【閑話】 俺は誰も不幸にしたくない
夢を見ていた。
悪夢……でもないと思う。けれど悲しい夢だった。
細身の貴婦人が、俺の前にお菓子を並べる。俺が大好きなチョコレート味のクッキーだった。しかも焼きたてで、まだ少し温かくて、とっても美味しそう。まだ四歳の俺は、クッキーの前で目を輝かせ、涎を垂らしていた。
だが、手を伸ばすわけにはいかない。この貴婦人の名はローラ……俺の母、リュー・リューを何度も殴り、怒鳴りつけたひと。きっと俺のことも嫌いだろうと思っていたから。
しかし彼女は微笑んで言った。
「私が作ったものだけど、良かったらどうぞ」
俺は大喜びでクッキーに手を伸ばし、躊躇なくバクバク食べた。すると貴婦人は、驚いたような声で言った。
「……ずいぶんと簡単に口を付けるのね」
なぜそんなことを言うのか分からなかった。どうぞと言ったのはローラ様だ。それって食べてもいいということで、そして俺のことが嫌いではなかったと、そういうことだろう?
だったらせっかくのクッキーを断る理由が何もなかった。
「だって、おいしいぞこれ! おれ、これ一番すきだ!」
俺が言うと、貴婦人は「そう」と呟いた。
「私もお菓子は好きよ。お菓子を作っている間は、嫌なことを考えずに済むもの……」
それから俺の肩に触れて、静かにゆっくりと、言い聞かせてくる。
「今度また、あなたの好きなものを作ってあげるわ。どんな味が好き?」
たった一度の口約束。しかしそれは果たされることはなかった。
――公爵家はリュー・リューの息子、キュロスに相続させる――
父、アルフレッド・グラナドがそう言った時、集まった親族はいっせいにどよめいた。ただ一人、貴婦人だけが――おいしいクッキーをくれたあの人が――激しい憎悪の目を、俺に向けていた。
わずか四歳の、事実も真実も曖昧な古い記憶。
思えば俺が、女性に苦手意識を持ったのは、あの頃からだったかもしれない。
愛憎の果てに死んでいった、父の正妻、ローラ夫人。かつて幼い俺に一度だけ向けられた優しい顔と、闇を纏った瞳で俺を睨む、悪鬼のような顔が交錯する。
俺は、父を悪人だとは思っていない。だがあの女性が、父によって傷つけられたのは事実で――いや、俺の存在が彼女の命を奪うトドメになったのは明らかで。
棺に横たわるローラ夫人の、蝋のような肌色は、この二十余年間ずっと俺の脳裏にこびりついていた。
もしかすると彼女は、俺を毒殺しようとしていたのかもしれない。
だが同時に、あの時は――自分を母と呼ぶよう命じたり、チョコレートクッキーをくれたあの時には――本当に優しい気持ちでいたのかもしれない。
父と母は、あの優しい女性を不幸にしてしまったのかもしれない。
両親のことは敬愛している。だが俺は、彼らに倣いたくはなかった。
利権だけで繋がる結婚も、それを無かったものとして真実の愛を求めるのも嫌だ。複数の妻など要らない。この世界のどこかにいる運命の相手、そのたった一人だけを生涯愛し尽くしたい――それが出来ないならば、誰も要らない。
マリー……マリー・シャデラン・グラナド。
あなたと出会えたことは、俺にとってなによりの福音だった。
俺と出会ってくれてありがとう。妻になってくれてありがとう。
生まれてきてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。
ただそれだけで。それだけで、俺は――。
……目を覚ました時、頬が濡れていた。どうやら眠りながら泣いたらしい。
わずかに雫の残る目元をグイと拭って、俺はベッドから起き上がった。
少々、身体の節々に痛みを感じるが、どうということはない。人間を抱えて川を渡ったダメージはもう抜けたと判断する。
部屋から出て、俺はまっすぐにマリーの部屋を訪ねた。
おそらく寝ているだろうと予想し、ノックはせず、そうっと扉を開く。
やはりマリーは眠っていた。チュニカとミオの話だと、もう命の心配はないということだが、体力が回復するにはまだ時間がかかるらしい。
俺はベッドのそば、床の上に腰を下ろした。
彼女が目を閉じている間は、そばから離れたくなかった。彼女の呼吸の音を聞きながら、俺はベッドの縁に突っ伏し、転寝を繰り返して過ごした。
深夜の月が、彼女の横顔をぼんやりと照らす。
いつもは、マリーの横顔を見ていると温かい気持ちになる。だが静寂の中、月明かりで浮かび上がる横顔はまるで死人のように青白くて……見つめていると、また悲しい気持ちになってしまった。
マリーの横顔を見つめていると、ふと、髪がくしゃりと撫でられた。マリーの手だ。まだ目は閉じたままだったけど、マリーの手が俺の頭を優しく撫でていた。彼女の手の温もりと、リサの小さな体が感じられるその瞬間、俺の胸に温かい感情が広がる。
「おはようございます、キュロス様」
マリーが微笑む。その笑顔は、どんな不安も吹き飛ばしてくれる。
「おはよう、マリー」
俺も微笑み返す。彼女の元気な姿を見て、心の奥底から安堵感が湧き上がる。
俺たちは家族で抱き合い、互いの存在を確かめるようにキスを交わす。その瞬間、全ての不安が消え去り、無事を喜び合う幸福感が溢れていた。マリーとリサが無事でいてくれること、それが何よりも大切だと強く感じる。
そうして妻子の無事を実感し、やっと俺の肩から力が抜けた頃、マリーが静かに尋ねてきた。
「あの二人から、もう話は聞きましたか?」
「……いや……この三日間は、身体を回復させるためだけに努めた」
「わたしもです。できれば、あなたと一緒に話そうと思って」
マリーは激高していなかった。ただ淡々と話す。
「わたし一人では……冷静に話せる気がしなかった。共に行きましょう、キュロス様」
妻はそう言って、立ち上がった。
「わたしが暴走したら止めてください。わたしは、わたしの大切な人を泣かせた人間に激怒をしておりますので」




