生きて。
川に落ちた。
いや、他人に真横から体当たりされ、突き落とされたのだ。
突然の衝撃に、桟橋から足を踏み外してしまった。完全な不意打ち、赤ん坊を抱いたままでどうしようもなかった。
着水の一瞬前、わたしを突き飛ばした人物の姿が見えた。桟橋からわたしを見下ろす、白髪の女性――邪悪な笑みを浮かべた、エラ・フックスだった。
「――エラ!」
叫ぶ間もなく、水の中に体が沈む。体が川底に衝突し、水の冷たさが一気に骨の芯まで染み渡り、息が止まった。一瞬、失神していたかもしれない。「川に突き落とされた」「自分は今、溺れている」そう理解するまでに数秒間かかっていた。
まずわたしはすぐに、水面から顔を出し「助けて!」と叫ぼうとした。
が、口に入った水が声を封じ込める。水の勢いは強く、必死に手足をばたつかせても、流れに逆らうことなどできなかった。わたしは突然訪れた死への恐怖で、混乱していた。頭も体も思うように動かせず、藻掻き苦しみながら、ただひたすら流されていく。
……だめだ。水の量が多い。流れに逆らえない……。
酪農領で育ったわたしには、川は近しいものだった。物心ついた頃から触れ、遊び、仕事に利用して、親しんできた自然の恵みは、容赦のない拷問道具となった。
冷たい水はわたしの体を押し流し、呼吸を、意識すら奪い取っていく。何度も水面に顔を出そうとするが、流れが激しく、そのたびに水の中に引き戻される。目を開けても、視界は水と泡に覆われ、何も見えない。
心臓は激しく鼓動し、肺は酸素を求めて悲鳴を上げていた。手足は次第に重くなり、体力が尽きかけているのを感じる。水の冷たさが痛みとなって全身を襲い、意識が徐々に薄れていく。
……なんとか、岸まで……。泳ごうと試みた、けどダメだった。
わたしは両手に赤ん坊を抱えている。
……ダメ。わたしはきっと死ぬ。
なんだか酷く冷静に、わたしはその事実を受け入れた。
それでも何とか――リサだけでも――。
背中にドンと強い衝撃を感じた。大きな岩にたまたま流れ着いたのだ。それで流されるのは止まったけれど、岩に掴まるまではできない。顔面には激しく水がぶつかってくる。鼻も口も濁流に塞がれている。
足の下は、柔らかな砂利だった。脚がずぶずぶと、底なし沼に嵌まったように沈んでいく。そのぶん水位はどんどん上がっていき、水はもう、わたしの目の下まで来ていた。
呼吸は、もう一分以上出来ていない。
……。…………リサ。リサ……。
視界も水に埋まる。
リサ――生きて。
わたしは額まで水に浸かりながら、両手を頭の上に、高く……なるべく高く、空気のある場所へ、リサを持ち上げた。
リサの、けたたましく泣く声がする。
ああ……リサは、生まれてからずっと、こうして大きな声で、よく泣く子だったなあ。
どうすれば泣き止むんだろって、わたしまで泣いちゃったこと、何度もあったっけ。夜泣きで眠れなくって、わたしって駄目な母親なのかしらと悩んだこともあったなあ。
そのたびに、キュロス様は娘ごとわたしを抱きしめてくれたっけ。
わたしは大丈夫だから休んでくださいというたびに、彼は首を振った。
俺の大切な宝物、大事にさせてくれって。お願いだからって。
――わたしとキュロス様、ふたりともが必死で、大切に大切に生み育ててきた娘。
生きてさえ、いてくれたら。リサ。あなたが生きていてくれたら。
キュロス様の家族でいてあげてね。
そのときだった。
「マリー!」
水越しにくぐもった声。
次の瞬間、わたしの体が何か、熱いものに引き寄せられた。とたん、顔が水面に浮上した。
「――ブハァッ!」
一気に酸素を吸い込む。
その途端、諦めかけていたはずのわたしの生存本能は爆発的に再起し、わたしは空にかぶりつくように、大きな口を開けて呼吸した。何度か水しぶきが口に入り込んできたが、気にもならない。ただ必死で息をする。
わたしは、大きな人間の手に抱かれていた。流れる水とは比べ物にならない熱――ひとの体温。だけどわたしはそれに縋りつくわけにはいかない。両手には、リサがいるから。
救世主であるはずのそのひとは、わたしを抱えながらも、途方に暮れていた。深い激流で、彼自身を含め三人分の命を確保できないと確信したのだろう。彼は岩ごとわたしを抱きしめたまま、長い腕を天へと伸ばした。そしてわたしの手からリサを奪う。
あっ、と思う間もなく、娘の体が宙を舞う。
その男は赤ん坊を、遠く対岸まで投げ飛ばしたのだった。
そしてわたしを両手で抱え直し、水面へと引き上げながら叫んだ。
「ミオぉおおおお―――っ!!」
霞む視界――宙を舞う娘――対岸で、両手を広げているミオが見えた。
…………あ……あ。良かった。娘は、生きた。
そう確信した途端、わたしは意識を失った。




