謀略リゾートへようこそ!
初夏の午後。
平原よりもはるかに涼しい風が、木々の間をすり抜けて、葉擦れの音楽を奏でている。
森の中にポツンと建った瀟洒な屋敷、そのテラスで、熾烈な戦いが行われていた。十年来の親友にして永遠のライバルでもある二人、キュロス様とルイフォン様。
二人はティーテーブルを挟んで向かい合い、右腕の肘をついて、その手を握り合っていた。両者の手には太い血管が浮き出ている。いわゆる腕相撲の真っ最中である。
「ぐぐっ……んうう……!」
「ふっ、腕力ならまだまだ俺に分があるようだな」
「馬鹿力め……!」
腕相撲対決は、キュロス様のほうが優勢らしい。
一方、彼らの左側、テーブルの余白にはチェス盤が広がっていた。駒が複雑な戦況を描き出している。
「ふ……しかしキュロス君、チェスはまだまだ、僕の足元にも及ばないようだな……」
ルイフォン様がニヤリと笑ってそう言うと、
「ふん……構わん。だが忘れるな、右手の甲がテーブルに着いた瞬間、チェスは中断、勝負は俺の勝ちだからな?」
「逆に、こっちがチェックメイトした瞬間、腕相撲は御終いだぜ。まあ、チェスも腕相撲も僕が勝つけど――ねっ!」
ルイフォン様が一気に力を込め、キュロス様の腕を倒さんとする。しかしキュロス様は、体を少し揺らしただけだった。その気になれば彼はいつでもルイフォン様の腕を倒せそうだったけど、それでチェスの勝負を無かったことにするのも嫌らしい。腕の角度はキープしつつ、チェス盤とを睨みつけ唸っていた。
わたしはそんな二人を眺めながら、ベンチにゆったりと腰掛けて、リサをコチョコチョしていた。場所見知りをしないリサは新鮮な環境にすっかりご機嫌で、初めて見るものに歓声を上げっぱなし。
そばにはウォルフガングがいて、その場にいる全員にお茶を淹れてくれる。ミオが不在の間は、執事の淹れるハーブティーが何よりのご馳走だった。
「どうぞ。こちらはローズヒップを使ったハーブティーでございます」
鮮やかな赤い色が何とも麗しい。
甘い香りで酸味のあるハーブティーを吸いながら、わたしは再び、ティーテーブルで戦う男達をちらりと見た。
「ところで、あのお二人は何をしてらっしゃるのでしょう……?」
「腕相撲とチェスの同時進行対決でございますね」
「なぜ同時に。それぞれの得意分野で公平に、ということならば、一回戦、二回戦と分けてやればいいのでは?」
「男のロマンでございます」
いつも紳士然としたウォルフガングが、言いそうにない台詞を言う。そういうものなの?案外これはディルツ男子全員に通じるものかもしれない。特に貴族令息は、「文武両道」をポリシーにしているしね。両方を制してこそ真の勝利、みたいな。……生粋のディルツ人であるわたしにもわからないけど……まあ、わたしは女なので、わからなくてもいいか。
二人は腕相撲の勝負を繰り広げながら、もう一方の手でチェスの駒を動かし続ける。キュロス様は黒い駒、ルイフォン様は白い駒を持ち、静かな戦いが進行していた。
じっとチェス盤を見つめるルイフォン様。彼の騎士がキュロス様のルークを狙っている。
「さあチェックだ、キュロス君。どうする?」
キュロス様は苦笑いを浮かべ、チェス盤を一瞥する。彼の手は少しずつルイフォンの腕を押し戻しつつあった。
「甘いな……これでどうだ!」
キュロス様の手が黒い駒を動かし、ルイフォン様の騎士を捕獲した。同時に右腕にも力を込めて、ルイフォン様の腕を倒しにかかる。ルイフォン様は額に汗を浮かべながらもこらえた。
「おおっと、これは見事……でも、まだ終わってないぞ!」
こちらも再び力を込め、腕を押し戻そうとする。二人の腕は互いに押し合い、筋肉が緊張する音が聞こえそうなほどだった。
うん、そうね。楽しそうで何よりです。
そんな、楽しく緊迫している景色の横で。
「あのう……サロンに飾る絵画のことなんですけどぉ……」
部屋の入口、扉のそばに立ったままで、ダリオ侯爵が独り言みたいに呟く。一応、体はキュロス様のほうを向いているけど、顔はうつむいたまま。床に向かってぼそぼそと、早口で言っていた。
「アルフレッド様の肖像画は、お若い頃、ローラ夫人との婚姻中に描かれていたものが多いのですが……」
