【挿話】春の冗談②
固い石床にヒールの音を響かせて、グラナド城を駆け抜ける。ガラスのように美しい靴は、わたしの足にフィットしている。少々走ってもすっぽ抜けて落とすなんてことはない。だけど走るために作られた靴ではないので、全力疾走までは出来ない。それでも精一杯走っていると、だんだん踵や爪先が痛くなってくる。それでも構わず走った。
この機会を逃しては、また一年間も先になってしまう。あまりにも惜しい。
だって、今日この日だけは嘘をついても許される日――だなんて、面白すぎる。こんなに楽しいイベントを、わたしだけ楽しむなんてもったいないわ。
ミオに騙されて、嘘だったって種明かしをされたとき、わたしは嬉しかった。緊張と緩和っていうのかしら、ドキドキしたぶん、ホッとした時には言い表せないほど可笑しくて、お腹を抱えて笑ってしまった。
フリューリング・シェルツは、楽しい日。
この体験を彼にも味わわせてあげたい。鐘の音が止んでしまうよりも前に、絶対に、一言……!
グラナド 城の正門が見えてきた。正午の鐘は――あと三回!
門の前に、黒鉄の馬車が停まっている。
ここグラナド城の主、キュロス・グラナドは背が高い。身長相応に長い足が、車体から出てきて地面に降りる。両足が出てくるより前に、わたしはどうにか間に合った。ほとんど体当たりみたいに彼の体に抱き着いて、叫ぶ。
「キュロス様! わたし、わたし――」
「マリー? ただい――」
カラーン……。
キュロス様の言葉が鐘の音に搔き消される。ああっ、もう正午の鐘が鳴り終えてしまう…!
「キュロス様――わたし、わたしっ、あなたの――」
と――ここまで言ったところで、鐘の音が止んでしまった。
……正午になってしまった!
もう……嘘はつけない。だけど言い出した言葉を途中で止めることは出来なくて。
「――あなたのことを、愛しています!!」
――わたしは、ただ……なんら嘘偽りのない真実を、そのまま口にしたのだった。
キュロス様は、その場でしばらく棒立ち。緑色の目を点にして、力なく呟く。
「………………はい? …………はい」
突然の愛の告白。それは突拍子もない嘘をつくよりもなお、キュロス様を驚かせたようだった。
目を白黒させながら、無意味にあたりをキョロキョロする。
ちょうど門前にいた、門番のトマスと目が合った。キュロス様の視線を受けて、トマスは肩を竦める。
「今日のマリー様は、なんだか謎の遊びをなさっているようですよ。さっき僕も引っかかりました」
「謎の遊び?」
「嘘を吐いて人を騙すっていう。なんだかよくわからないですけど、ディルツ貴族の遊びじゃないんですか?」
ルハーブ島出身の平民、トマスの言葉に、キュロス様は首を傾げた。
……あれ?
わたしは慌てて、キュロス様を見上げた。
「あ……あの、フリューリング・シェルツです。年に一度、嘘を吐いてもいい日っていう」
「………………フリューリング・シェルツ?」
あ、あれええっ?
な、なんで? キュロス様、フリューリング・シェルツのこと知らないの!?
「何だかわからないが、嘘……ということはマリー、さっきの、俺のことを愛しているというのは嘘だと……」
「ちっ違います違います! あれは本当! 午前中だけしか嘘をついてはいけなかったのに、寸前で正午になってしまったから仕方なく――」
――と。
ガラーン、ガラーン、ガラーン……。
遠く――城の外から届いた鐘の音。あ……あれ? なんでまた、正午の鐘が……?
ぽかんとしているわたしの肩に、キュロス様がポンと手を置く。
「さっきの鐘は教会の刻鐘ではなく、俺が帰還したことを従者たちに告げる、グラナド城の鐘だよ。もう何度も聴いたことあるだろう」
「あ――ああっ! そ、そうだったのね……!」
た、確かに、いつも聞いている音とは違うような気が一瞬だけしたわ。だけど大慌てだったから、早とちりしてしまった。わたしったらうっかり、午前中に本当のことを言ってしまったのね。
「ごめんなさいキュロス様、だけど別に、フリューリング・シェルツだからって嘘しかついてはいけないというわけではないですよね? あの、先ほども言った通り、あなたへの愛は真実ですから」
「うん、まあ、別にそれは疑っていないけど。さっきからいったい何の話なんだか」
「あの、本当にキュロス様はご存じないのですか? フリューリング・シェルツって、ディルツの王都では一般的に定着している文化だって聞いたのだけど……海外から来たトマスはともかく、キュロス様が知らないなんて」
言いながら、そう言えばウォルフガングも微妙な反応をしていたことを思い出す。
キュロス様とウォルフガングの二人ともが知らないならば、ミオの言った、ディルツで広く親しまれているというのは誤りだろう。
……っていことは……あれもミオの嘘だった!? 『嘘を吐いていい日』なんてこの世に存在しなかったってこと!? 酷いわ、すっかり騙されてしまった。フリューリング・シェルツと言う存在自体が無かったとは、ひどい嘘。いくらフリューリング・シェルツだからって許されない――…………ん? あれ?
