ダリオ侯爵は一所懸命
頭から赤ワインをたっぷり浴びて、とりあえずお風呂に入り、着替えを済ませてきたダリオ侯爵。
彼の奇行は、これで終わるどころか加速していった。
「先ほどは大変失礼いたしましたキュロス殿。こんどこそ美味しいコーヒーを淹れて参りました。どうぞ、みなさんでお召し上がりください」
そう言いながら、侯爵は全員ぶんのカップにコーヒーを注いでいく。
この中では一番、コーヒーに造詣の深いウォルフガングが興味深そうに侯爵の手もとを覗いていた。
「おや……ダリオ様、ずいぶんと手慣れた手つきでいらっしゃる。アロマの立て方がお見事です」
侯爵はフフンと鼻を鳴らし、偉ぶるみたいに胸を張った。
「当然だ。スフェイン人たるもの、貴族だろうが帝王だろうが、自分でコーヒーを淹れられずに男子を名乗る資格なし。豆も挽き方も、各々でコダワリがあるのだよ」
「確かに、ずいぶん細かく挽いてありますね。これでは少々、濃くなりすぎはしませんか?」
「ふふん、スフェインのコーヒーはこのくらい濃く、甘く作るものなのだ。そのぶん、一日に飲む量は少ないがね」
「なるほど、薄めに作ってお茶のように飲むディルツとは真逆の文化でございますね。さすが、ダリオ様は造詣が深くていらっしゃる。御見それいたしました」
老執事に褒められて、侯爵は良い気持ちになったらしい。心なしか手付きがご機嫌になっていた。全員のぶん淹れてから、それぞれの前にカップを配ってくれる。
わたしの前にもカップが置かれる。隣に座っていたキュロス様が半身を乗り出し、わたしのカップを覗き込んだ。
「……たしかに、色が濃いな。それに素晴らしい香りだ」
「ええ、スフェインのコーヒーを一度飲めば、ディルツの薄い黒水には戻れませんよ。……キュロス殿には淹れたてを味わっていただきたいので、お淹れするのは最後にいたしますね。お連れの皆様も、出来たものから先に一口ご賞味くださいませ。それからいくつお砂糖を入れるか、お好みに合わせてどうぞ」
そんなことを言いながら、侯爵はポケットから、そっと何かを取り出した。みんなの視線が手元のコーヒーにあるうちに、手をキュロス様のカップにかざす。
ぽちょん、と小さな水の音とわずかな波紋。
あっ――と思った瞬間。ウォルフガングが大きな声を出した。
「おおっダリオ様ご覧ください、僕のコーヒーに茶柱が」
「コーヒーに茶柱ぁっ!?」
ギョッとして、身体ごとウォルフのほうを向く侯爵。その隙に、キュロス様はコーヒーカップを、自分のものを侯爵のと取り換えた。するとウォルフガングは明るく笑い、
「ああいや失礼、ただのコーヒーオイルでした」
「何をどう見たらオイルの膜と茶柱を見間違えるんだ? まったく……」
ブツクサ言いながら、侯爵は椅子に腰を下ろした。
美味しそうにコーヒーを飲むキュロス様を、不思議そうに見つめてから、自分もカップに口を付け……。
「塩っっっパぁ!」
思いっきりコーヒーを吹き出し、繊細なレースを施した立て襟を茶色く染めた。
ダリオ・アフォンソ侯爵、本日二度目のお着替え。
彼が食堂に戻ってきた時、チュニカがキュロス様の頭に手を伸ばしているところだった。
「わあ旦那様、御髪にチョウチョが留まってますよぉ。メルヘンですねえ」
「えっ、うわ、どこだ、取って取って」
大きな体を慌てて屈めて、チュニカが蝶を採るのを待つキュロス様。その様子は、ふだんの彼からは想像しがたいほど焦っていた。
チュニカはこれ以上なく楽しそうに笑う。
「旦那様、もしかして虫が苦手だったんですかぁ?」
「ん……まあ、正直得意ではないな。特に小さくて、足がいっぱいあるやつ」
「意外ぃ―。航海していたらフナムシとかいっぱい見ることあるでしょうにィ」
「まさにそれ、一回船底でウジャウジャしてるのを見て……」
すこしばかり顔を歪ませながらも、どこか楽しそうに話しているキュロス様。
ダリオ侯爵は、そのすぐそばで大きく耳をそばだてていた。フムフムと聞き入ってから、ニヤニヤ笑って立ち上がる。