「ああ、もちろん展示してくれ」
ポーンの駒をつまんで、キュロス様が答える。
「ローラ夫人とは明らかに政略結婚とはいえ、情が無かったわけじゃない。三人の娘のためにも、黒歴史扱いするのは不義理というものだ」
「でも、愛人……もといリュー・リュー様やキュロス様がお気を悪くなさらないかと」
「今更。少なくともリュー・リューは、ローラ夫人に敬意を持っていたよ。自分のことを第二妻ではなく側室という立場だと固辞していた。俺もローラ夫人が嫌いではない」
「そ、そうですか。では……絵画は集められ次第、ということで……」
扉口に立ったまま、羊皮紙にペンを走らせメモを取る侯爵。
「えっと、それと……現在公爵邸にある、アルフレッド様の私物は……」
「――チェックメイト!」
侯爵の言葉を遮って、ルイフォン様の涼やかな声が響き渡る。次の瞬間、キュロス様は方向を上げて右腕に力を込めた。バァンッ! と大きな音を立て、ルイフォン様の手がテーブルに叩きつけられる。その勢いでチェス盤が落下し、駒は床に散らばった。
ルイフォン様は「あー!」と声を上げ、立ち上がった。
「今のはずるいぞ! 僕のチェックメイトのほうが先だった、僕の勝ちだ!」
「何を言う、チェックメイトはチェックメイト、王を『取った』わけではないだろう。あそこから逆転できる可能性もあったんだから、腕相撲で確実に勝利した俺の勝ち」
「逆転の可能性だって? そんなの無かっただろ。じゃあ次の手を言ってみろよ」
「忘れてた。いや残念、ついさっきまではちゃんと浮かんでいたんだけどな、大逆転の神の一手を」
「ふざけやがって。断言するけどそんなの無いよ」
「証拠は? 駒はもう全部下に落ちてしまったぞ」
「僕は盤面を全部覚えてるよ、チェックメイトの状態を再現してやるからそこから逆転してみろ、そしたら負けを認めてやる」
「それが正しい、おまえのズルじゃないって証明はどうするんだ?」
「ぐぬぬ……!」
相変わらず仲良く喧嘩をしている。
もともとキュロス様はルイフォン様と遊ぶ時、グラナド城の城主であり大商家の旦那様という殻を一枚脱いだ様子になる。だけど今日はさらにもう一段階、童心に帰っているのだった。王都からも離れた場所で、ゆっくり遊ぶのは久しぶなんだろうな。
「いやー思いのほか平和で、むしろちょうどいい息抜きになってよかったですね。最近旦那様、お悩みが多いようでしたしぃ」
と、のんびりした声でいうのはチュニカ……彼女はひとつしかないハンモックにゆったりと寝転がって、誰よりもくつろいでいた。何の役にも立っていないようだけど、それでも人の眼、存在は、キュロス様を守る壁になる。
そう――わたし達はそうしてキュロス様の周りを取り囲むようにして、常に公爵を警戒していた。
そんな空間に、ダリオ侯爵はまだ困惑しているようだった。
「あの……ワタクシ、コーヒーを淹れて参りますね。皆様のぶんも……」
そんなことを言いながら、テラスルームから退出していく。その背中に、「これからどうしよう」という懊悩が見えた。
侯爵はすっかり牙を抜かれた虎、もはや借りてきた猫のようになっていた。
最大の防御壁となっていたのは、やはりディルツ王国第三王子にして騎士団長、ルイフォン・サンダルキア・ディルツ。
彼は親友であり同性で、アルフレッド・グラナドと縁がある者として、常にキュロス様のそばに居た。
新公爵となったキュロス様だけならまだ、年上の親族という縁で許された言動も、王子様相手にそうはいかない。二人の会話を遮るわけにいかず、なすすべもなく立ち尽くしていた。まさに、こちらの作戦通りに。
前回――アルフレッド公爵の喪中にあった、あの事変。
ダリオ侯爵の狙いは、結局よくわからないままだった。
彼はその日、エラ・フックスという女性を、グラナド城に無理やり連れ込んだ。彼女はダリオ侯爵の義理の姪。姉の夫、フックス侯爵が前妻との間に作った娘で、フックス侯爵はアルフレッド公爵と友人だった。
