これでよかったのか教えてください
人懐っこい、子犬のような顔が強張っていた。でもそれはほんの一瞬のことだった。すぐに『きょとん』とした表情になる。
「えーっなんでですか? 大丈夫ですよ、旦那様からの許可はいただいてますから」
にこにこと、本当に明るく無邪気な少年のような笑顔。
……わたしには、人の本心を察する能力なんてない。歴戦の商人の笑顔の裏となると、なおさら。
わからない――から、迂闊に動くことはしない。
わたしは書類の上に手を置いた。
「お時間をください。わたしは今これを見せられたばかりで、一ページ目すらまともに読めておりません」
「もちろんどうぞ。初めの三枚に、全体の要項がまとめられておりますので」
「いいえ、全ページを精読いたします。ですので今日のところはお引き取りくださいませ。後日またお返事いたしますので」
「えっと、ですからその必要は無いと。だって読むの大変でしょ。なにより先にキュロス様がすべて――」
「夫は関係ありません。これは、わたしの仕事です」
わたしはきっぱりと言い切った。
……本当言うと、少しばかり誇張していた。ヤンの言う通り、このブランドはやはりグラナド商会、キュロス様のもの。わたしは形だけの監修をしているだけだ。
だからこそ、彼らの言い分に違和感があった。キュロス様の仕事――彼の許可はある――なら、どうしてわたしにサインを求めるの?
必要だから――わたしの許可が無くてはできないことをしようとしているから――キュロス様の許可など、本当は取れていないから。
可能性はいくつか思いつく。だけどいずれにせよ、短絡的な行動をしてはいけない。
わたしはヤンにペンを返し、代わりに書類を引き寄せた。
「これはいったんお預かりします。そして夫やグラナド商会の関係者にも相談し、検討したうえで是か非かを返答します。今日のところは、ここまでにしましょう」
――ヤンの目が一瞬、わたしを睨むように険しくなった。わたしは気づかないふりをした。
「さてお二人とも、お腹は空いていませんか? もしよかったら、ぜひ召し上がって。当城の料理はたいへんな美味と評判で」
「――要りません。おれが欲しいのは、『人魚の約束』とあんたのサインだけだ」
突然の変化だった。
話し方も声も、今までのヤンと違いすぎて、隣のハドウェルが喋ったのかと思ったほど。
だけどわたしを「あんた」呼ばわりしたのは、真正面に座る、少年のように小柄な男のほうだった。
「……ヤンさん?」
「小賢しい。あんたさあ、そんな偉そうなこと言えるような立場じゃねえだろ」
履き捨てるように言って、ヤンはぶ厚い書類の上に、一枚の羊皮紙を置いた。
表題にあるのは、『マリー・シャデラン調査書』――わたしは息を呑んだ。
「こっちも遊びで商売やってんじゃねえ。あんたのことは調べをつけてるんだよ」
「……調べ、ですか」
「あんた、ここに嫁ぐ前は『ずたぼろ娘』なんて呼ばれてたな?」
「…………それがなにか」
わたしが静かに問うと、彼はひょいと肩をすくめた。
「姿かたちはどうでもいい。それよりあんたは当時、実家の領地経営を手伝っていた。フラリア語、バンデリー語、シャイナ語まで使いこなし、公的書籍のみならず外国人の人夫雇用や材料の輸入出に関わる書類作成を担当しておられたと――父親の名を騙って」
そこまで言われたら、彼が何を材料に、わたしを脅そうとしているのか察しが付く。わたしは黙って、オラクルの商人が楽しそうに語るのを聞いた。
「公爵からの誠実な愛をモチーフにした、『人魚の約束』のモデルには、ちょっとふさわしくない人材だよな? ハドウェル商会もそう考えて、キュロス卿に話を持ち掛けたんだ。そしてあんたの旦那は、権利の譲渡を快諾した。それだけの話」
…………。
わたしは無言で、オラクルの商人――正確にはその通訳として雇われている男を見つめた。その無言を、恐れおののいているとでも思ったのだろうか。ヤンの口元には笑みが浮かんでいる。
「変にごねるのはやめなよ。まさかあんたみたいな罪人が、公爵様に本気で愛されてるなんて思ってるわけじゃないだろう?」
焦りはなかった。過去は消せない、言い訳もしない。そうする必要が無いから。
「ヤンさん……もう一度聞きますね。それがなにか?」
