ありがとう
――次に目覚めたのは、それほど時間がたっていない頃。
「――けほっ」
咽喉に栓をしていた水を吐き出すと、途端に新鮮な空気を肺に取り込めるようになる。わたしはもう何度か咽ながら、喀血のように水を吐き、ぜえぜえとひどい音を立てて呼吸を始めた。全身が水浸し、砂利まみれで、まだ泥の中にいるように体が重い。それでも全身に酸素が巡っていくのを感じる。酸素が甘いと思ったのは、生まれて初めてだった。
思考もはっきりしてくる。そして今、自分に人工呼吸をし、救ってくれたのがキュロス様だと理解した。
彼は泣いていた。わたしの体、深呼吸で大きく上下する胸に額を押し付けて、土下座するような恰好で。声を上げて泣いていた。
――キュロス様。助けてくれて、ありがとう。
そう言おうとしたけれど、唇が重くて動かない。体が冷え切っていて、人形になったみたいだ。
薄ぼんやりとした視界の中で、キュロス様の言葉を聴く。彼は泣きながらずっと、同じ言葉を口にしていた。
「――ありがとう」
良かったなマリー、と祝福はしていなかった。
もう大丈夫だマリー、安心しろとも言わなかった。
心配したぞ気を付けろと叱ることも無かった。
ただわたしの手を握り、胸に縋って、彼はわたしに礼を言い続けていた。
「マリー。ありがとう。生きて帰ってきてくれて。リサを守ってくれて、ありがとう。ありがとう――」
わたしは彼の言葉で、自分とリサの無事を確信した。
……良かった。生きててよかった。これからもこの人の家族で居られて、本当に良かった。
――彼の泣き声をかき消すように、凛々しい、というよりも猛々しい、チュニカの声が聞こえた。
「呼吸確保出来たらさっさと離れて! 意識回復したね? なら今のうちに水を吐かせて、口に指突っ込んででもお腹からっぽにさせといて! トマス、古城から清潔な水と毛布を! ウォルフと王子は大急ぎで屋敷に行って、お湯を沸かしておいて!」
「は、はいっ」
「チュニカ、リサ様の着替えは終わりました。このあとどうしましょうか」
「ご機嫌で笑ってる子なんかそのへんで遊ばせとけ! それより危ないのはマリー様! 急げと言ってるでしょうが!」
リサを抱いたミオにまで、河原の石が砕けるんじゃないかってくらい大きな声で、チュニカは怒鳴っていた。
「旦那様、毛布が来たらマリー様を屋敷に運ぶよ。しっかり抱いて温めながらだよ、出来るね?」
……どうやらわたしの救護は、まだ完了していないらしい。自分で感じているよりも、わたしは死に近いところにいるようだった。まだ朦朧とする意識の中、温かいお湯を呑んでは吐き出すことを何度か繰り返し、やがて毛布に包まれた。
キュロス様に抱えられ、森を抜けるまで、わたしはずっとぼんやりしていた。キュロス様はずっと、何も言わなかった。ただわたしを抱えて走っていた。
薄く開いた瞼の隙間から、キュロス様の綺麗な横顔が見える。
それがなんだかすごく嬉しくて、命が助かったとホッとして、でも彼の表情が強張ったままなのが悲しくて……。
わたしは微笑みながら、涙をこぼした。異様な眠気に襲われ、目を閉じる。
そのまま眠ってしまったらしい。
次に目が覚めた時、わたしはベッドの上にいた。
清潔に洗浄され、乾いた服を着て、温められた部屋の中である。
ぼんやりと天井を見つめ……そばに誰かの気配を感じて、わたしは呟いた。
「リサは……」
「リサ様ならここにおられますよ。服が濡れただけで、お元気です」
ミオがそばに近づけてくれた。
リサ……ああ、よかった……。
リサはすこぶる元気で、ご機嫌だった。きっと自分含む家族全員が命の危機だったなんて、気付いてもいないだろう。寝そべるわたしの顔に触ろうと小さな手をばたつかせる。
わたしは彼女を撫でようと、わずかに手を持ち上げた。リサの小さな手が、わたしの指を掴む。リサはキャッキャと笑っていた。
「ミオ……本当に良かった。あの女性達の件、思ってたより早く処理が済んだのね。一番大切なタイミングで、よく帰って来てくれたわ……」
「トマスのおかげですね」
ミオは珍しく、柔らかな微笑みを浮かべてそう言った。
「私は王都で、あの女性達を派遣元に返す手配を続けていました。トマスは失踪したエラの捜索隊を出す前に、私を訪ねてきたのです。自分では最悪、門前払いになる可能性もあるとして。私はルイフォン様の名前を使いすべてを騎士団に丸投げして、トマスと共にこちらへ戻りました」
「そっか。じゃあトマスにもお礼を言わなくちゃ」
「そうですね。あなたを抱いた旦那様を川から引っ張り出したのも彼ですし、その後もチュニカになにかとこき使われていましたし。労ってやってください」
ふふっ、と思わず小さな笑いが零れてしまう。
今こんなふうに笑えるのはみんなのおかげだ。本当に、あとで重々お礼を言わなくてはいけないわ。
「キュロス様も、御無事でらっしゃるわよね?」
「ええ、別の部屋でお休みです。しかし旦那様は溺れていないとはいえ、人間一人抱えて川を渡るのは寿命を削る行為です。全快するまでベッドから起き上がらないよう、厳しく命じております」
「……そっか。うん……」
「その前に、マリー様にお話したいという輩がおります。二名ほど。……どうなさいますか?」
その二名の顔を思い浮かべて、わたしは嘆息し、首を振った。
顔も見たくない、というのはもちろんだけども、なによりも、夫と先に会いたかった。
わたしの気持ちを汲んで、ミオは部屋を出て行った。
その二人――犯人の話を聞いたのは、それから三日も後のことだった。




