わたしはとても怒っています
朝、わたしはエラを呼び出した。
十人集まると満員というくらいの食堂に、わたしとキュロス様、娘のリサ、エラと、ルイフォン様。
ダリオ侯爵にもお声がけはしたけど、腹が痛いと言って部屋から出てこなかった。期待していなかったし、いないほうがかえってスムーズかもと考え、放置した。
そのためエラは一人、木床に座っていた。わたし達は全員で彼女を取り囲むように立ち、見下ろしている。
……当たり前だけど、酷く委縮し怯えている姿に、少しだけ可哀想になる。でも、追及しなくてはいけない。
わたしは人生で出した声で一番、低い音で、言葉を吐き出した。
「キュロス・グラナドは、わたしの夫です」
エラは何も答えなかった。さらに、続ける。
「そしてディルツの公爵という高貴な身にあり、何よりエリーザベトの父でもある。そのことを、知らなかったとは言わないわよね? エラ」
「…………はい……」
エラは消え入るような声で呟いた。わたしは構わず、同じトーンで続ける。
「彼の寝室を訪ねた理由を説明してちょうだい」
エラは目を伏せ、口ごもりながら答えた。
「……だって……まさか、奥様に話すとは、思ってなくて……」
「理由になっていないわ。それに、どうしてキュロス様が黙っていてくれると思ったの」
「だって……キュロス様は、お優しいから……」
それを受けて、キュロス様は苦笑した。
「『優しい男』なら、君を許しただろう。だが俺は『優しい夫』でありたい。妻を不安にさせないよう努めるよ」
「……でも……キュロス様が怒るならまだしも、マリー様は関係ない――」
「わたしは彼の妻です」
わたしが言い切ると、エラは黙り込んだ。
わたしは怒っていた。
彼の妻として、夫を誘惑――いや夜這いをかけにきた狼藉者に、そしてキュロス・グラナドという青年に親愛を持つものとして、彼を侮辱した人間に。
わたしは元来、自己主張が苦手な人間だ。なにか他人に思うことがあっても、反論することで余計に大きな諍いになるのではないかと思い、黙り込んでしまう。それに物欲も少なくて、大抵のことは他人に譲る。わたしがそれを失っても、他の人が満たされるならそれでいいと思っている。
だけど彼だけはダメ。キュロス様は絶対に譲れない。わたしから夫を奪おうとする者、夫を侮辱する人間を、わたしは絶対に許さない。
キュロス様やルイフォン様、侍従のみんなはわたしの代わりにエラを糾弾しようかと提案してくれた。それをわたしは断った。エラの行動に、一番激怒しているのはこのわたしだ。わたしはわたしの怒りを、わたしの言葉で、きちんと主張すると決めたのだ。
わたしはエラを見下ろし、静かに糾弾をする。
「なにか弁解があるならば聞きましょう。それで許すということはないけれど」
「……いいえ。……私が悪いので……」
床の一点を見つめたまま、ぼそぼそと吐き出すエラ。
何の意味も無い問答に、ルイフォン様が肩を竦め、ハハッと皮肉気に笑った。
「駄目だよマリーちゃん、こういうタイプに正論ぶつけたら。泣くばかりで何にも反省しない、むしろ自分が被害者みたいに振舞い出すよ」
珍しくとても辛辣なことを言ってから、本当にうんざりだという顔をした。
「僕こういうタイプ一番嫌い。甘くしちゃダメだよ、もう問答無用で森に放り出しちゃうのが一番さ」
一応、これはブラックユーモアというものだったのだろう、「言いすぎだ」とキュロス様が窘める。だが、エラは神妙に頷いた。
「はい……どうぞ罰を与えてください」
「……俺にも、君を叩けというのか」
キュロス様が問うと、エラは頷く。彼の顔が曇った。それからすぐにエラから視線を逸らし、冷たく突き放すような所作をした。
だけど、わたしには分かる。この場で、一番エラを憐れんでいるのはキュロス様だということに。
昨夜――明け方近い時間になって、わたしの部屋にキュロス様が訪ねてきた。床でいいからここで寝かせてくれ、と。
