新章 プロローグ
『わたし』は馬車を飛び出した。
グラナド城の門は、いつもなら堅く閉ざされているはずだった。だがなぜか人間一人分だけ開いている。城内へと駆け込む『わたし』。ドレスの裾をつまみ上げ、足を前に、前に。巨大な階段を駆け上ると、そこには重厚な扉がある。そこはあのひとの部屋――!
「キュロス様っ!」
扉の前で『わたし』は叫ぶ。
「キュロス様……! ごめんなさい。わたしが弱いから、あなたに負担ばかりをかけてしまって。わたしはその罪悪感から逃げてしまった。それがあなたを傷つけていたのだと、今やっとわかったの! ごめんなさい! 弱い女で、本当にごめんなさい……!」
赤い髪を振り乱し、精一杯胸を張って、『わたし』は彼の名前を呼ぶ。
「だけどわたし……やっぱり、諦められないっ! 奪われたくない。誰にも渡したくなんかないっ! わたし、強くなります。だから――あなたのすべてを、わたしにください!」
すべて吐き出した途端、『わたし』は力なく舞台に座り込んだ。
「……どうしても……なにをしてでも。あなたが……欲しいの」
やっと吐き出した本音。それに応えるように、扉が開いて……。
『キュロス様』こと、踵付きのブーツで背丈を足し黒髪の鬘を着け、肌を褐色に塗った役者が、『マリー』に抱き着いた。
「マリー! 拙者も、そなたを愛しているでござる!」
その台詞を合図に、壮大なオーケストラが鳴り響く。二人はしばらく抱き合って……やがて手を取り合い、そして、歌いだした。
「すれ違っていたのね、わたし達、ずうっと」
「すべては誤解、そう、悪魔の悪戯でござる――」
どこからともなく表れた『侍従』達も華やかなダンスを始め、舞台は最高潮。そうして一曲歌い終えると、左右から幕が閉ざされた。
どうやらこれで『第二幕』の終了らしい。演目は全四幕あるとのことだから、ちょうど半分……。丸一日がかりの長丁場は、ここでいったん休憩を挟む。そうして観客も役者も、昼食を摂る時間だ。
「――はああああぁ……」
わたしは大きなため息をついて、脱力した。
パチパチパチ、大きな拍手が聞こえる。隣に座っていた、キュロス様だ。わたしは慌てて彼に倣い、拍手を送った。そのあとまた両手で顔面を覆う。
どうしても、その――恥ずかしくて。
その様子に気づいたキュロス様は、わたしの顔をのぞき込んでくる。
「どうしたマリー?」
「己の所業を深く反省しているところです……」
消え入るような声で答えると、キュロス様はけらけら笑った。
「反省するようなことでもないと思うがな。まあ、過去を顧みて思うところがあったなら、いいことだ」
「本当にもう、かえすがえすも申し訳ありません……」
わたしはもう顔を上げることもできない。
だってこの舞台、これでもずいぶん脚色と添削をされていて、綺麗に仕上げられているんだもの。現実はもっとグダグダで格好悪いものだった。当時のことを思い出すと、恥ずかしくて恥ずかしくていたたまれない。そんなわたしを、キュロス様は楽しそうに見つめている。このドタバタグダグダも、キュロス様にとっては楽しい思い出のようだった。
「俺はどちらかというと、『俺』の口調のほうが気になるな。演技は上手い役者だと思うが、妙に畏まっているというか古風というか、語尾が変じゃなかったか?」
「そう言われると、確かに。でも舞台の演技ってこういう、大仰にするものなのでは?」
「そうかなあ? しかしなんだか聞き覚えがある気も」
「それよりキュロス様は平気なのですか? わたしはもう、自分の半生が舞台脚本になっているだけで、なんだか居た堪れなくて。恥じ入ることではないシーンも、顔を上げていられません……」
わたしがそう言うと、キュロス様は大笑いした。
「最初は俺もそうだったかな。でも、勝手に逸話やら美化された肖像画やらが作られて、民衆の娯楽になるのは貴族のサダメ。もう慣れたよ」
そ、そんなものなのね……。
ん? 待って、ということは以前に、『わたし』が登場しない、キュロス様を題材にしたものがあるということ?
