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ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される  作者: とびらの
生命の分水嶺 編

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俺は助けたかった


「――初めまして。あなたの母です」


 ローラ夫人の声を初めて聴いたのは、そんな言葉だった。

 俺の年齢は二歳になったばかりくらい、まだほとんど言葉を発したことも無かったが、人の言うことは理解していた。そのうえで、意味が分からなかった。

 母、というものは、自分を生んで育ててくれている、一番身近な女性のことだと認識している。それは、この金髪の女性ではなかった。

 多分、俺はずいぶんキョトンとしていたのだろう。ローラ夫人は明らかに機嫌を損ねた様子で、声を低くした。


「……それが道理なのです。あなたがアルフレッドの子で、グラナド家の嫡男だというならば、その妻であるわたくしの子どもです」


 どうすればいいのかわからない。

 俺は後ろにいるひとを振り向いた。そこには自分が母親と認識している、自分と同じ色の肌と髪をした女性がいる。分からないことや困ったことは、彼女に聞けば大体解決する。


「ははうえ」


 いつも通りそう呼ぶと、母親は何とも言えない表情になった。悲しんでいるような、怒っているような。腹がたまらなく痛いような顔をしていた。

 ローラ夫人の表情も一変した。美しい目元にみるみる深い皺が刻まれる。直後、夫人は手に持った扇子を閉じたまま振り下ろした。

 ――ばちんっ! とものすごい音がして、母の体が傾く。ローラ夫人が殴ったのだ。突然の大人同士の暴力に俺は身をすくませた。

 夫人の扇子はもう一度、母の頬を強く打ったが、母は微動だにしなった。口の端から赤いものを垂らしながらも、黙って耐えていた。夫人はいかにも不潔なものを見るかのように、母を視線で(なじ)っていた。


「この淫売が! まだ自分を母親と呼ばせているのか!」

「……すみません」

「愛妾というものは、どれだけ(ねや)に呼ばれても子を孕んではならない。孕んでしまったら、毒を吞んででも堕ろさねばならない。さもなくば母子ともども速やかに去り、修道院にでも籠らねばならない。古来より言い伝えられる貴族界のルール。下賤な異国人とはいえ、知らなかったわけではないでしょう!」

「……はい」


 母は一度、素直に頷き、しかしすぐに首を振った。


「でも、それは古い法で……現法では、庶子でも跡継ぎになれるって。それにアルフレッドはあたしを――」


 なにか言いかけたところを殴られ、母はまた黙った。夫人は母に一言もしゃべらせる気は無いようだった。また唇を動かせばすぐに叩くぞと牽制しながら、威圧的に発言する。


「わかっているのならば去りなさい」


 ローラ夫人は居丈高に言った。


「その子どもを公爵邸(ここ)へ置いて。キュロスはこのわたくしが責任をもって、グラナド家の嫡子にふさわしい立派な男子に育て上げます」

「――でも、この子は」


 リュー・リューが口を開くと、すぐ扇子がうなりをあげて頬を打つ。


「それでもこの子は、この子だけは」


 また叩かれる。木製の扇子で何度も頬を打たれれば、女の顔はじきに腫れあがる。母の顔面から滴る血が、扇子に撥ねられ俺の顔にまで飛んできた。

 目の前で、母がずたぼろになっていく。それでも俺は、どうしていいかわからなかった。

 ――やめて。お母さんをもう叩かないで。

 その言葉をまだ知らなかった。


 やがて、扇子の骨が折れ、羽が地面にばさりと落ちた。この時、ローラ夫人は自分が少々、やりすぎたと気付いたのかもしれない。一瞬怯んで、手を止めた。

 リュー・リューは顔を上げた。顎から滴るほど血を流し、それでも握った拳は下ろしたままで、視線だけをキッと上げていた。


「この子は、あたしの子だ。あたしとアルフレッドが愛し合って出来た子なんだ。公爵位なんか要らないよ、あんたのとこのバカ婿にくれてやる。だからあたし達のことはほっといて」


 ローラ夫人は息を呑んだ。貴婦人が生まれて初めて聞いた乱暴な言葉にたじろいだのかもしれないし、魔性と呼ばれる緑の目に怯んだのかもしれない。しばらく、夫人と愛人の視線が交錯し――背を向けたのは夫人のほうだった。


「わかりました。それならば、結構。ただし目障りなのは変わりません、わたくしの前になるべく姿を見せないように」

「……オッケーです」

「あとその言葉遣いもどうにかしなさい。あなたにディルツ語を教えた人間を、いますぐ縛り首にしたいわ」


 悪態をつきながら去っていくローラ夫人。その背中に、リュー・リューはこっそり舌を出していた。

 俺は、いつの間にか泣いていたらしい。母は俺の頬を指で拭って、濡れた指を、服の端っこで適当に拭いた。それから俺の顔を覗き込み、にかっと笑った。


「女の戦いは、あたしの勝ちねっ」


 あちこちが切れて血を流し、腫れあがったずたぼろの顔で、リュー・リューはそう言った。



 ――この出来事の二年後、ローラ夫人は亡くなった。自らの胸をナイフで突いて。


 この時、夫人は毒薬を所持していた。使えばナイフよりも楽に逝ける毒だった。

 もしかして夫人は、この毒で誰かを殺そうとしていたのではないか。そんな自分の醜い悪意に耐えかねて、自決を選んだのではないか。

 そして殺意の対象は、夫アルフレッド公爵の庶子――前日に跡継ぎの指名された、キュロスだったのではないか。

 そんな噂が公爵邸に拡がり始めた頃、リュー・リューは俺を連れて屋敷を出た。


 俺の、当時の記憶はあいまいだ。この事件の前後、俺は熱を出し、何度もひきつけを起こして悶絶していたらしい。回復した頃には数日分の記憶が霞んでいた。もう少し大きくなってから、噂の真偽についてミオに尋ねてみたが、答えはもらえなかった。


 ……どうなんだろう? 今考えても答えが出ない。

 ローラ夫人は、四歳児の俺を殺そうとしたのだろうか。

 もしもそうだとしたら――そうだとしても――俺の中に、夫人を恨む気持ちはない。

 むしろ、詫びたいと思う。

 俺にはリュー・リューという、身を挺して守ってくれるひとがいる。だから孤独なあのひとを、俺が守りたかった。

 不幸にしてしまったこと、救えなかったことをずっと後悔していたんだ。俺の、もう一人の母の命を。


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