わたしはリサを抱き寄せてスペースを空けると、彼をベッドに入れた。間近で見た彼はひどく青ざめていた。なにかあったのか、また侯爵に妙な悪戯でもされたのかと尋ねたけど、彼は答えず、ただとても浮かない顔をした。わたしは何も言わず、緑色の瞳をじっと見つめる。ずいぶん時間が経ってから、やっと彼はぽつりぽつりと、吐き出すように話してくれた。
不可抗力ではあるが、エラの体を見たこと。その背中には男に殴られた傷があったこと。そのショックで、過去を思い出したこと――愛憎劇の果てに命を落とした、哀れな女性のことを。
「……どうしてみんな、愛する人を傷つけるんだ」
わたしの胸に顔を埋めて、キュロス様は呟いた。
「大事な人は大事にすればいい、ただそれだけのことなのに。それはそんなに難しいことなのか? 俺もいずれは、マリーやリサを傷つけてしまうのだろうか」
「そんなことは、決して」
わたしはすぐに否定したが、キュロス様の震えは止まらなかった。
彼は怯えていた。
「俺はもう、家族を不幸にしたくない……」
わたしは激怒した。キュロス様を、我が夫を、わたしの愛しい人にこんな表情をさせたエラを、許すつもりはなかった。
今、エラはシクシクと泣きながら、キュロス様の同情を誘おうと濡れた瞳で見上げている。あなたなんかよりキュロス様のほうがよっぽど傷ついたのに。
わたしはギュッと拳を握り、深呼吸してから、声を張った。
「とにかく、わたしもうあなたに情けをかけない。金輪際、わたし達家族に近づかないで」
はっきりそう言い切られて――彼女はしばらく座り込んだまま、じっとしていた。やがて、ぼそりと呟く。
「……分かっています、みんな、マリー様の味方だって」
全員が怪訝な表情になる。
「仕方ないですよね。私は……醜いから」
これにはキュロス様も顔をしかめた。声にもわずかに怒気が混じる。
「そんなことは誰も言っていない」
「いいえ、目が、みんなの態度がそう言っているんです。だってそうでしょう? それが世の中の道理というものでしょう!?」
いきなりエラが叫んだので、みんな思わず身をすくませた。ボリュームを上げた彼女の声は、思いのほか甲高くて、耳を劈くような声だったのだ。
「貧しい男爵家の娘を見初めたのも、容姿が美しかったからでしょう? そうでなければどれだけ政略的に都合が良くても、妻に迎えることはなかったでしょう」
「いいや。俺がマリーと初めて会った時、マリーはずたぼろだった。俺がマリーに恋をしたのは、無邪気で聡明で、俺のルーツに理解を示してくれたから――」
「嘘よ。そんなお芝居みたいなシナリオ、誰も信じるものですか」
わたしは顔をしかめた。
エラのように、わたし達のなれそめを信じない人間は、過去に何度か出会ったことがある。ボロと言っても、粗末な市民服くらいのもので、人相が分からないほど汚れていたわけじゃないでしょう、とか。初めは政略結婚のつもりで呼び寄せて、風呂に入れたらたまたま綺麗に化けたから惚れ直したんだろう、とか。
貧しい男爵家の次女が公爵令息と、となると、良くも悪くも好奇の目にさらされる。でもエラの追及はこれまでで一番、嫌な感じだった。質問ではなく詰問、キュロス様を責めるような口調で、口元には卑屈な笑みが見える。
キュロス様も不快だったらしい、思い切り顔をしかめて、首を振った。
「マリーの良いところ、惚気話ならいくらでもできるが、それを君に話す義務はない。まして責められる謂われはない。関係ない話を混ぜ返すのはやめてくれ」
エラはまたシクシクと泣き出す。
「ずるい、ずるいわ。たまたま美しく生まれただけで、マリー様はこんなに愛されて。私もマリー様のように美しければ……」
もう本当にどうすればいいのか――わたし達が途方に暮れてしまった、その時。
「だったら、美しくなればいいじゃないですか、あなたも」
と……凛と張った声で呼びかけたのは、チュニカだった。




