【新章準備特別編】唇に棘を、指先に花びらを
柔らかな日差しが差し込む、午後のグラナド城。
わたしは机に肘をつきながら、チュニカに手を預けていた。彼女は器用な指先で、わたしの爪に細い筆を滑らせていく。
「いかがですかぁ、マリー様?」
問われて、手を宙に掲げた。
五指の爪が明るい桃色に塗られ、さらに花模様が描かれている。わたしはホォッと溜息を吐いた。
「すごい……とっても可愛い。こんな小さな爪の中に、春がギュっと詰まっているみたい」
「うふふ、ディルツの春の花を指ごとに描いてみましたぁ」
チュニカは誇らしげに胸を張った。彼女の手元、机の上には小瓶が並び、染料やキラキラ光る粒が入っている。それでわたしの爪を綺麗に飾ってくれたのだ。わたしはうっとりとその美しさに見入った。
「わたし、爪に色をつけるのって初めて……」
「慣れれば自分自身でもできるようになりますよぉ」
「本当? わたし一生できない気がするわ」
その時、扉が軽くノックされた。
近頃わたしはノックの音だけで、来訪者がわかるようになってきた。チュニカに手を掴まれているので座ったまま、来訪者に呼びかける。
「キュロス様。どうぞ、お入りください」
すると、開いた扉から長身の男性が顔を出した。わたしと目が合うと、柔らかな微笑みを浮かべる。
「やあマリー。お茶に誘いに来たんだが……何かしているのか?」
「ええ、見てください。チュニカが爪に絵を描いてくれているの」
歩み寄って来た彼に手を差し出すと、キュロス様は身をかがめ、爪をじっと見つめてきた。
……一般に、男性は婦女子のオシャレには興味を示さない。こんな風に突きつけたところで面倒がるのが関の山――らしいのだけど、キュロス様はそれに当てはまらないひとだ。神秘的な緑の瞳をさらに輝かせた。
「へえ……爪を塗るお洒落は昔からあるが、これほど細かい絵を描きこむのは初めて見た。光っているのは真珠の粉末と、雲母か?」
チュニカがニヤリと笑う。
「さっすが旦那様、御名答ぉ。ちなみにベース部分は蜜蝋と卵白で作ってまぁす」
「……なるほど。材料費が嵩むから民間に浸透するのはずっと未来だろうが、上流階級の間でなら流行るかもしれないな」
「材料費より職人の技術料のほうが高くつくかもですよぉ」
そう言って、チュニカは髪の毛より細い金繊維をピンセットで摘まみ、わたしの爪の先端に張り付けた。さらにチョンチョンつついて捻じれさせ、蔓草模様を作っていく。
……たしかに、これは職人技だ。今この世界でこれが出来るのは、チュニカただ一人かもしれない。
キュロス様も心から感心したように、熱っぽい溜息を吐いた。
「愛する妻に世界一の美容職人を付けてやれたことを、俺は誇りに思うよ」
まあ……。その言葉を聞いて、わたしもチュニカも思わず目を合わせ、同時に照れ笑い。キュロス様のこういう所って、本当に素敵よね。
だが……そんな和気あいあいとした雰囲気の中。部屋の隅で、ずっと無言でいる者がいた。その気配にやっと気づいたキュロス様が、彼女に声をかける。
「なんだ、ミオ、いたのか」
「……おりましたよ、最初から」
不愛想な返事に、キュロス様は眉を顰める。
「どうしたおまえ。いつも通りと言えばいつもの通りだが、いつもに増して仏頂面に見えるぞ」
その言葉で、わたしとチュニカは再び顔を見合わせる。
……そう言われてみれば、確かに。ミオが無口なのはいつものことだけど、それでもこの部屋にいる時は、ずっと無言ってことはない。なんだか今日は……ちょっと、機嫌が悪い?
