ダリオの真実①
遁走したダリオ・アフォンソを見つけ出したのは、もう夜明けが近い頃だった。
なんと地下室のワイン倉。
全員徹夜で家じゅう探し尽くしても見つからず、あきらめかけた時、ふとウォルフガングが、「そういえばあのワイン樽はどこから持ってきたのでしょうか」と言い出した。隠し扉があるのではないかと、厨房付近の壁を探索して、やっと見つけたのである。
扉の奥にあった階段を降りると、飲食物を保存している小部屋があった。わたし達が下りてきたのを察してか、慌てたダリオはカラッポのワイン樽に体を丸めておさまっていた。狭い狭い空間に、妙な体勢でみっちり詰まっている中年男。
さすがにこの逃亡先には、わたしもキュロス様も呆れるしかなかった。脱力しているわたし達に代わり、ウォルフガングが丁寧に語り掛ける。
「失礼……おくつろぎの所を恐れ入ります、ダリオ様。火急の用がございますゆえ、お顔をお見せいただけますか」
「……ぬ、ぬけない」
わたし達は侯爵の衣服を鷲掴みにし、芋引きの要領で引き抜いた。
服の一部が伸び、髪型も変なクセがついてしまった侯爵は、それでもギリギリ紳士の微笑みを浮かべることに成功していた。
「いやあ失礼! 急に葡萄の気持ちになりきってみたく思い、つい樽に頭を突っ込んでしまって」
「笑えない冗談を言うんじゃない」
キュロス様は、今回ばかりは取り合わなかった。ニコリともせず、低い声で脅すように吐き捨てる。
「エラが消えた。男連中ですぐに追ったが、夜の森ではどうしようもなかった。明るくなるのを待って、捜索するぞ」
「エラが?」
きょとん、としていう侯爵。
「はて……意外ですね。普段なら、大抵のことはめそめそと泣いてやり過ごすだけで、飛び出すようなことはまず無かったんですが」
「それどころか、しっかり暴言まで吐いて行ったぞ。マリーに向かって死ねだのと」
侯爵はハハハッと爽やかに笑った。
「ご冗談を」
「……冗談ではない。笑えないし」
「何かの聞き間違えでしょう、あの子がそんなことを言うわけがない」
どうやら侯爵はその場をごまかすためではなく、本気で言っているようだった。絶句してしまったキュロス様の代わりに、わたしは「とにかく探しに行かないと」と進言した。
夜の森は危険だ。ディルツの夏は冷えるし、野生の獣もいるだろう。軽装の女性が一人、何日も生きていける環境ではない。
もちろんわたしは、エラのことが好きじゃない、思うところはたくさんあるけれど、命の危機を放置はできない。
「トマスが捜索隊を呼びに行ってくれたけど、往復で三日はかかるんです。その間に、明るいうちだけでもわたし達で探しましょう。侯爵、エラが行きそうなところに心当たりはありませんか?」
わたしは必死で訴えたけど、侯爵は何故か、へらへらと笑っていた。呑気な声で、ぱたぱたと手を振る。
「大丈夫ですよ。エラは何度もこの別荘に来たことがあります。森の抜け方も知っていますよ」
「街道に出られても、街まで歩ける距離ではないわ」
「定期的に乗合馬車が通るんですよ。運賃は、お使い用のを持っているでしょうし、無くても侯爵家のツケにすればいい」
「そんな……そうだとしても」
「まあ、どうしようもなくなったら戻ってきますよ。勝手に出て行った者を追って、自分が遭難したら元も子もない。ワタクシは『丸刈りにされた羊飼い』になるのは御免ですからね」
そう言って、なにが面白いのか、侯爵はクックッと笑っていた。
丸刈りにされた羊飼い――ことわざで、羊の毛を刈りに行った羊飼いが、自分の髪を羊に食われて帰ってきたという笑い話のことだ。古今東西、『詐欺師が貢がされる』とか『歌手が伴奏に聞きほれる』など色んなバリエーションがある。要するに、他人に何かをしようと深追いしたら逆に自分が被害を受けかねないということで、遭難者救助の鉄則、口がすっぱくなるほど警告されることである。
エラを探して、わたし達が遭難したら目も当てられない――それはその通り、正しい。ましてわたし達はエラの味方ではない。だけど――だからこそ――侯爵だけは必死で探そうとしてくれると思っていたのに。
「……エラは、あなたに探して欲しくて、飛び出したのだと思います……」
わたしがそういうと、侯爵は、笑った。本当に心から嬉しそうに。
「ははは、それはそれは。困りますね、これでも妻子のある男でございますから」
その言葉は、酷く軽薄に響き、しらけきった空気をさらに乾燥させた。
わたしは自分の表情が酷く歪んでいくのを自覚していた。……どうしようもなく、腹が立つ。
一方キュロス様は、無責任な言動に怒りを覚えたらしかった。この場にいる誰よりも気を悪くしたように、暗い表情で私室へ戻っていった。
