プロローグ~冬の景色に親馬鹿を添えて~
新章開始です!
時が経つのは本当に早い。
自分が子を産んで、もう一年以上経ったなんて、現実味が無いくらいだ。
あれだけ夜泣きに悩んでいたのがつい昨日のよう。
卒乳が済み、両親以外の人の顔も見分けがつくようになったエリーザベト。ミオや他のメイドにも子守りを任せられるようになり、かなり手がかからなくなってきた。
危なっかしくグラグラしているけれど、城内を歩き回る姿は、もう「赤ちゃん」ではなく「小さな人間」。手指もかなり器用になってきて、今日も絨毯の上に座り込み、おもちゃの積み木で何かを建立している。
「何を作っているの、リサ?」
わたしが尋ねると、リサは積み木をわたしに差し出した。
「んま! んぁまあまま……」
意味の分からない言葉を言いながら、積み木をハイッと渡してくれる。
……あっ、もしかして今、ママって言った?
わたしがそう口にする前に、
「ママって言った! 今マリーのことをママって!」
隣のキュロス様が歓声を上げた。
「なあミオ聞いただろう? リサ、ママと言ったよな!?」
「ただの喃語じゃないです? 先ほどお昼ご飯を食べながらもンマンマ言ってましたよ」
ミオの言葉にもキュロス様は断固として首を横に振った。緑色の目を細め、リサを抱き上げるとスリスリと頬擦りをする。
「いや間違いなく言った。もうこんなに上手にお喋りをするなんて、さすがうちの子、天才だ!」
「極めて一般的な成長速度です」
どれだけクールにミオが諭してもキュロス様はお構いなし。というより、娘が天才だろうがそうでなかろうが、この人は全力で可愛がるのだ。
「パパって呼ばれるのはいつかなあ、楽しみだなあ」
ああ……褐色の肌がリサの涎でべちょべちょに……。
我が夫、そしてグラナド城の城主であり公爵家当主、キュロス・グラナドは背が高い。
凛々しく逞しい姿に、彫りが深く整いすぎた顔立ちは、黙っていると威圧的にすら感じる。だけど今、娘に頬擦りをしてちょっと嫌がられているその姿は……なんというか。本当に、どこにでもいる親馬鹿――もとい、子煩悩なパパそのもので。
こんなキュロス様の姿にもずいぶん慣れてきたけど、どこかくすぐったい気持ちになる。
わたし、この人と出会ったばかりの頃、怖い人かもってと思っていたんだよなあ……。
キュロスはリサの顔をまじまじ見つめ、優しい口調で囁いた。
「顔立ちもはっきりしてきたな……マリーに似てきた」
「そうでしょうか? わたしは、目元がキュロスにそっくりだと思ってました」
リサは赤い髪に緑の瞳、わたしとキュロス様のちょうど間くらいの肌の色である。
平均的な子より少し大きいらしいけど、これは夫婦ともに長身なので、どちらの血を継いだのかは分からない。夫婦の特徴をそれぞれ分け合っている感じがする。ミオ曰く、「いいところ取りをしている」とのことだった。
「どちらに似ても素敵な女性に成長するだろう。大人になったリサに会えるのが、今から楽しみで仕方ない」
父親からの愛の言葉が通じたのか、リサは声を上げて笑った。
キュロス様の頭に抱き着いて、黒髪をくしゃくしゃ混ぜる。子ども特有の、湿った手に髪の毛が絡まって、キュロス様が「痛たた」と呻く。わたしは慌ててリサの手を掴んだ。
「ダメよリサ、パパの髪を掴んじゃ、パパ痛いでしょ。離しなさいっ」
「だ、大丈夫だマリー。痛くない、全然痛くない」
「えっ今さっき『いたた』っておっしゃいましたよキュロス様」
「全然、我慢できる範囲だから良いんだ、リサの好きにさせてやってくれ」
確かに言葉の通りニコニコ笑ってはいるけれど……わたしは腰に手を当て、嘆息した。
「あなたが良くても、リサの教育に良くないわ。人の髪を引っ張ったら痛い、ダメなことなんだって教えなくては」
「じゃあ、他の人にやるようなら叱ってくれ。俺は本当に平気だから……うぐぐっ」
あーあ、目に涙まで浮かべちゃって……もう。本当に親馬鹿なんだから。
まあ確かに、リサはこのイタズラを、なぜかキュロス様相手にしかやらない。生まれてすぐの頃から、彼の髪を掴むのが大好きだった。かつて一つ結びにしていたので、ちょうど握りやすかったのかもしれない。しかしキュロス様が髪を切り、短くしてもリサのイタズラが治まりはしなかった。長さより、艶やかな漆黒の色や髪質が気に入ったのかもしれない。
結局キュロス様も諦めて、今はまた伸ばし、少し短い程度で前と同じ髪型に戻っている。
それを時々自分で摘まみ、リサの前で猫じゃらしみたいに振って見せては誘っているくらいだから、本当にもう放っておいていいのかも。
痛い痛いと言いながら、全然リサから逃げないキュロス様。どれだけイタズラしても父からの愛情が枯れることは無いと確信し、笑い続ける娘……。毎日続けばいいと願ってやまない光景が、毎日ずっと続いている。
その時、部屋の扉が軽やかにノックされた。湯番のチュニカがひょいと顔を出す。
「マリー様ぁ、もうお湯あみの時間ですけど、まだですかぁ?」
「あっごめんなさい、お待たせしちゃったわね。すぐにいくわ」
わたしは立ち上がりながら言った。
いけない、リサといるとつい時間の流れがゆっくりに感じられて、自分のルーティーンがおざなりになってしまう。そう言い訳をすると、チュニカにしっかりと叱られた。
「だめですよぉ。いくら家族が大事でも、自分自身を粗末にしちゃぁ。睡眠、食事、清潔、気分転換、美容のためにはどれも欠かしてはいけませぇん」
「はぁい……」
「『お母さん』になっても『おばさん』になっちゃダメですからねえ」
チュニカは冗談みたいに言いながらも、目は本気だった。
さすがグラナド城の美容番長、容赦ない……。もともと美容を磨くという習慣が無かったわたしは、こうしてチュニカが喝を入れてくれないとすぐ気を抜いてサボってしまう。ありがたいことだと思っていると、隣でキュロス様がキョトンとしていた。
「何だ、それは。おばさんというのは、ある程度の年齢がいった女性のことだろう? 生きていれば年は増えるのだから、ダメと言われても困るだろう」
「えっと、そういうことじゃなくてですね……そう呼ばれてしまうような人間、というか」
「『お母さん』も、子を産んだ女性を子の目線で呼ぶものだしな。風呂に入らなければお母さんじゃなくなるとはどういうことだ。マリーは母親だし、おばさんになっても俺の可愛い妻だぞ」
キュロス様は大真面目な顔でそう言った。
えっと……。なんというかその……違う。かなり違う。
だいぶ違うんだけども、これは……わたしは喜ぶべき話でしょうか……?
