飯を食べているか――そのくらいのことは聞いておきたくて。
返事は、今の今まで一度も来なかった。
あたしは髪を縛り直した。帽子の中に金髪を隠し、嘆息して、背を向ける。
「もういいわ。夢の中で生きている方が、なんだかんだ言って幸せかもしれないし」
「ええそうね。わたし幸せなの」
歩きかけた背中に女が返事をくれる。
「わたしが産んだ子は、みんな幸せになったから」
あたしは足を止めた。
振り返った視界――暗い部屋の真ん中で、女は笑っていた。
毛糸を紡ぐ手を休めることなく、微笑みながら、独り言みたいに。
「娘は二人とも結婚したの。次女は子まで産んだって。息子も、呑気で頼りない子だと思ってたけど、学園ですごく頑張ってるそうよ。友達がたくさんできたって……あの子はおシャベリだものね。人を楽しませるのが上手なの。そういうところ、夫に似てるわ」
「……エルヴィラ・シャデラン」
あたしは彼女の名を呼んだ。
彼女は応えない。
「一番上の子……アナスタジアはね、本物のお姫様になったの。王子様と結婚したんだって。でも、街でお仕事もしているんだって。ボタン……服? よくわからない、けれど、何かを作っているんだって」
「…………」
「あの子、昔から手先が器用だった。そこだけは、わたしに似たのねえ……」
どうしてだろう、突然あたしの目に涙が溢れた。
胸の奥で大きな感情が爆発する。舌の根からお腹の底までが震えていた。どうしても言いたくない言葉が漏れ出してくる。
あたしは両手で口を押さえ、床に向かって叫んだ。
「お母様……お母様っ……!」
「あら。どうして泣いてらっしゃるの? なにか悲しいことがあった?」
母は立ち上がり、あたしのそばに駆け寄ってきた。無邪気で愚かで、世話好きだったそのひとは、泣いてるあたしを抱きしめて、頭を撫でて慰める。幼い子供にするように……自分が知っている唯一の方法で。
「今の生き方が辛いなら、早く結婚して子を生むといいわ。親になれば、我が子の幸せが自分の幸せ……どんなに自分が不幸でも、愛する我が子が幸せになれば救われるんだから」
――このひとは、悪人ではない。
だけど愛せない。仲のいい母娘になんかなれない。だれも彼女を救えない。許せない。それでも憎むことができない。
あたしは泣きながら母に縋りつき、ほとんど吐息みたいな言葉を吐き出す。
「さようなら、ママ。もう二度と、あなたに会わない」
あたしはあたしのやるべきことをして、守るべき家族を大事にする。自分が幸せになるために。
そうすることで、あなたも幸せになれるというのだから。




