悪夢の終幕に
「ご、ごめんなさい私、こんなことになるなんて思っていなかったのです。ごめんなさい、反省しています、どうか助けて。どうか……」
アメジスト色の大きな目から、ぼろぼろ涙が溢れ出す。
それを見ても、ルイフォン様は顔色ひとつ変えなかった。細い眉を半分あげて、「ん?」と首を傾げる。
「僕に助けてと言われても。僕は今、ディルツ王国の騎士団長としてここにいる。情に流されることはないよ?」
そうきっぱりと言ってから、ルイフォン様は冷ややかな目になった。
「一応言っておくけど……『王国騎士団長』は、むしろ最上級に優しい対応をしていると理解しておいてね。――もし、『キュロス君の親友ルイフォン』として感情のままおまえを裁くなら、今すぐここで首を斬っているんだから」
ひっ、とエラは言葉を飲み込んだ。
そう……騎士は現場での処刑を許可されている。もちろん凶悪犯に限ってのことだけど、『エラ・フックスは激しく抵抗し、王国の最重要人物ならびに民間人にも危険があったため』などと弁明すればそれで済む。そして彼こそが騎士団長、その弁明書に判を押せる立場だった。
本気を出せば不正などいくらでもできてしまう。正義も悪も無く、人間の命を簡単に奪うことができてしまう。だからこそルイフォン様はその力を振るわないのだ。強いから、戦わない。キュロス・グラナドもきっと。
そのことをやっと察したのか、エラはやっと本格的に焦りだした。引きつった顔でルイフォン様を見上げたが、彼はヒョイと肩を竦めるだけだった。
「僕、涙を武器にする女って大嫌いなんだよねえ」
彼の言葉に、エラの表情は恐怖と絶望しかなくなった。きらきら光る大粒の涙も引っ込んで、ただ蒼白になって震えている。
「ということで、僕が彼女を裁判所に引っ張っていくよ。『被害者』から厳罰もしくは減刑を希望するならその旨も陳述しておくけど、何かある?」
ルイフォン様が問いかけると、キュロス様は一瞬瞳を閉じ、深く息を吸い込んでから冷静に答えた。
「……いや……公正な法の判決に任せる。俺から言いたいことはなにもない……」
「わたしも同意見です。ただその罪の重さに等価する罰を」
わたしも彼の隣で頷いた。それが最もエラにとっての重罰に、そして将来の救いになると考えたのだ。
エラは、『可哀想な子』だった。
自分自身そう思い込んで、それを演じることで、自分の行いを肯定してきてしまった。そのことをわたしは心から哀れに思い、同情し、共感する。
だからこそ、彼女には公平な罰を望む。この国は残虐な刑は基本的に禁止されているし、未遂で終わったため処刑までは免れるだろう。数十年の禁固は覚悟せねばなるまいが……それでいい。それが、彼女の犯した罪の代償なのだから。
ただ自分が不幸だからって、他人を不幸にしていい理由にはならない――そのことを、彼女は誰かに諭されなければならない。罪に対し公正な罰を受けることは、彼女の未来を明るくするはずだ。
エラを封じ込めた馬車が走り出す。ゆっくりと遠ざかっていく馬車に、わたしは独り言のようにつぶやいた。
「さようならエラ。どうか生まれ変わって、今度こそ強く、幸せになれますように……」
その時だった。
「待ってくれ!」
叫びながら駆け出し、馬車を追う男がいた。
――ダリオ侯爵!?
ダリオは髪を振り乱し、泣きながら走って馬車を追いかけていく。そして動いている馬の尻に飛びついた!
「うわああっ!?」
驚いた馬が暴れ出し、御者台のルイフォン様も落ちそうになる。わたし達は慌てて駆けつけた。
まだそれほどスピードが出ていなかったとはいえ、人間の何倍も体重のある馬に抱き着くなんて、命を失いかねない危険な行為だ。案の定、侯爵は壁に激突したようにはじき返され、後ろ向きにひっくり返った。泥まみれになりながらもすかさず身を起こし、その場に額を付けた。
「オレも一緒に行く! オレが裁判所で、エラの弁明をする! 全てはオレのせいなんだ、エラは悪くないんだっ!」
――えっ!?