チュニカも額に汗を垂らしながら、
「えーっとぉ、見た目の話でぇ……事実、女性は年齢とともに肥りやすくなったり……」
「いいじゃないか、肥っても。ケーキも花束も、大きくなるに越したことは無い。大好きなマリーが二倍に増えたら、俺は嬉しいぞ」
そういう問題なのかしら!?
想定外の反論をされて、チュニカは目をぱちくりさせていた。やがて、呆れ果てたというように肩を竦める。
「はいはい、その通りでございます、どうも私が悪いこと言いました。毎度毎度、ごちそうさまぁ。マリー様の良いタイミングでいらしてくださいましぃ」
チュニカは手をひらひらと振りながら、部屋を後にした。
そんな彼女と入れ替わりに、老紳士が訪ねてきた。執事のウォルフガングだ。
彼は部屋には入らず、視線だけでキュロス様を呼び寄せた。
「お楽しみのところ恐れ入ります、旦那様。そろそろ出発のお時間でございます」
「ああ、そうか。もうそんな時間……」
キュロス様は嘆息して立ち上がった。
彼は公爵でありながら、グラナド商会という、大きな貿易商の総括者でもある。海を隔てた東部大陸の、イプサンドロスという国から、衣類や工芸品、貴金属やスパイスなどを買い付けている。それをここディルツや近隣国に転売する商売、いわゆる貿易商だ。
一人娘のリサが極度の人見知りだったため、子育てのため城に滞在してくれていたが……本来彼は自国と異国とを行き来して、何カ月も城を留守にする仕事のひとだった。
娘に、文字通り後ろ髪を引かれている彼に、ウォルフガングは申し訳なさそうに一礼した。
「僕としても、旦那様にはもっとご家族との時間を過ごしていただきたく思っているのですが……」
「いや、仕方ないことだ。それに今回は港町で、在庫のチェックと次の買い付け用リストを作るだけだろう?」
「ええ、現地での作業は一日で終わる程度かと。移動時間のほうが長くなりますね」
「一泊だけして、早朝には宿を出よう。そのために各地に責任者を置いているのだしな」
「ええ、そのように。いつもの宿に連絡をしておきます」
そんな会話をしてから、キュロス様はわたしに向き直った。
「ということで、三日ほど留守にする。不在の間、寂しい想いをさせてしまうだろうが……」
わたしは首を振った。彼の気持ちは十分に伝わっているし、こうして出かけるのも彼の大事な仕事だった。ディルツ国民の生活を彩る、大きな仕事をしている彼を誇りに思う。
「ミオもいますし、アナスタジアお姉様もたびたび遊びに来てくれますから」
――それは、嘘だった。
アナスタジア――わたしの実姉は、王都職人街、釦屋で働いている。そこで培った技術と、もともと得意だった衣装作りのセンスが認められ、今、服飾デザイナーをやっているのだ。
姉は今、王国騎士団の礼装制作で大忙し。きっと城に遊びに来るヒマなど無いだろう。
だけどそれを言っても、キュロス様に無用の心配をかけてしまうだけだ。
もしお姉様が来てくれたとしても、変わりはない――あなたを恋しく思う切なさは、あなたでしか埋められないのだし。
わたしはこの時、問題なく、上手に笑えていたと思う。だがキュロス様は眉根を寄せて、わたしの頬を手のひらで包んだ。わたしを温め、慰めるように。
「マリー、もし何かあったら、俺が戻るまで――」
と、何かを言いかけて、途中で唇を噤んだ。少しだけ考えてから、言い直す。
「いや、君はもう、この城の女主人だ。俺がいない間、城主として胸を張って務めてくれ。来客は、君の思うように適宜もてなしてほしい」
「……はい、承知しました」
わたしが頷くと、彼はほんの少しだけ切ない眼差しでわたしを見つめ、優しいキスをくれた。ほんの一瞬だったけれど、その温もりが心に深くしみこんだ。
「じゃあ、行ってくる」
ウォルフガングの後に続いて、部屋を出て行くキュロス様。その後ろ姿は大きくて、出会った時と変わらず頼もしい。妻として、心から誇らしく思う。
わたしは娘を抱っこしながら、夫の背中を見送って――。
「ぱぁぱー」
「――ちょ待っ今リサ俺にパパって言ったかぁっ!?」
夫は、ものすごい勢いで部屋に戻って来た。