そんな関係性の女性をグラナド城に連れ込んで、それでどうなったかというと、ただただ引っ掻き回されただけだった。ひどく陰鬱な雰囲気を持つ彼女は、悪気があるのかないのかわからないけれど、とにかくグラナド城の住人達を不快にさせた。特にわたしは、赤ん坊の世話で追い詰められていたのもあって、思いっきり彼女の闇を浴びてしまった。あんなにも強く他人を憎み、嫌いだと思ったのは、初めてだった。
ミオやリュー・リュー夫人の助けが無ければ、わたしとキュロス様との仲にも何らかのヒビが入っていたかもしれない。対外的には静かな、だけど抗いようのない大きなうねりが、グラナド城という大船を揺るがしていた。
……だけど、それだけだ。それでダリオ侯爵になんの利益が及ぶのか、彼はなにをしたかったのかは、はっきりしていない。キュロス様が新公爵となって大きな権利を手にするのを阻止したい、のだろう、たぶん。でも、まだそこまでだった。
だからこの別荘地への招待も、戦々恐々としていたのだけど。
あの美女五人組をけしかけられたことで、それも大体、把握できた。ダリオ侯爵の策略とは、要するにキュロス様の誘惑。いや籠絡と言うべきだろうか。自分の配下にある女性をあてがうことらしい。思えばあのエラも、そういうつもりでキュロス様に近付けたのだろう。
その先の真実の狙いまではまだわからない。だけどとりあえず、そのために侯爵が取る作戦がキュロス様の誘惑だけならば……。
「本当に良かった。こんな『罠』なら、いくら仕掛けられたって平気だわ。キュロス様も、ルイフォン様と遊べて楽しそうだし」
呟いたのは独り言のつもりだったけど、すぐそばにいたウォルフガングにはバッチリ聞かれてしまっていた。彼はふふふっと笑い声を漏らしてから、少しだけ困ったように、白い眉を斜めに垂らした。
「しかしあんまり、ダリオ様を無視し続けるわけにはいきますまい。表向きはアルフレッド様のご功績を讃える博物館の建設、その打ち合わせのために呼ばれたわけですからな」
「ああ、そうね、確かに……」
「実現させる気持ちがあるのか怪しいところですけども。現場を見に行った、トマス君の報告待ちですね」
トマスは今、侯爵から聞き出した地理を頼りに、森の奥へと探索しにいってくれている。侯爵の話によると、そこにはこの別荘よりもはるかに大きく、立派な古城があるらしい。そこを近々整備しつつ、アルフレッド様ゆかりのアイテムを集め、展示会場にするという話だ。彼がどこまで本気でそれを実現するつもりなのか、現場を観ればある程度は読み取れるだろう。
「とりあえずトマス君が帰ってくるまでは、のんびりリゾートを楽しむのもアリだと思います」
ニッコリ笑って、ウォルフガングはそう言った。
「マリー様も旦那様も、御成婚以来なかなかゆっくりと時間を過ごせておられないでしょう?」
「たしかに。王太子様から婚姻の邪魔が入って、わたし達は海外に出ることになって……」
ここ一年ほどの動きを思い出し、溜息を吐く。
あの事件でバタバタと姉が結婚し、わたし達は入れ違うように海に出た。イプサンドロスまでの道中、立ち寄ったルハーブ島でひと悶着、イプサンドロスに着いてからももうひと悶着。やっと無事に式を挙げたものの、すぐに妊娠が発覚。わたし達は赤ちゃんありきの暮らしになった。異国の地で悪阻と格闘し、どうにか出産。気候のいいうちにと船に乗り、大急ぎでディルツに帰国。それからは育児に振り回されっぱなしだった。
そしてアルフレッド・グラナドの逝去……ダリオ侯爵とエラの襲撃。
こんなにも静かな環境で、ゆっくり家族と過ごすのは確かにずいぶん久しぶりだった。
「このまま、こんな平和な時間が続けばいいのに」
「一応、敵地ですよ、マリー様」
そ、そうだった。ウォルフガングに笑われ赤面する。
ちょっと油断しすぎていたわ。いくら脅威は過ぎたと言っても、侯爵がキュロス様に悪意を持って、なにか仕掛けようとしていたのは事実。わたしは少しのんびりしすぎているわね。
ウォルフガングに警告をされて、気を引き締め直す。
もしもダリオ侯爵がキュロス様に何かしようとしたら、このわたしが身を挺してでも御守りせねば!
と――次の瞬間。
「おおーっとぉお、手が滑ったァ!!」
大きな声と共に、何か巨大な物が宙を舞う。
キュロス様の頭上に、ワイン樽が飛来していた。




