【おまけの番外編】
緊張感と期待が交錯する夜だった。
俺は廊下を行ったり来たりしながら、扉の向こうの声に耳を澄ませていた。お産を手伝う女性たちが出入りするたびに俺は立ち止まり、状況を尋ねようとしたが、大抵は「男は黙って待ってろ」と追い払われるだけだった。そこを捕まえて更に追及など出来るはずもなく、ただ彼女たちの表情や様子から状況を察しようと試みる。みんな鬼気迫っていた。自分で考えようとすると悪いことばかり思いつく、だがそれを否定してくれる人は誰もいない。時々マリーの苦しそうな声が聞こえるたび、俺は血の気を引かせ、ひたすらに地団太を踏んだ。
――大丈夫、ここまで順調だった。きっと安産だと医師も言っていた。大丈夫、大丈夫……。
そう自分に言い聞かせるのが精いっぱいだった。
出産――それは俺達男にとって永遠に理解し得ない、神の奇跡。そして悪魔からの試練だ。
マリーの妊娠が分かった時から、俺は今更ながら妊娠、出産について調べて回った。そして蒼白になった。いわく、この世に存在するすべての痛みを凌駕する激痛。母子いずれかの死亡率も決して低くはない。調べれば調べるほど血の気が引いて、とうとうマリーに本を取り上げられてしまったほどだった。
「生むのはわたしなのだから、キュロス様はドンと大きく構えていてください。大丈夫です、立派な子を産んで見せます」
マリーは毅然とそう言っていたが……。
俺は窓の外を見つめ、夜空に輝く星々を見上げて指を組んだ。
「神よ、どうかマリーと子どもを御守りください」
俺はふだん、熱心な信徒とは言い難い。むしろ多くのディルツ人と同じく不敬虔で、年に数度、儀式的に祈るくらいのものだった。
だが今は、魂の底から妻子の無事を神に祈る。賄賂でどうにかなるならば全財産をつぎこんでもいい。どうかマリー、無事でいてくれ。
組んだ指が、緊張でにじみ出た汗で滑った。
いったいどれほど時間が経ったか――何日も待たされたような気がしていた、その時。
突然、部屋の中から聞いたことのない声がした。
産声だ。その瞬間、俺の心に大きな安堵と喜びが広がった。思わず扉に駆け寄り、激しく扉を叩く。たぶんそれが迷惑だったのだろう、呆れたような、苦笑いをした助産師が扉を開けてくれた。
「どうぞお入りください、おとうさん」
いざ招かれると、躊躇する。俺は震える足を一歩ずつ前に出し、ゆっくりと部屋に入った。
そこには俺の家族が二人いた。仰向けに寝かされ、シーツを纏ったマリーと、助産師に抱かれた小さな赤ん坊。マリーは疲れ切ってはいるが満足そうな顔をしていた。汗にまみれ、赤らんだ顔を俺に向け、微笑み、囁いた。
「女の子よ」
助産師が赤ん坊を俺に渡してくる。俺はおっかなびっくり赤ん坊を抱いた。
可愛い――とは、まだ思えなかった。それよりも、あまりの小ささに慄いた。
小さい。軽い。柔らかい。熱い。あまりにも繊細過ぎて抱きしめることもできないその生き物は、俺の手のうえでもぞもぞと動いている。確かに生きている。生きている……。
俺は呟いた。
「マリー。マリー……生きていてくれてありがとう」
「まあ。元気な子を産んでくれてありがとう、ではなくて?」
マリーはそう言って笑った。それももちろんあったが、それ以前に、俺はマリーの無事に感謝の想いが溢れて仕方なかった。誰に感謝? マリーか、マリーを生んだ親にか、あるいは神にか。わからないが、礼を言いたくて仕方がない。
他に言葉が出ない俺に、マリーは手の中にあるものを差し出した。
「今の言葉、娘にも言ってあげて。この子もとてもがんばったのだから」
「ああ……そうだな」
俺は赤ん坊の小さな手をそっと握りしめ、その温かさを感じた。小さな手に額を押し付け、生まれたばかりの我が子に、初めての言葉を贈る。
「生まれてきてくれてありがとう。愛してる」
それから、医者と助産師が何度か出入りして、産婦と赤ん坊の状態を確認していた。母子ともに健康。マリーは半日も痛みと戦っていたというのに、理想的な安産だったと言われた。マリー自身まで「思っていたよりは楽に生まれてくれました」なんて言っていて、俺は横で目を丸くしてしまった。そんな馬鹿な。
それからマリーには消化によく栄養のある食事が運ばれ、赤ん坊に初めての乳をあげる。
「じゃあ、私達は続き部屋で待機しておきますからね。ご家族でゆっくりとお過ごしくださいね」
医師はマリーには優しい言葉をかけたが、
「――ではおとうさん、あなたはこれから寝ずの番です。赤ん坊が起きたら乳以外はあなたが世話を」
「えっ。あ、はい」
「奥様がちょっとでも不快感を訴えたり、赤ん坊の様子がおかしければすぐに私どもを呼ぶこと。それができないというならば、妻子を我々に任せて病院から出ていくことです」
「は、はいっ。いや、出て行かない、できます。任せてください!」
「よろしい、では」
医師はやっと俺にも笑顔を見せて、悠々と病室を出て行った。
そして……生まれるまでの大騒ぎが嘘のように、病室は静かになった。
新たな家族となった小さな命。マリーは疲れた表情を浮かべながらも、赤ん坊を愛おしそうに抱いていた。俺はその隣に座り、そっと手を握りしめた。
「名前をどうしましょうか?」
とマリーがふと問いかけた。
俺はしばらく考え込んだ。
「長生きしそうな名前がいい」
「長生き? 誰よりも美しく賢くとか、大成するとかじゃなくて?」
「それは……俺自身は望まない。この子がそう望むならかなえてやりたいが、名前に祈りを込める必要は感じない」
「そうね……」
マリーは赤ん坊の顔を見つめ、微笑んだ。
「ではエリーザベト、という名前はどうかしら? 愛称はリサ」
俺は少し驚いたように顔を上げた。
「いい名前だが、どうしてその名前を?」
「エリーザベトという名前には、古い言葉で『神の誓い』という意味があるの。この子が長生きと呼ばれる頃は、わたし達はきっとこの世にいない。だから神様に守ってもらえるように、そんな名前が良いと思って」
とマリーは説明した。
俺は深く頷いた。
「それは素晴らしい」
マリーはその言葉に賛同し、再び赤ん坊の顔を見つめた。
「リサ、これからよろしくね」
赤ん坊は小さな手を動かし、ふわりと微笑んだ。マリーはその姿に感動し、
「見て、キュロス様。リサもこの名前を気に入ってくれたみたい」
と、嬉しそうに言う。
俺も微笑み、そっと赤ん坊の手を握りしめた。
「リサ……君は俺達の希望だ。俺はいつでも君を守り、支えていくよ」
マリーも俺と同じように、赤ん坊に唇を寄せて、囁いた。
「リサ、わたし達の家族になってくれてありがとう。わたし達はあなた愛し、大切に育てるわ。どんなことがあっても、わたし達がそばにいるからね」
こうして、俺は新しい家族を得た。
この後の人生は、彼女達を護ることに費やそう。大切なものを、決して失わないように。