その日の昼食は、わたしが献立から考えて調理すべてを担当した。と言っても、料理に関してはシンプル路線のディルツ国民の家庭料理。特に夕食は質素に済ませるのが文化である。
羊肉のソーセージとハム、チーズを混ぜた芋団子、夏野菜を煮込んだスープと、ライムギのパンというメニューだった。
「また味気ない、これが貴族の食事か?」
と、侯爵はまたプリプリ怒っていたけれど、わたしは一切相手にしなかった。この男のために作り直してあげる気になれない。どうせしっかり完食していたし。
満腹になって、くつろいでいる侯爵に、ルイフォン様がそうっと近寄った。
「ダリオ侯爵、この料理には赤ワインが合いそうだよね」
「えっ、あ、ああそうですね……」
「この家はワイン倉があったよね? ひとついただけないかな」
「は、はい! もちろん、殿下にお飲みいただけるならワインも喜ぶというものでしょう。では――そこの女! 地下室に行って、一番奥に飾られたものを持ってこい」
と、侯爵はチュニカに命じたけれど、その手をルイフォン様が掴まえ、グイと引いた。椅子から半ば引きずり下ろすようにして、ダリオを立たせる。そして低い声でゆっくりと、言い聞かせるように吐き捨てた。
「人の家の侍従を使うな。おまえが取ってくるんだよ」
「……あ…………は、はい……」
侯爵はビクビクと震えながら、食堂を飛び出していった。間もなく、ワインボトルを抱えて戻って来た侯爵から、ルイフォン様はワインを受け取ると、代わりにカラのグラスを侯爵に手渡した。無言で栓を抜く。それを見て、王子様にお酌してもらえると思ったのだろう、侯爵は恐縮し、引きつった笑顔で腰を低くしていた。
「ど、どうも。これはこれは身に余る光栄――」
と、話している途中で、侯爵の顔面がワインで染まる。ルイフォン様はボトルを侯爵の頭上高くまで上げ、くるりとひっくり返したのだ。
あっ、と驚く暇もなく、ドボドボドボと景気よく、新品のボトル一本分が侯爵の頭に注がれる。侯爵も、あまりのことに硬直していた。
「……おい、ルイフォン。やりすぎだ」
まるまる一本分がカラッポになってから、キュロス様が苦言を呈する。ルイフォン様はヒョイと肩を竦めた。
「今頃エラは、もっと酷い目にあってるかもしれないよ。熊に齧られたり、夜道で馬車に轢かれたりして。こんなふうに、頭から真っ赤な血を流しているかもね」
「……ひぃ……っ」
ダリオは震え上がった。しばらくワインまみれのまま無言で立ち尽くしてたから、なんとかその場をごまかそうとしたのか、へらへら笑いだす。
「あ……は、はは。確かに。……いや、殿下はブラックジョークもお得意でらっしゃる……」
ルイフォン様はニコリともしなかった。ルイフォン・サンダルキア・ディルツの瞳は冷たい。凍り付く寸前の湖のようなアイスブルーは、視線を合わせたものの心までをも凍てつかせる。いつも飄々とした微笑みを浮かべているのは、鋭すぎる眼を隠すためかもしれない。
端正な顔でまっすぐに侯爵を見下ろして、彼は心底軽蔑したような声音で囁いた。
「ジョークだって? 僕はタチの悪いイタズラとクセの強いイジワルは好きだけど、シャレにならないジョークは大嫌いだよ」
……正直、それら三つの区別がわたしにはわかりませんが。
ルイフォン様は確かに、イジワルなイタズラを好んでよく仕掛けるけども(特にキュロス様を相手に)だけど、信念がある方なのはわたしもよく知っている。
彼は、ダリオ侯爵に怒っていた。冗談でも皮肉でもなく、強い敵意を持って。
さすがにそれを理解して、ダリオ侯爵はなにも言えなくなっていた。王子様相手では、言い返せなくて悔しいという思いも無いらしく、ただうなだれて震えていた。一回り小さく見えるほど縮こまった中年男に、ルイフォン様は容赦をしなかった。
「――ちっさい男。こんな男に引っかかる女も悪い。……気分悪い。一緒の空気を吸いたくないね」
「ルイフォン、何処へ行く?」
「散歩。夕食には帰るよ」
そう言い捨てて、去っていく。
あとに残された侯爵に、わたしは無言のまま、それでもハンカチーフを差し出した。ボトル一本分のワインを被ったので焼け石に水だろうけど。侯爵はわたしのハンカチを辞退し、「風呂に行ってくる」と席を立った。そこへ、キュロス様が進言する。
「髪や体は湯で流せても、服は再起不能だな。それだけ赤ワインに浸かったら、普通の洗浄ではシミが取れないだろう」
「はは……まあ、なんというか。……自業自得の罰と思っておきますよ」
なんだか萎んだ声でダリオは答えた。
