ダリオの真実②
アルフレッド・グラナド公爵の長女、ソフィア様とダリオ侯爵が出会った時、公爵の妻はただ一人。ここディルツ王国では基本的に、男性しか上級貴族の後を継げないから、ソフィアの婿が次期公爵となる可能性はかなり高かった。しかも時系列からすると、二人が出会った時にはダリオ・アフォンソはまだ子爵、二十歳前後の若者だ。
田舎男爵の次女であるわたしが言えたことじゃないけど、公爵家の婿としては、少々役者不足だろう。
一体どういう縁で、なぜフックス侯爵はこの男を親友の娘婿にと紹介したのだろう。そしてアルフレッド公爵はそれを許可したのだろう。
ダリオ侯爵の小物ぶりが明らかになるたびに、疑問は大きくなっていく。その疑問を決してわたしは顔に出したりはしていないはずだが……。
ダリオ侯爵は肩を竦め、微笑んだ。
「マリー様の言いたいことはわかりますよ。ワタクシのような小物が、どうやって公爵令嬢との婚姻を取り付けたのかと疑問に思ったのでしょう?」
「えっ、いえ、決してそんなことは。あの、すみません」
「構いませんよ、この際。自分でもそんなことは奇跡だと思っていましたし」
彼は手を組み、自分の手をじっと見つめていた。
その手の中にある空っぽのものを確かめるようにして。
「ソフィアとの出会いは……フックス侯爵に連れて行ってもらった、上級貴族の社交界。当時のワタクシにはひどく場違いな場所でした」
――ダリオ・アフォンソの半生については、エラの正体を調べる時のついでに、ウォルフガングから聞いていた。
アフォンソ家はいわゆる成り上がりで、そして長持ちせず没落した家だった。
わずか二代前、ダリオの祖父に商才があり、資産を国に献上することで爵位を買い取った。しかし貴族社会は不慣れで、政はことごとく上滑り。次世代は商才も無く、細々と財産を食いつぶしてしまった。なんとか立て直そうと、身売り同然で豪商に嫁いだ姉は、夫に虐げられ、逃げ出した。
転機の始まりは、そのフックス侯爵に見初められたことだった。
フックスは決して誠実ではなかったが、そのぶん色気のある男だった。人妻であるダリオの姉を自宅に囲いながらも、また他にも情婦がいた。この情婦が王族傍系の夫人で、たまたま情事を目撃したダリオに、フックスは小遣いを渡して黙らせた。
そうしてダリオは義兄、フックス侯爵にうまく取り入ることができた。脅すようなことをして、小遣いをもらうことに罪悪感はなかった。アフォンソ家は食うにも困る状態だ。姉の生活と家督を守るため、フックス侯爵の加護は必要不可欠だった。
……ここまで聞いて、正直わたしは、ほんの少し、ダリオ侯爵を見直した。プライドを捨てて目上のひとに縋った彼を、貴族として立派だと思う。我が父グレゴール・シャデランは、それができずに家を没落させたのだから。
「そうして、表向きフックス侯爵に可愛がられていたワタクシは、また無理を言って、上級貴族の集まりに同行させていただきました。そこで新たなパトロンを探すつもりだったので……しかし、思ったようにはいかなかった」
まず、成り上がりのダリオには、貴族特有のマナーが全く分からない。そもそもディルツ語が片言しか分からない、話せたとしても教養が無い。
自分から話しかけることは出来ず、つなぎ役を期待したフックス侯爵は、さっさとダリオから離れてしまった。ダリオはひとり、ぽつんと壁の花となるしかなかった。
――分不相応の無理をするもんじゃないな――そう自嘲した時、声をかけてくれたのが、まさかのソフィア・グラナド公爵令嬢だった。
「――綺麗な人でした。とても。なにもかも、すべて」
ダリオは目を細め、少し照れくさそうに、過去を語る。
ソフィア嬢の姿を一目見た瞬間、ダリオは息を呑んだ。
――なんと美しい。こんなにも美しい人は、生まれて初めて見た……。
緊張しながらも挨拶をしたダリオ侯爵に、ソフィア様はニコリともしなかった。
ダリオに歩み寄りながら、愛想笑いひとつせず、クールで冷たい目をしていたソフィア様。場違いだ、出て行けと罵られる覚悟をしたダリオに、彼女は独り言みたいに囁いた。
「あなた、どうしてそんな壁際にいるの?」
貴族の公共語、フラリア語だった。フラリア語ならスフェイン語に言語が近く、ダリオでも話せる。ダリオはこの夜初めて声を出した。
「……あ……その、周りはすごい貴族様ばっかりで、恐縮してしまって」
ダリオ少年は素直に答えた。すると、ソフィアは首を傾げた。