ああもうなにがなんだかわからなくなってきたっ!
頭を抱えて混乱しているわたしに、キュロス様は、フフッと笑った。
美しい、エメラルドのような緑の瞳がキラリと輝く。
「マリー。そのフリューリング・シェルツというイベントは、嘘を吐いていいのは午前だけ。午後からは許されない――そうだな?」
「は、はい。一応……ミオはそう言ってました」
「午後になった今、マリーはもう嘘を吐くことができない。真実しか口にしてはいけないと」
「ええ……そうですね。もともと、イベントでもなければわたしは――」
と、言いかけたわたしの唇を指で押さえて、キュロス様はニヤリと笑った。心の底から、楽しそうに。そしてわたしの顎を掴み、クイと持ち上げる。そうして自分と視線を合わせさせて、囁いた。
「ではマリー、俺の質問に誠実に答えてもらおうか。 ――俺のことを愛してる?」
「えっ。……あの………はい」
「はいじゃなくて。ちゃんと言葉にして」
……え……えっと。
改めて、そういう風に迫られると……なんだかものすごく照れるというか。口にしにくいのですけども……!
「…………あ……あいし、て、ます」
「どういうところが、どんなふうに、どのくらい?」
えええええっ……とぉおお。
真っ赤になって黙り込んでしまったわたしに、キュロス様はウインクをした。
「未遂とはいえ 俺を騙そうとした罰」
あううううううう。
「…………えっと……ええと。や……優しくて……」
「うんうん」
「見た目も、か、かっこいい……です。あの……」
「他には」
「……えっ、と。家族を大切にされていて、部下思いで、真面目で、働き者で……。それで」
「それで?」
「わ、わたしのことも大切にしてくださるし……あの……いい人だなって思ってます」
「そうかそうか」
キュロス様はニコニコしながら頷いていた。
ほっ、これでそろそろ許されたかしら……と逃げようとしたところで、今度は腰をぐいっと掴んで抱き寄せられる。胸がくっつくほど密着しながら、キュロス様はさらに追及して来た。
「では逆に、不満なところは? 俺にしてほしいことや、直してほしいことは」
「えっ、あ、ありませんそんなもの!」
わたしは首をブンブン振って即答した。しかしほんのわずかに瞳が動いたのを、キュロス様は見逃さなかった。わたしの脇腹を、猫でもあやすように指でくすぐりながら、低く甘い声で囁いてくる。
「嘘をついてはダメだと言ったろう、マリー。本当はもっとあるはずだ。この機会に ちゃんと言え」
「そ、んな……」
「大丈夫。なにを言われても、全部飲み込んでやる。嘘も真実も、君の唇から出る言葉なら、俺は全て愛おしい」
わたしはブルブルと震えた。
顔を真っ赤にして、拳を握り、長い時間をかけて……なんとかやっと言葉を絞り出す。
「そういうところっ! そういう、わたしに甘すぎるところっ…… 恥ずかしいセリフを言ってくるところですっ! い、嫌ってわけじゃないけど心臓に悪いので至近距離ではやめてくださいっ!」
わたしが訴えると、キュロス様はハハハと高笑いした。
自分の悪いところを指摘されたのに、気にする様子もなくむしろ上機嫌になってわたしの全身をぎゅうっと抱く。
「だって、仕方がないだろう。俺は真実、マリーが愛おしくて仕方がない。君の前ではいつだって己を偽ることなんかできないんだよ」
胸の中に閉じ込めるみたいな抱擁。それからわたしの唇にキスをする。いつもより少し長く強く、食べられてしまいそうなキスだった。