……まったく自覚が無かったわけじゃないらしい。
肩をがっくり落としながらも食堂を出ていく。その背中に、チュニカがぽつりと呟いた。
「あんなにしょげかえっちゃうなんて。やっぱりスフェイン人でも、貴族ならやっぱり怖い話は怖いんですねえ」
「ん? 何の話?」
「ほら、エラさんが今頃、赤ワイン被ったのと同じ姿になってるかもって、ルイフォン様が話した途端に震え上がってたじゃないですか。あれ可笑しかったですねえ、ヒィッとか言ってぇ」
「あれは、貴族の怪談嫌いとは別の反応だと思うが」
キュロス様が苦笑いして言うと、チュニカは「あらそうでしたぁ? ごめんなさぁい」と笑って舌を出した。それで場の雰囲気が和らいだので、チュニカはそのためにわざととぼけたのかもしれない。
キュロス様は嘆息し、食事を再開しながらつぶやいた。
「……エラのことは心配ではあるが、実際にはダリオの言う通り、素人が森を散策するのはたいへん危険だ。個人的な感情としても、エラのために俺達が命を懸けるのは違う……と思う。多分」
「旦那様がそうしたいとおっしゃっても、このウォルフガングが許しません」
ウォルフガングが厳しく言った。
「マリー様も。お二人がどうしても、エラを放っておけないとおっしゃるならば、この僕や従僕にお命じになってください。この命尽きるまで、エラを探し続けましょう」
「そんなことは言わないわ」
「では、トマス君が捜索隊と共に戻るのを待ちましょう。――食後の飲み物は、ハーブティーがよろしいですか。それともコーヒーになさいますか?」
それから、わたし達はみな食堂に残ったまま、だらだらと寛いで過ごした。一応、ダリオ侯爵のお着替えを待っていたのだけど、興味があって待ちかねているわけではない。
わたしも、リサがちょうど寝入り端でなかったらさっさと引き上げたいところだった。そろそろ眠りが深くなってきたようだから、部屋に戻ろうか……と。そう思ったちょうどその時。
唐突に、何の盛り上がりも無く、ダリオ・アフォンソが普通の恰好で現れた。
思わず、「あれっ?」と声が出る。何かに驚いたわけではない。むしろ驚かなかったことに、わたしはとても驚いた。
本当に、普通の恰好である。貴族の紳士らしい、華やかさはあるものの、必要以上のフリルや奇抜な柄はどこにもない。よくわからない方向に尖った髪型はそのまま下ろしただけのカーリーヘアで、何より人目を引くカイゼル髭は綺麗にそり落とされている。
そうなると、不思議な現象が起きていた。ちょっと、格好いいのだ。あのダリオ・アフォンソが!
平均よりわずかに長身、取り立てて逞しいとは言えないが、細身ゆえにスタイルは良い。クセのあるブラウンの髪はカールがかってもなお艶があり、普段の食生活や、美意識が高いことを感じさせた、
やや垂れ気味の三白眼は、長い睫毛に縁どられ、どこか中性的に感じる。素朴な衣装をしてこそわかる、素材の良さというか……ダリオ侯爵は、美男子だった。
キュロス様もポカンとして、侯爵の姿を上から下まで眺めると、魂の抜けた声で呟いた。
「普通だ……」
その様子に侯爵は激昂するかと思いきやそうでもなく、不機嫌そうに「ふん」と鼻を鳴らす。
「そりゃあ、普通の人間ですからね。普通の恰好が似合いますよ」
ぶっきらぼうに言う侯爵。
わたし達の視線に混じる驚きを、侯爵はたっぷり自覚していたのだろう。自嘲気味に笑いながら椅子を引き、席に着いた。
「ここに来てから、なぜか何度も何度も再起不能に服を汚されてしまいましたからね。持ち込んでいた一張羅が尽き、普段の自宅着しかなくなってしまったのです。王族もいらっしゃる前でお恥ずかしい姿ですが、どうかご容赦を」
そんな風に言いながらも、心なしか、いつもよりリラックスしているようにすら見える。
……普段の自宅着って……。
それって、あの衣装は外出用の特別なオシャレコーディネートということ? 本国でいつもソフィア様と過ごしている時には、こんなに地味で普通の紳士なの?
そこでわたしはふと、正面玄関に飾られていた、男女の肖像画を思い出した。
どこかで見たことがあると思った、素朴だけれど好青年――あれはやっぱり、若い頃のダリオ侯爵だったのだ。
この姿が、本来のダリオ・アフォンソ。
だったらどうして、あんな恰好を……虚勢を張って、貴族たるもの着飾って当然と豪語していたのだろう?
ソフィア・グラナドは、どちらの彼を見初めて結婚したのだろう……?
「そういえば聞いたことはなかったな。ダリオ侯爵は、姉とどこで知り合い、どういった縁で結婚したんだ?」
キュロス様が尋ねる。まさに わたしもそれが気になっていた。