「どうして? あなたも貴族でしょう」
「ええ、まあ……でもこんなゴージャスな社交界って初めて出たので……どう振舞っていいものか。この衣装も、すべてフックス侯爵が用立ててくれたもので……」
「たとえ借り物でも、その帽子はとても素敵だわ。良い毛皮ね。なんの動物のものかしら?」
「こ、これはリス……あの、侯爵領はリス革の工芸が有名で、えっ、そ、そうですか? そうかな……」
ダリオは思わず舞い上がり、照れ隠しにと帽子をくしゃくしゃに握り締めてしまった。それを見て、ソフィアは目を細めた。
「あら、帽子を取ってしまうと、途端に貧相になったわね」
「あは、は……はは」
痛烈な一言に、ダリオは笑うしかなかった。
相手はグラナド公爵令嬢、貧乏貴族の自分とは身分が違いすぎる。そうでなくても、美しく気高い彼女ならあらゆる上級貴族の令息に求婚されているだろう。どうせここから何の進展も望めない相手――そう思うと、肩の力がスッと抜けた。
スフェインの男は元来、お調子者でジョークが好き。ヒョイと肩を竦めひょうきんな顔を作り、ダリオは言った。
「どうも、貧相な男で申し訳ない。フックス侯爵に言っておきますよ、次はもっと良い服と、立派な髭を貸してくれと」
「まあ。そんなことを言ったら、侯爵は怒ってしまうのではなくって?」
クスッと笑ってから、ソフィアが問う。
吹っ切れたダリオはさらに大仰に、芝居がかった言葉遣いで白状した。
「それならそれで、もういいです。自分の身の程というものを、今夜よくよく自覚いたしましたから。うちはもうお取り潰し寸前の貧乏貴族で、領民よりもよほど貧しいもの食ってるくらい。普段は色水みたいなコーヒーを飲んでいます」
「色水みたいなコーヒー?」
「豆を買うのもケチってるってことですよ。まあこれで育ってきたせいか、むしろちょうどいいくらいでしてね。さっきメイドからいただいたコーヒーは、苦くて飲めませんでした」
「……ふふっ。そんなことってあるのね」
ソフィアは口元に手を当てて上品に笑った。
「スフェインのコーヒーと比べると、ディルツのは黒い色水だ……って、先日お会いした方はおっしゃいましたわ」
「コーヒーなんて薄ければ薄いほど良いですよ。胃に優しいし、歯も汚れないし」
「ふふっ。そうね」
「そいつはただ、あなたを貶めたかっただけです。ディルツの文化をこき下ろすことで、あなたよりも上に立とうとしたのですよ。己に自信のない、小さい男がよくやる手法です」
「そうかしら……その方、スフェインの皇帝陛下なのだけど」
思わぬ大物に一瞬ウグッと呻いたが、滑り出始めた言葉は止められない。ダリオは大げさに肩を竦め、
「それはそれは、縁談が成就しなくて良かった! そんな鼻持ちならない男と結婚していたら、あなたは不幸になっていました。むしろあなたのように実家が太くて将来安泰なご令嬢は、ご自分が尻に敷けるくらいにペラペラと薄っぺらくて柔らかい、田舎の優男くらいがちょうど良いでしょう」
さらに調子よく話すと、今度こそソフィアは声を立てて笑った。ひとしきり笑った後、目尻に滲んだ涙を指で拭って、目を細める。
周囲を見渡し、そっとダリオに近づいて……。
「――私もそう思っていたところです」
桃色の声でそんな言葉をささやかれた時、ダリオは彼女に恋をした。
「……あの日から、ワタクシはずっとソフィアに夢中なのです。フックス侯爵に頼み込み、アルフレッド公爵を説得してもらって、どうにか縁談にこぎつけました。ソフィアも同意をしてくれた――だが、ソフィアの妹達と、ローラ夫人は反対した」
――あんな小物に嫁いで、おまえはこのグラナド家をどうするつもりなの。長女としての責任を何だと思っているの! ――。
――いっそ貪欲であれば、男はそれなりの貫禄が出てくるもの。しかしあのダリオは向上心すらもない。あんな男を婿にしたら、枢機院に足元をすくわれますよ――。
「……ワタクシは何とか貴族の貫禄というものを真似てみたが、空回りばかりだったよ」
「じゃああの衣装も……ソフィア様との結婚を認めてもらうため、無理をして?」
わたしが問うと、うなずくダリオ侯爵。
「二十年、毎日着ているがちっとも慣れない。格好よさと着心地は反比例するものなんだな。肩が凝って仕方がないよ」
あっ、格好いいとは思ってたのね。センスはやっぱり本人のものだったのね。なんとなくちょっとホッとする。
その点について、わたしはダリオ侯爵を笑う気にはならなかった。わたしのファッションセンスなんて彼よりはるかに下だもの。