キュロス様もわたしと同じくらいに驚愕し、言葉を失う。
ダリオは立ち上がり、馬車の窓に張り付いた。鉄格子を両手で掴み、中のエラに呼びかける。
「エラ……! すまなかった。本当は心優しく繊細な君を、悪鬼に変えたのはこのオレだ。すまない、すまない……!」
「ダリオ様! ああっダリオ様!」
車室の中からエラも鉄格子を掴み、男の名前を呼んで縋る。
「ありがとうございます! やっぱり私にはあなただけ! 私のことを分かってくれるのはあなただけなのですね。あなたならきっとそう言ってくれると信じていました。ありがとうございます、嬉しい」
「ごめんよエラ、オレにはおまえを助ける力が無い。死力を尽くして弁明しても、きっと無罪には出来ないだろう……だからせめて、共に牢獄へ行こう。一緒に、地獄に落ちよう」
「一緒に地獄に……行ってくれるんですね。嬉しい!」
エラも涙をぽろぽろ零し、侯爵の手を握り返す。
彼らは二人同時に叫んだ。
「――愛してる!!」
――こうして、二人の愛の絆は再び強く結びついた。これからの道のりは険しいかもしれないが、彼らの愛があれば、どんな困難も乗り越えられることでしょう――と。
これが演劇の舞台ならば、観客は二人の愛の深さに感嘆し、熱っぽいため息を漏らしただろう。ほろりと涙一粒、もらい泣きくらいしたかもしれない。
だけどわたし達の胸の内は、冷ややかだった。
馬車を止められたルイフォン様は、「なんなのさ……」と呆然としているし、キュロス様は相当に気分を損ねたようで、口を押えて青くなっている。
わたしは怒りのようなものを覚えていた。
「侯爵、あなたはソフィア様のことを真に愛しているのではなかったの」
侯爵は一瞬動揺したらしい、視線を落としたが、すぐにキッと凛々しい表情になった。
きらきら光る眼でわたしを見つめ、甘く低い、歌うような声で。
「ソフィアへの愛は本物です。今でも、誰よりもソフィアを大事に思っています」
「だったら、愛人と共倒れになっている場合じゃないでしょう? お子様もいらっしゃるのに」
「ソフィアは強い女です。オレがいなくてもきっと大丈夫……しかしエラは、オレがついていてあげねばなりません。エラにはオレしかいないのだから」
……そうですか。
わたしはもう何も言う気にならず、退いた。
ルイフォン様はいかにも面倒くさそうに、ダリオをエラと同じ馬車に入れた。外からしっかり鍵をかけ、またのろのろと出発する。
舞台の終幕――もとい、去っていく馬車を黙って眺めていたミオは、ぽつりとつぶやいた。
「なるほど。『丸刈りの羊飼い』になってしまいましたか」
振り返って見たミオの表情は、これまで見たことが無いほど冷たく、恐ろしいほどに何の感情も無かった。わたしも似たような表情で問い返す。
「羊の毛を刈りに行った羊飼いが、自分の髪を食われて帰って来たということわざね」
「はい。己の利益のために相手の懐に入り込んだのに、相手に同調しすぎて、逆に自分が被害者になってしまうという間抜けな顛末です」
……そうか。
ダリオは本気で、エラならばキュロス様を落とせる、どんな男もエラに同情し愛してしまうと思っていたのね。そしてその根拠は、他ならぬダリオ自身の心だった。
そう、ダリオこそ彼女に落とされていた。本人も気付かないうちに、ずっと以前から……そういうことだった。
ミオはもう一度ため息を付いた。
「羊飼いが世話ができなくなれば、羊は伸びすぎた毛で身動きが取れなくなります。行き着く先は共倒れです」
「あーあ、なんだか喜劇だか悲劇だか、わかんない結末ですねえ」
チュニカが肩を竦めながら笑って言った。その隣でトマスとウォルフガングが「笑いごとじゃないですよ」と苦い顔。
ミオも嘲笑などせず、心底うんざりという顔をしていた。
「――グラナド城が夢の世界ならば、こちらは悪夢。愛とやらを深めるほどに、お互いを不幸にしていく悲劇など、悪夢以外になんと呼べましょうか」
「……そうね……」
ミオの容赦のない言葉は、かつてわたしにかけられたかもしれない言葉だ。そう感じながら、わたしは黙って頷いた。
この数日間で、わたし達は何かを得られただろうか。そんなことを考えると虚しくなる。
それでも戦いの意味はあったとわたしは確信している。
ひとつの悪夢を終わらせることが出来たのだから。