それは、観たい……。
と、そんな話をしていると。
「お楽しみいただけているでしょうか?」
穏やかな、だけどものすごくよく通る声が掛けられた。この劇場の支配人である。歩くたびに全身がゆさゆさするような体格だけど、現役の役者でもあり、剣を使った殺陣もこなすそうだ。実はこの舞台、『ずたぼろ赤姫ものがたり』の出演者でもある――なんと悪役、グレゴール・シャデラン男爵役で。
汗でドーランが溶けかけているのを拭き拭き、舞台の感想を求める。その顔は自信満々、誉め言葉以外は想定していない満面の笑み。わたしは彼の期待に応える。
「素晴らしいです。台本があるなんて信じられないくらい、演技に胸を衝かれました。声も、こんなに大きなホールでしっかりセリフが聞き取れるなんて驚きました」
そう、主人公が自分であるということを抜きにして、客観的に、舞台は本当に素晴らしかった。わたしが見たことある舞台といえば、村祭りで有志の芝居くらいで、ミュージカルなんて生まれて初めて。
ましてや赤ん坊がいる身で、こんなに厳粛な場に出られるなんて思っても見なかった。
生後八か月になる娘、エリーザベトは今、すぐそばの籠でぐっすりとお昼寝中だ。
支配人は目じりをクシャクシャにし、「お褒めいただきありがとうございます」と笑った。
「しかしまだまだ、本番はもっと盛り上がりますよ。今日はお二人のためだけのプレミアショー、それもお嬢様のお昼寝を邪魔しないよう、演奏は控えめにしているのですから」
「本当に……こんな贅沢な席にご招待いただき、これ以上ない幸いです」
「なんの、マリー様あっての脚本ですからね! 床に膝を付けて礼を言うのはこちらのほうですとも!」
『グレゴール・シャデラン』に笑顔で言われて、わたしはなんだか複雑な気持ちになった。
キュロス様も微笑み、頷いた。
「よく出来ているよ。脚本も現実の再限度が高い。……『俺』の口調がちょっと気になるが」
「ああそれは、脚本家の指定ですね。ディルツ語に翻訳する時も、こういう話し方であるようにと明確に指示が。なにやらコダワリのポイントのようでした」
「……まあ、いいけど」
「当劇場としましても、この演目には力を入れているんです。好評であれば毎年の常時公演にしようかと」
やっぱりニコニコ上機嫌で言う支配人。えっ……それはディルツ国中に『わたし』の半生が……というよりわたし自身の恥ずかしい言動が晒されるということで……。
ううう。貴族って……恥ずかしい。
「さて、第三部からは『アナスタジア・シャデラン』も生まれ変わった姿で現れて、いよいよ盛り上がっていきますよ。マリー様もグラナド伯爵もごゆっくり――ッと、失礼。もう公爵様であられましたね」
訂正した支配人に、キュロス様は首を振って見せた。
「公爵家を継いだからといって、俺個人の称号を返上したわけではないのだから、伯爵でも間違いではないよ。呼びやすいほうで呼んでくれ」
「いやはや申し訳ない。この舞台が仕上がるまでの一年間、役者を相手に『グラナド伯爵』と呼びかけ続けていたもので、つい……」
「去年、オラクルで何度か上演したのだろう? その時はまだ父は存命だったしな」
「ええ、おっしゃる通りで。……アルフレッド・グラナド公爵様には大変お世話になりました」
支配人は豊かな眉毛を斜めに垂らし、心底悲しそうな顔になった。
「キュロス様がお生まれになるより以前から、当劇場にはたびたび観覧に来られました。お体を壊されてからは劇場の修繕や新米役者の生活のため、多額の寄付まで頂戴し……今の当劇場があるのは、アルフレッド様のおかげでございます」
キュロス様は黙って、目を細めた。
――故、アルフレッド・グラナド公爵。のちに後妻とするリュー・リュー夫人を見初めたのも、彼女が旅の芸人であった時、その演技を見て声をかけたのだと聞いている。リュー・リュー様は確かにすごい美人だけど、ただ美しいだけなら、アルフレッド様の周囲にいくらでもいたはず。アルフレッド様はきっと、彼女の芸に惚れたのだ。
「父は芸事を愛するひとだった」
キュロス様は独り言のように呟いた。
「正妻のローラと仲違いしたキッカケも、舞台鑑賞に誘った際、『バカバカしい、何の役にも立たない道楽』と一蹴されたからだと聞いている。……息子とその妻の恋愛譚が、こうして舞台になったと知れば……喜ぶだろうな」
――正妻……アルフレッド公爵の前妻、ローラ夫人。
キュロス様の口から、彼女の名を聞いたのは初めてかもしれない。いや彼は実父について語ること自体めったになかった。嫌い合っているわけではなさそうなのに住処を分け、特別な催事以外では顔を合わせていなかった。
キュロス様の出生にまつわる諍いについて、以前ミオから聞かされていた。彼女は現場を観てきたひとだから、事実は事実であるけども、あくまでも彼女の視点。当時のキュロス様の心理は想像でしかない。
今回、舞台の脚本という形でキュロス様の過去を観た。彼はわたしに、「これは創作だ」とは一切言わなかった。真実だと肯定もしなかったけれど。
キュロス様は、わたしに悲しい話を聞かせない。雑談はいつも明るい、わたしを元気にさせるような話ばかりだ。たまに弱音を零しても、「面倒だけど、頑張ってくる」と前向きなことを言って城を出る。過去を語るのも楽しい思い出、学生時代以降の話が多かった。
……キュロス様は、もしかしたらずっと、気に病んでおられるのかもしれない。ローラ夫人の死や家族が壊れたのは、自分の出生によるものだと、気負うものがあるのかもしれない……。
休憩時間が終わり、第三幕が始まる。
舞台の上では長身の『マリー・シャデラン』が、豊かな赤毛を誇らしげに掻き揚げ、胸を張り、自分を虐げてきた両親に鉄槌を下している。『キュロス様』に救われた彼女はもう、ずたぼろなんかじゃない、誰よりも強くなっていた。
『マリー』を観ていると、強く思う。
……わたしも、キュロス様を救いたい。
彼がわたしにそうしてくれたように。わたし達は新しい家族になったのだから。




