飛べ! ワイン樽
それは、巨大な樽だった。
身長の半分くらいありそうな樽に、たっぷり溢れんばかりの赤ワイン。
さっきコーヒーを淹れに行くと言って出たダリオ侯爵が、蓋の開いたワイン樽を抱えて、キュロス様の前で躓いたのだ。
空高く舞う樽、当然零れる中身のワイン、なんという不幸な事故! 赤い液体がキュロス・グラナドの頭上を舞う!
……いや、そんなことあるっ!?
慌てて駆け出そうにも間に合わない。だけど、キュロス様も負けていなかった。
「おおっとぉう!」
――と、雄叫び一線。ティーテーブルを蹴り上げると、宙を舞う樽にぶつけて迎撃する。ワイン入りの樽よりも、テーブルのほうがわずかに重かったらしい、ぶつかり合いに負けた樽は跳ね返り、その軌道を逆戻り――つまり放り投げた者のほうへと飛んで行った。
「ぎゃー!」
頭から赤ワインを被って、侯爵は悲鳴を上げた。
あーあーあーあー…………侯爵の豪華絢爛な貴族服が、ワインでぐっしょり。真っ白だったフリルやボリュームたっぷりのドレープも、取り返しがつかないことに……。
赤い水たまりの中心で茫然としているダリオ侯爵、その目の前で、キュロス様は「やれやれ」と額の汗を拭う。
「いや危ないところだった。良かった良かった。危うく、頭からワインを被るところだった」
「良くない! ワタクシ被ってますが! 完全に頭頂部から爪先に至るまで綺麗にワインにまみれて真っ赤っかでございますが!?」
「俺は無事だ。いや、服には少し跳ねてしまったか。黒い服だから、まあいいけど」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ侯爵の傍で、あくまで飄々としているキュロス様。そんな彼の代わりとばかりに、ルイフォン様がスススッと歩み寄って来た。
優しい微笑みを浮かべながら侯爵のそばに屈み、純白のハンカチーフを差し出しながら、
「災難だったねダリオ殿、さあこれで顔を拭いて」
「あ……ありがとうございます。ハンカチ一枚で収まるような惨事じゃないですけど……」
「ハンカチの弁償なら気にしないで。このマントと比べたらオマケみたいな値段だから」
そう言って、彼はほんの数滴ぶん、赤いシミのついたマントを翻した。それから指折り、何かの数字を数える。
「ええと、このマントは僕が騎士団長就任五年目の記念に仕立てたもので、素材はフラリアの真綿とイプスシルクの混合、ディルツの職人に直接発注したもので。すべて手織りで手縫い、一年がかりで作り上げたんだよね。だからお値段はどうしても嵩んじゃって、だいたいこのくらい……」
侯爵は、ワインの水たまりに顔面から突っ伏していった。
ああ、服だけでなく髪の毛まで……。自業自得だけど……。
「酒の匂いがリサまで届くと良くない、部屋に入ろう」
キュロス様の提案はありがたかった。正直、リサを抱いていなくてもこの酒臭さには辟易する。彼に肩を抱かれながら、わたしはその場を離れることにした。歩きながらちらり振り向くと、ルイフォン様がとっても楽しそうにして、赤ワインで濡れた侯爵の額に「請求書」と書いたメモをペタリと貼り付けていた。ダリオ侯爵はもう反抗することも無く、その場にしゃがみこんだまま、ブツブツと何かを呟いている。
「……くっ……やはり一筋縄では……こうなったらプランBで……」
プラン?
何か不気味な単語が聞こえた気がした。