努めて冷静な声で尋ねる。ヤンは、子犬みたいに丸い目をさらに丸くした。
「確かにわたしは以前、過ちを犯しました。しかしそれは無垢な子どもであったゆえ、わたしもまた父に騙された被害者なのだと証明されました。キュロス様、ミオ、ルイフォン様、リュー・リュー・様、故グラナド公爵の名が書かれた証文があります」
「……なっ……」
「父の罪に関しても、すでに断罪は済んでおります。訴状に上がっていないものについては証拠がなく立証不可能、無罪。シャデラン家に後ろ暗いところなど今やなにひとつございません」
わたしは調査書とやらを手に取り、わざと軽薄な所作で、ひらひらと振って見せた。
「これでわたしを怖がらせることはできませんよ。他にはまだ、なにかありますか?」
「あ……い、いや……」
「では、今日のところはお引き取りを。それとも、やっぱりご飯食べていきますか?」
わたしはにっこりと、ヤンよりも口角を上げて笑って見せた。
わたしの態度は、ヤンにとって完全に想定外だったらしい。押し黙ったまま何も返せなくなっている。
――よし。これで正解だったようだ。わたしは内心、ホッとしていた。
――他人に対し謙虚であることと、侮辱を許すことは全く別――。
キュロス様のお手伝いをしたいと話をした時、教わった言葉だった。ただでさえわたしは気弱で、必要以上にへりくだってしまう癖がある。それはただ相手に弱みを晒し、さらに付け込まれるだけ。時には傲慢に見えるほど、気丈に振舞う必要もあるのだ――と。
震える手を、冷たい汗と共にギュウッと握る。ヤン達に見えない位置に隠しながら。
怖かった。怖くてたまらなかった。
……ねえキュロス様、これでいいのよね? 合ってる? わたし、正しく戦えた? キュロス様……。
しばらく無言でにらみ合いが続き――沈黙を破ったのは地を這うほど低く太い、男の声だった。
「退こう、ヤン」
――ハドウェル・デッケン。喋った! しかも、短いが間違いなくディルツ語だった。
彼が声を発したことに、ヤンはわたし以上に驚いたらしかった。ハッと表情を変え、すぐに立ち上がる。
「わかりました。我が主がそうおっしゃるならば……今日のところはこれで」
「……あら、そう? 主人が帰るまでおくつろぎいただいて構いませんのに」
「どのみちそこまでは待てませんよ。早朝に出立したとしても、港町からここまで半日はかかるでしょう――」
「……え?」
ヤンは不自然なことを言った。だがわたしが問い詰めるより早く、彼らは手早く帰り支度を済ませると、自分で扉を開けて出て行った。
正直言うと、ここで帰ってくれてホッとしていた。本当ならもっとちゃんと引き留めて、正門までお見送りしないといけないのだけど、わたしはわざとゆっくり身支度をした。追いかけたがその前に帰ってしまった、という言い訳を作るために。
……はあ。なんだかものすごく疲れてしまった。今すぐミオの淹れた美味しい紅茶が飲みたい気分だわ……。
溜め息を漏らしながら、わたしは緩慢な動作で部屋を出た。
ほんの数歩歩いて、ふと人間の気配を感じ、顔を上げる。
目の前に、巨大な男がいた。燃えるような赤毛、黒々とした太い眉に、ぎょろりと大きな獣の瞳――ハドウェル!
改めて並んで立つと、本当に大きな男だった。わたしも男性の平均並みにあるはずなのに、首が傷むほど見上げなくては目が合わない。キュロス様より背が高く、肉厚だった。
自分よりも圧倒的に大きく強い男性が、自分を待ち伏せていたのだ。本能的な恐怖で、わたしは「ひぃっ」と悲鳴を上げてしまった。
が、怯えるわたしにハドウェルは、何の行動もしなかった。ただじっとその場に立って、わたしを見おろしているだけ。そのまま数秒経つ頃にはわたしも平静を取り戻していた。恐る恐る、まだ震える声ではあったけど、自分から話しかけてみる――。
「……あっ……あの。まだ、なにか……?」
恐る恐る、尋ねてみる。すると彼は、大きな唇を開いた。
「すまなかった。怖がらせて」
「えっ」
わたしが言葉を返すより先に、ハドウェルは踵を返し、わたしに背を向けた。そのまま廊下を歩きだす。
わたしは彼を追いかけることが出来なかった。
恐怖に足がすくんで……ではない。不可解なことが連続で起こりすぎて、処理しきれなくて。
誰かに相談するまで、もう身動きが取れなくなってしまった。




