罪の意識
この侯爵邸別荘に牢なんてものはない。
そのため、エラが監禁されていたのは屋敷の地下室。馬用の枷に足首を繋がれていた。
かろうじて雨風はしのげるものの、寝床は藁にシーツを敷いただけの粗末なもの。まるきり牢以外の何でもない……そんな場所で丸二日を過ごしたエラは、疲弊し、薄汚れていた。
ダリオ侯爵は、そんな彼女からかなり離れたところ、地下室の隅っこに、膝を抱えて座っていた。わたし達が下りてきたのに気付かず、膝がしらに顔を埋め、誰に話すでもなく呟くように、彼女に問うていた。
「……どうしてあんなことをしたんだ、エラ……」
エラは俯いたまま答えない。ダリオはやはり独り言のように、ただ呟く。
「君は……あんな恐ろしいことができる子では、無かったはずだ。一歩間違えれば、三人が死んでいた。貴族の家に生まれ、結婚して子を作った、ただそれだけで何の罪もない人間を――あんな小さな赤ん坊ごと……」
エラは何も言わない。
ダリオは自らの足に爪を立て、握り込む。
「……どうして……!」
「それは、俺も聞きたいな」
階段を下りながら、キュロス様が言葉をかける。そこで初めて、わたし達の存在に気付いたダリオは顔を上げた。……生気がない、涙も出尽くして枯れた顔。初めて会った時より、十も二十も老けて見えた。
わたしもキュロス様に続き、二人の前に歩み出る。
「動機を聞かせてちょうだい」
「ま、マリー様。エラを責めないでください……!」
わたしの問いに答えたのは、ダリオだった。
「エラは、ワタクシの寵愛を得ようと必死だった、それだけなんです。決してキュロス殿やご夫人に悪意はありませんでした!」
「では、マリーとリサを川に突き落としたのも、おまえの命令か。エラに、俺の妻子を殺すよう言いつけたと?」
「それは……ここまでやれとは。やるとは、思っていなかったので……」
がっくりとうなだれて、そう言った。
ダリオの言い分はひどく身勝手で、言い訳にもならない。だけど真実だろうとわたしは思う。
――ダリオ・アフォンソは、グラナド公爵位を狙って、キュロス様を陥れようとした。
エラをグラナド城に送り込み誘惑し、あわよくばエラを身ごもらせることで、妻子と分断しようとした。それが失敗すると、今度は自らキュロス様に圧をかけ、精神的な疲弊から公爵領の経営不能、あるいは逃避からの辞退を言い出すように仕向けた。
……そんな、回りくどいくせに効果ゼロで、むしろ笑ってしまうくらい子どもだましの作戦……それが、ダリオの考えのすべてだったのだ。
ダリオ・アフォンソという男は、良くも悪くも、小物だった。悪党になりきれない小悪党、と評するのがちょうどいいだろう。そんな男だった。
だけどエラは違う。
エラという女は、ダリオよりずっと無垢であり、そして狡猾で、凶悪だった。それに気が付いていないのは、この場ではダリオただ一人だ。
「……ダリオ様」
エラがやっと言葉を紡いだ。
「どうして、そんなことをいうの? ダリオ様……あなたは言ったじゃないですか。どうしても公爵位を手に入れたいと。そのために、おまえに出来ることをやれと」
問い詰めるエラに、ダリオは疲れ果てた顔を横に振った。
「こんなことは望んでいなかった。おまえに、ここまでのことが出来るとは思っていなかったんだ」
「……どんな手段を使ってでも、とおっしゃったわ。私はあなたの命令通りに……」
「夫人や赤ん坊を殺せだなんて言っていない。考えてもいなかった。そんな恐ろしいこと、酷いことを、どうして」
皺だらけのダリオの目に、また涙が浮かぶ。
「おまえがこんなに悪い子だったなんて、知らなかった――」
ダリオがそう呟いた瞬間、エラの顔が変わった。
髪を整えたせいで露わになった顔面に、罅のような深い皺が刻まれる。細い眉を中心に寄せ、左右非対称の嘲笑に、エラの顔面が歪んでいた。そんな凶悪な表情で、
「……はあ?」
エラはそう、ダリオを睨んだ。
「誰が――悪い子だって? 私が、悪いことをしたっての? はあ?」
「エラ……」
「何言ってるの? それじゃまるで私が自主的に、望んでやってたみたいじゃない。違うでしょ? 命令したのはあなたでしょ? 私は、虐められてたほうでしょ。可哀想な子でしょ!?」
可哀想な子――エラの言葉は呪詛のようだった。馬用の枷よりもずっと重く頑丈に、彼女を縛り付ける呪いの言葉。わたしの足にもつい最近まで着いていたものだ。
ダリオはブンブン首を振った。
「違う、ダメだエラ。マリー様は何も悪いことをしていない……」
「はあ? こいつが一番悪いでしょ。家族にも友達にも従者にも恵まれて、チヤホヤされて。私に対する虐待でしょ!」
「……わたしが幸せであることが、あなたに何の関係があるの」
わたしが言うと、エラはぎろりとわたしを睨んだ。
「私の前で、私より幸せだってアピールするのは虐めでしょ」
「知ったことじゃないわ」
わたしはきっぱりと言い切った。