どこか屋敷の中を探索していたかと思ったら、大きな虫取り網を持って、小川を渡って出て行った。
………………。
わたしはこっそり、侯爵とは逆の方向へ出かけ、柔らかい土を手で掘った。
それから、小一時間ほどのち。
「キュロス殿! そういえばみなさんも、まだ寝室に案内していませんでしたね! お部屋の用意は済んでおりますので、どうぞお部屋でおくつろぎください!」
元気のいい声で案内されて、キュロス様は寝室に入っていき――。
「うぉわっ! 壁にカブトムシが――!」
悲鳴に近い声がした。彼の部屋の扉に耳を貼り付けていた侯爵は、クックックと嬉しそうに笑いをかみ殺している。わたしはニコニコしながら侯爵に近づいた。
「お部屋の支度、ありがとうございました。ダリオ様もどうぞご自身の部屋でおくつろぎください」
「うん? ああ、そうだな、そうさせてもらおう!」
やっと作戦成功した喜びに浸っているのか、高らかに笑いながら、侯爵は二階の部屋に上がっていって……。
「――ぅぁあああああああああああベッドに! ベッドにびっしりダンゴムシぃいいいい」
天地がひっくり返るんじゃないかって言うほど大きな叫び声がした。
彼の部屋の大惨事を想像して、わたしはニッコリした。
酪農村の領主、家畜と野菜を育てていた娘を舐めてはいけない、ということで。
それからも、侯爵は何か、奇妙な言動を続けていた。
部屋着としてキュロス様に手渡した衣服が、全く丈が足りていなかったり(彼は自前のを持ち込んでいたのでもとより借りるつもりはなかった)。
昼食時、キュロス様の椅子にだけクッションを置いたり(キュロス様はしばらく空気椅子で耐え、侯爵が腰を浮かした瞬間にクッションを移し替えた。侯爵が腰を落とした瞬間、ブゥー! という恥ずかしい音がした)。
他にも色々、まるで子供のイタズラのような――というか本当にイタズラレベルでしかない何かを、侯爵は延々と続けてきた。
ターゲットになるのは決まってキュロス様。
本気で引っかかればそれなりのダメージになりそうだったけど、キュロス様は持ち前の反射神経でさらっと躱す。さらに、周りにいる人間がみんなキュロス様に注意を払っているため、イタズラが成功することは無かった。それでもまだまだ繰り返される……。
そんな様子をはたで見ながら、わたしはうすうす、侯爵の狙いを感じ取っていた。
だけどそんなことって、いやまさか……。
わたしはあたりを見回し、視界にルイフォン様の姿を発見した。彼は常にキュロス様の近くにいて、親友の身に危険が及ばないよう、ダリオ侯爵を見張っていてくれているのだ。
わたしはルイフォン様の袖をチョイと引き、身を屈めた彼に、そっと耳打ちした。
「あの、わたしずっと、侯爵の目的を考えていたんですけど……もしかしてこのイタズラ、もといイヤガラセで、キュロス様をイビっているつもりなのでは?」
「……どうかなあ」
そんなわけないだろ、と笑われることも覚悟して話しかけたけど、ルイフォン様は難しい顔をして唸った。
「僕も、心理攻撃っていうのは警戒していたんだ。案外それも馬鹿に出来ない。キュロス君に強いストレスを与えることで、心を病んだり、公爵位を辞職させようとしているとか」
「ですよね。わたしもそれを疑ったんです、でもそれにしては……」
「……うん、だよねえ」
「ですよねえ……」
だってキュロス様、大人なんだもの。それもディルツ王国でもトップクラスの上級貴族、やんごとなき身分の殿方だ、そんな彼を権力から引きずり降ろさんとする心理攻撃が、こんなイタズラみたいなものであるはずが――。
「仮にそうだとしたら、キュロス君には効かないよ。だって彼――この僕と十年以上の付き合いだもの」
ルイフォン様が魅力的なウィンクをしてそう言った、その直後。
「おっと手が滑った!」
「おおっと、足が滑った」
侯爵がぶちまけた油の前で、キュロス様が長い足を払う。侯爵は一瞬宙に浮いて、自ら油まみれにした床に墜落していった。
「あああぬるぬるするぅう。ぐ、ぐぬぬっ……次こそは……!」
……。……楽しそうで何よりです。