「何も、言うことはございませんよ。私はしょせんただの侍女、マリー様の行動に物申す立場にございませんので」
「その言い回し、やっぱりなにか思うところがあるんだろ。とにかく言ってみろ」
わたしにはよくわからなかったけど、さすが義理姉弟同然に過ごしてきたキュロス様は、ミオの微細な表情の変化を見破れるようだ。ミオは観念したのか、小さく嘆息する。
「……そうまで追及されるならば、申し上げます。この『爪塗り』を、私は推奨しておりません。色を塗るだけなら良いですが、固いものを乗せるのはいかがなものかと。うっかり肌を傷つけたり、ポロっと取れて食事の皿に入る危険もあります」
「あっ、も、もちろん日常生活ではしないわ! 社交界とか、特別な儀式の時だけ……!」
「てゆーかぁ、そう簡単に落っこちないよう、特濃のゼラチンでしっかり固定しますよぉ」
わたしは慌てて言い訳したけど、チュニカはそっぽを向いて舌を出した。
その態度に、ミオがさらに機嫌を損ねたのが見て取れる。だがそれ以上、わたし達を責めることはなかった。むしろ深々と頭を下げて、
「はい。チュニカの腕や配慮を疑ったわけではありません。ご不快にさせてしまい、申し訳ありませんでした」
そう言ってから、キュロス様を睨む。「だから言いたくなかったのに」と言外に責められて、キュロス様も頬を掻いていた。
……とりあえず仲たがいすることは避けられたけど、せっかくの気持ちが萎んでしまった。すると心なしか、爪に描かれた花までが少し、しおれて見える。
悲しい気持ちになってしまう……。
すると、キュロス様とチュニカがちらりと目を合わせ、何やらひそひそと話し始めた。
「よし。じゃあ、こうしよう」
「それしかないですわねぇ」
――次の瞬間、キュロス様が突然、ミオの肩をガシッと掴んだ。ミオが息を呑み、キュロス様を振り向く。
「!? 何を――」
「よし今の内だ! 俺が抑えている間に、マリー、ミオの爪を塗れ!」
「えっ!? ミオに!?」
わたしが戸惑いながら尋ねると、チュニカはにっこりと微笑んだ。
「さあさマリー様、教えてあげますから、私と一緒にぃ」
「えっ? えっ、えっ……い、いいのかなあ!?」
「いい、いい。興ざめするようなことを言った罰だ。このカタブツに、たまには紅でも差してやれ」
ミオは眉をひそめ、低い声で警告した。
「……後で覚えていてください」
……ひえっ。
わたしは後ずさった。……でも……。
わたしはミオと向かい合い、チュニカの差し出した筆を持った。
そして、ミオに似合う色やデザインを、一所懸命考える。
……ミオの手は、その腕力からは考えられないほど小さくて華奢だ。爪も相応に小さくて、仕事のためか、深爪気味に短く切りそろえられていた。
わたしは数ある染料の中から、淡いピンクで、乳白色の物を手に取った。小さな刷毛でミオの爪にそっと塗り、油を乗せて馴染ませてから、そうっと銀糸を追加して、ゼラチンで蓋をする。これが固まったらなめし革で磨くのだけど、少し時間がかかるので、フーフーと息を吹きかける。
……やがて……指を動かしても大丈夫な程度に固まってから、キュロス様は手を離した。自由になった彼女に、わたしは微笑んだ。
「どうかしら」
ミオは無言で手を見つめた後、短く言った。
「…………素敵、だと思いますよ。客観的には。私には必要ないですけれど」
「素直じゃないなー」
後ろでチュニカが頬を膨らませたが、ミオの口調は変わらず平坦だった。
「素直に、真実を述べたまでです。……では私はこれで失礼いたします。今日は非番でしたので」
そう言って、ミオは静かに部屋を出て行った。
わたしは眉根を寄せて、チュニカと顔を見合わせる。
「やっぱり不快だったかしら……」
そんなわたしに、キュロス様が小さく笑った。
「いや。ミオは別に、爪飾りを嫌悪しているわけじゃない。君の体を心配しただけのことだ」
「でもさすがに、無理やり塗るのはどうかと……」
「大丈夫、あいつが本気で嫌がってれば、俺が押さえておけたわけがないからな。むしろ案外、気に入ったんじゃないか?」
いたずらっぽく笑って言うキュロス様。
思わずわたしも、笑みがこぼれる。
確かに、そうかもしれない。
……それならよかった。
少しでも、ミオが喜んでくれたのならば。
この世界には、無数といえるほどにオシャレの手段がある。化粧、衣服、アクセサリー、髪型……その中で、鏡がなくても見れるのが爪塗りだった。
それってつまり、自分の姿を見る他人のためでなく、自分自身のためだけに着飾るものってこと。
いつもわたし達に誠心誠意尽くしてくれるミオ……彼女はいつもわたしが持つちょっとした特徴に気付き、素敵な長所だとほめてくれる。たまにはミオも、自分自身の手を見て、「素敵だな」って……自分を褒めてほしいって……そう思ったんだ。
わたしがそれを、とても幸福に感じているから。
昼下がりのおやつを食べ終えたころ、館でミオとすれ違った。
いつもミオは休日でも同じ格好――グラナド城女性侍従の制服――で、この館にある自室にこもり、静かに過ごしている。だけどその日は見たことのない服を着ていた。
明るい色のワンピースに、白い帽子、ほんの少しだけヒールのついた靴。
「ミオ、どこかへ出かけるの?」
「いいえ、別に。ただ日用品の買い出しに、街まで出てまいります」
そう言うミオの声や顔は、いつも通り平坦なものだったけど……。
揺れる指先が淡いピンクに染まり、キラリと一条、銀糸が光っているのが見えた。