わたしはエラから何も奪っていない。それに彼女、チュニカが美しく磨いてくれても拒絶をしたのだ。自ら幸せになるチャンスを放棄し、『可哀想な女の子』で在り続けようとした、彼女自身の選択の末路だ。
わたしを見上げる、彼女の瞳が一瞬だけ揺らぐ。わたしはさらに言った。
「前に言った通り、わたしは、あなたの気持ちが分かるつもりでいた。あなたは過去のわたしとよく似てる。自分の不幸に甘えて、そうすることで、楽をしていた。醜いから、貧しいから、どうせ何をやっても誰からも愛されないから、藻掻くことをしなかった。ぶつかって傷つくことから、逃げ続けてきた」
そう――それは、過去のわたしがしてきたこと。だから彼女には同情的だったし、長い時間をかければわたしのように、生まれ変わってくれると信じてきた。
だけど、違う。
わたしは絶対に、彼女とは違う。
わたしはずたぼろだった時も、姉や、家族の幸せを願っていた。人に頂いたものを、誰かの持ち物と比べて妬まなかった。自分のことが大嫌いだからこそ、自分を変える努力をしたの。キュロス様やミオ、グラナド城のことを好きになったから、大事な物を護るために頑張った。他人を傷つけ、こき下ろし、悪役に仕立てようとはしなかった。
わたしは、そんなことで自分を肯定なんてしなかった。
「――あなたにはもう、何も共感しない。だからこれからも好きなだけ『可哀想な子』でいてちょうだい。ただし、わたしの家族に、二度と近づかないで!」
わたしはそう怒鳴り終えると、口を固く噤んだ。
もうこれ以上、彼女に何かを言うつもりはない。きっと永遠に分かり合えないから。
エラは数秒だけ沈黙していたけれど、すぐにまた、枷をガチャガチャ鳴らして暴れはじめた。
「偉そうに! いいこぶりやがって、偽善者! ぶりっこ! 自分こそ可哀想な子を作って男をたらしこんだくせに!」
身に覚えのない中傷には傷つかない。
「おまえの言うことはどうせ嘘ばっかりだ、実家で虐められていたとかも全部嘘なんでしょう? 嘘吐き、嘘つき!」
反論もしない。彼女と戦うことに価値などないから。
「くそったれども、全員死ね、みんな不幸になれ!」
こんなものでダメージなんて受けない。
わたしは生きている。彼女のような人に、その命を左右されることはない。
エラがどれだけわたしを攻撃しても、わたしは倒れない。
数年前ならきっと、彼女の言葉に傷つき、己を責めていただろう。だけどわたしは強くなった。守るものができたもの。夫と子どもと、わたし自身と。家族を守るためならば、わたしはもう、誰にも負けないわ。
バキッ――と、何かが砕ける音がした。
きっとエラの奥歯だったのだろう。顎の形が歪むほど強く噛み締めた口の端から、ツウと細く、赤い血が滴る。
エラは口の端に血を垂らしながら、それでもわたしを睨み続けていた。
その様子に、一番ショックを受けたのはダリオ侯爵だった。
「え、エラ……?」
彼の中にあった、可哀想で気弱でボロボロのエラとは違う姿。理想のエラが崩れ落ちたその瞬間、侯爵は呆然と立ち尽くしていた。目には涙をいっぱいに溜めて、声を失ったように唇を震わせていた。
キュロス様は心底不快そうな顔をしていた。腕を組み、深い深い溜息を吐いたきり、頭痛を押さえる仕草で沈黙している。
そこに、馬のいななきが聞こえた。
キュロス様に促され、エラを連れて地下室を出る。屋敷の前に、馬車に乗ったルイフォン様がいた。
騎士団御用達の戦馬車だ。頑丈な鋼鉄製で、外側から鍵がかかる。
「護送の準備ができたよ。エラ・フックスに枷を付けたまま、クルマに乗せておくれ」
鋼鉄の馬車を見て、エラの表情が凍り付いた。
しばらく呆然とし……やがて顔を引きつらせ、歪んだ笑みを浮かべる。
「な、なにこれ。女の子一人連れて行くのに、こんな馬車……ちょっと大げさじゃない?」
「大げさって。犯罪者を護送するのに普通の馬車でいけるわけないだろ」
「え、でも、マリー、様、は生きてるし……」
まだボソボソ言っている彼女の腕を、ミオは黙って捻り上げた。それでも動かない彼女を、トマスが半ば抱えるようにして馬車に乗せようとする。車内に上半身が入ったところで、エラは叫んだ。
「犯罪!? わ、私、犯罪者になるの? 嘘! なんでっ? 嘘でしょ!? ねえ!!」
エラは声を裏返して叫んだが、誰も否定しなかった。みんな顔ごと目をそらし、エラの悲鳴も聞こえないようなふりをする。ルイフォン様が手綱を握ったまま、肩越しにエラをチラと見る。
「ダリオ・アフォンソの関与については精査をし、親族一同と相談して処遇を決さねばならない。だがエラ・フックスは、現行犯だ」
「そ、そんな、私は何もしてないっ!」
「何言ってるんだ、公爵一家殺人未遂だぞ。……許されるわけがないだろうが」
エラはここにきてやっと、自分が『加害者』だと自覚をしたらしかった。
いきなり目に涙を浮かべ、背中を丸めて震えだしたのだ。