綺麗なもの、美しいもの、センスが良いものなんて何もわからない。まだまだミオやチュニカに言われるままされるがままだ。
もしもわたしがグラナド城に来たばかりの時、キュロス様に気に入られるよう、自分で考えてドレスアップしろと放置されたなら、侯爵と同じようにゴテゴテと着飾る方向に進んだかもしれない。
それに比べてキュロス様、ルイフォン様は本当にセンスがいいのよね。装飾は豪華ではあるがシルエットはむしろシンプルで、自分自身のスタイルが映える作りになっている。
彼らは衣装の品質だけでなく、自分の素材の良さ、自分に似合う色や形をよくわかっているのだ。
改めて見ると、彼らと比べてダリオ侯爵の衣装はやはり、お仕着せ感がある。自分に自信がないから、念のためにあれもこれもと重ね付けしてしまった結果という感じ。
好き好んでのファッションではなく、自分を偽るために着飾っていた――というダリオ侯爵の弁は、とても納得がいった。
納得は言ったが……理解できない。
「侯爵様は、ソフィア様のことを心から愛しておられたの?」
どうしても納得がいかないことを、わたしは問うてみた。
ダリオは頷いた。
「思えばここ二十年、ワタクシが努力や忍耐をしてきたものは、すべてソフィアを喜ばせるため。ソフィア・グラナド公爵令嬢を、またその気高い身分に戻してやりたい……そんな気持ちだけで、生きてきたような気がしますよ」
…………。
わたしはもう何も言わなかった。
今の話……ダリオ侯爵はこう言ったのだ。わけのわからない策を弄してでも、公爵の位を求めたのはすべてソフィア様のため。彼はただひたすら無欲に無垢に、ソフィア様を愛し、尽くしている……と。
それが真実だとしたら――エラは?
エラは……あなたが妻を喜ばせるための、道具でしかなかったというの?
なんだか胸が悪くなってきた。わたしもルイフォン様を見習って、ワイン樽をかぶせたくなってくる。
わたしは拳を握り、侯爵を睨んでいた。
その夜のことだった。
寝間着に着替え、リサと一緒にベッドに寝転がりながらくつろいでいると、部屋の扉からごく小さなノックの音が聞こえ、それからゆっくりと開かれるた。
キュロス様だと気付いて、わたしはすぐにベッドの端に寄った。エラの襲撃以降、彼はわたしの部屋で同衾している。わたしもキュロス様も背が高いので、シングルベッドでは寝返りも打てないほどに狭いけれど、気にしない。むしろなんだかすごく嬉しくて楽しくて、わたしはニコニコしてしまう。
リサを挟んで寝そべってから、キュロス様はふと、枕元に本があるのに気が付いた。表紙を眺め、ほうと声を漏らす。リサを起こさないように小声だけど。
「『ずたぼろ赤猫ものがたり』じゃないか。持ってきていたのか」
「ええ。出先でリサに読み聞かせてあげようと思って」
でもリサにはまだ早かったみたいで、ただわたしの声を子守歌にしてすぐ眠ってしまった。そう話すと、キュロス様はハハハと笑った。
「子守歌代わりになったなら、良かったじゃないか。それに、君自身がたまには童心に帰って読書を楽しむのもいいだろう」
「そうね。大好きなお話だから、何度読み返しても楽しいし……」
そこまで笑って言ってから、わたしは言葉を濁した。少しの時間、無言で迷ってから、正直に打ち明ける。
「……嫌なことがあった時、気持ちがモヤモヤした時はこれを読むの。赤猫ずたぼろの楽しい旅に自分を重ねて、明るい気持ちになれるように」
キュロス様は黙って、わたしの髪を撫でてくれた。あったかくて大きな手に、わたしは自ら頭を摺り寄せて、目を閉じる。
「ごめんなさい、わたしったらいつまでも子どもっぽくて。あなたに甘えてばかりね」
「そんなことはない。俺もマリーとリサに救われている」
即座に言い返される。わたし達が何を救ったのか、追及する前に、キュロス様は絵本を覗き込んできた。
「俺もこの話は大好きだよ。元気をもらえるよな」
「えっ、本当に?」
わたしが目を丸くすると、キュロス様はニヤリと笑い、目を閉じた。
「――そのときです。突然、真っ暗闇になりました。赤猫ずたぼろが空を見上げると、おおきなおおきな鳥が羽ばたいて、街を見下ろしておりました」
「わあっ、第三章だわ!」
思わず大きな声を上げてから、眠るリサの前で口をふさぐ。
わたしは本を手に取り、くだんのページを確認する。やっぱり第三章だわ。すごい、一字一句ぜんぶ合ってる。
「キュロス様もこの本を読んで育ったの?」
「いや、一度くらいは読んだはずだが、あまり覚えていなかった。マリーがこれを好きだと聞いてから読んだんだよ」
「そうだったの……」
なんだか嬉しい。
本をペラペラとめくりながら、キュロス様は目を細めた。
「あらためて読むと、かなり記憶があいまいだったな。そうかこんな話だったかという発見があった」
「そうそう、それも読み返しの醍醐味なのよ。読んだ時の年齢や環境で受け取り方が違うもの。それに、この後どうなるか何もわかっていない時に読むのと、結末を知ったうえで読むのとでまた違う読み味なのよ」
「そうか。それなら、それは新しい本と同じくらい楽しいな」
キュロス様にそう言ってもらって、わたしは天に舞い上がるような心持になった。
そう! そうなの! と、飛び上がって肯定したくなる。
嬉しい。自分の好きなものを、好きな人に肯定してもらえるほど幸せなことはない。
狭いベッドから落ちないよう、大きな体と長い手を器用に使って、キュロス様は本をめくる。文章を読むのではなく、懐かしい玩具を愛でるように。
「俺は、どちらかというと読書が苦手な子どもだった。真面目に読むのは学習のため、仕事のために仕方なくという感じだったよ」
「まあ。グラナド城にはあんなに立派な図書館があるのに、もったいない」
「今は本当にそう思う。その価値を心から理解している、君のことを尊敬する」
いきなり尊敬なんて言葉が出てきて、わたしは驚きのあまり言葉を失った。目を丸くしているわたしに、彼は目を細め、微笑む。
「君のその趣味――いや、能力は、誇りに思うべきだ。どんな資料でも楽しく読んで、すぐに内容を分析し、まとめて理解する。こういうことが出来る人間は少ないよ」
「そ、そうかしら? これが何か、お仕事につながるならいいんだけど……」
「仕事に? もちろんだとも!」
キュロス様は、興奮したように声を大きくした。
「実際にシャデラン家を経営していたんだろう? グレゴールを庇うわけじゃないが、それは元来、難しいことで――ああそうかマリー、君はまだその自分のすごさを十分に理解していなかったんだな?」
キュロス様はそう言って、わたしを叱るみたいに言い聞かせてきた。
「君ならどんな場所でも働ける。グラナド商会だって、君ほどの能力は喉から手が出るほど欲しているんだ」
「そ、そう? じゃあ本当に、何かお手伝いできることがある? それこそ経理とか、在庫の管理とか、なんでも。あなたの役に立てたら嬉しいって、ずっと思っていたの」
わたしが言うと、キュロス様は一度、びっくりしたように目を丸くした。それから眉毛をふにゃりと垂らし、目を細める。
「……マリー、もう一度言って」
「どうして?」
「嬉しいから。リサが起きている時間なら、跳んで歌って、踊り出していたところだ」
わたしは大笑いしてしまった。
――と、いけない、リサが起きちゃう……。キュロス様が唇に人差し指を当て、わたしを窘める。わたしは頷いて口を塞いだ。
彼はリサが眠ったままなのを確認し……娘越しに、わたしをじっと見つめて、囁いた。
「そう言ってくれるのは、本当に嬉しい。実際、真珠のモデルになってくれた件は、大きな効果を出している。これからもっと複雑な仕事を頼むこともあるかもしれない」
うん、なんでも言ってね、と視線で伝える。
彼は少しだけ、寂しそうな、悲しそうな顔をした。
「けれど、辛いことはさせない。貿易商も公爵領の管理も、大きな仕事だ。無理をせざるを得ないこともあるし、危険が伴うこともある。そういうことは、君にはさせない」
「……はい」
「俺は君とリサ、家族を護るために働いている。俺を助けてマリーが無理をしたら本末転倒だ。俺は二人の、心にも体にも、傷一つ付けたくない」
「……はい」
「長生きしてくれ。それだけでいいんだ」
その声は、何か――妻や、恋人にかける言葉にしては異質に感じた。同時にキュロス様が本気で、心の底から願っていることだとも。
わたしは無言で、長い時間をかけて、回答を考えた。本心では、わが身を犠牲にしてでも彼の助けになりたい、手伝わせてくださいと言いたかった。
でもきっとキュロス様は望んでいない――。
わたしは頷いた。キュロス様は心からホッとしたような、穏やかな表情になった。
「ありがとう」
彼は手を伸ばし、娘越しにわたしの頬を撫でる。
わたしも横たわったまま……二人、少しずつ体を伸ばして、唇を重ねた。




