悪魔の名前
……それにしても、僕には不思議に思えて仕方がない。
確かにミオ様の作り話はよく出来ていた。証拠のようなものもある。
だがそれにしたって、夫人たちが信じ、納得するには早い気がする。
だって、自分の夫が二十年も前に他所で女を作り、子どもまで作っていたというのだ。揺るがぬ証拠があろうとなかろうと、普通ならもっと強く拒絶し、信じない信じたくないと激昂するものじゃなかろうか。どうして夫人はこんなにも落ち着いているんだろう……?
ぺルラ・フックス夫人は、わずかに青ざめた顔で紅茶を喫い、フゥと息を吐いた。
「……まったく、あの人は女好きは変わりませんね」
そう、諦めたような口調で呟く。
やっぱり、信じて納得している……。
「分かりました。完全に信じたというわけではありませんが、否定する材料もこちらにはございません」
「……ありがとうございます」
「それで? 本日の御用向きは、どういったことでしょう。まさか我ら兄妹に侯爵位と屋敷を継がせろと、殴り込みを掛けにきたとか」
「とんでもありません。私たちはまともに学校にも行っておらず、経営なんてできません。それに、小さいけれど母と暮らした家もあります」
「ではお小遣いですか。そのメダルにある金五十くらいなら、手切れ金にくれてやっても構いません」
「お金も要りません。私たちには働き口があり、裕福ではないにせよ困窮はしていないのですから。ただ……母の魂を慰めたくて……」
とミオ様は貝殻のブレスレットを軽く鳴らした
「母は、父と共に暮らせることをずっと夢見て死んでいきました。夫人、どうかお願いします。このブレスレットを、父の部屋に置かせてもらえませんか?」
「それを……夫の部屋に?」
「墓に入れてくれとか、飾ってくれなんて言いません。机の引き出しにでも――物置の隅でも構いません。この家に、母の物を置いてあげてほしいのです」
「えっ、それはちょっと気持ち悪い……」
と、壁際の子どもの誰かが呟いたが、長女に「おだまり!」と叱責されて黙った。
「あたしのママだって、このひとと同じような立場だったのよ! ぬくぬくお屋敷で暮らしてるあたし達が文句言っていい身分じゃないでしょ!」
「おやめなさい」
激昂した姉妹を窘めると、夫人はもう一度嘆息し、それから微笑みを浮かべた。
こちらに向かって手を差しだして、
「よござんす。そんなことであなた達兄妹と御母堂の魂が鎮まるならば、承りましょう。そのブレスレット、こちらで責任もってお預かりします」
「ありがとうございます。ですが、すみません、この場でお渡しして終わり、というわけには……その。夫人を信用しないわけではないのですが……」
「ああ、そうですね。普通の妻ならば、あなた達が家を出てすぐ、暖炉に投げ入れるでしょうね」
「……ごめんなさい。あの、本当に短い時間だけ……私たちが帰るまでの短い時間だけでいいので……どうか……」
ミオ様はブレスレットをキュッと握って、絞り出すような声を漏らす。夫人はそんな彼女を見つめ、立ち上がった。
「では、夫の部屋へ案内しましょう。あなたたち自らの手で、机の上にでも飾ればよろしい」
そう言って、自分の家族を部屋に置き去りにして、スタスタと廊下へ歩み出る。むしろ僕とミオ様の方が出遅れて、慌てて夫人の後を追いかけた。ミオ様も、演技かもしれないが慌てた声で叫んだ。
「あのっ、いいんですか、私たちのことそんなに簡単に信じて」
「信じたわけではありませんよ。ですが、その程度の願いなら聞いてあげようと思っただけです。大金や爵位をよこせと言われたら、さすがに追い出しました」
「でも――自分以外の女性と、そんな」
「二十年前ならば、わたくしはまだ夫と結婚していません。そして私自身、夫を責められる身でもありません。当時は二人とも、他に伴侶がいたのですから」
僕たちに背中を向けたまま、夫人はさらりとそう言った。
「わたくしは、あなた達以上に、夫のことを信用しておりません。……あのひとは、本当に気さくで明るく、面白くて、魅力的な男でした。人間が大好きで、いつもたくさんのひとに愛されていました。あの人にとって女とは、そういった集団のヒトカケラにすぎなかったのです。あなたがたの御母堂も、このわたくしもね」
……僕たちは何とも言えなくて、ただ顔を伏せ、夫人の後をついていった。
故エルヴィン・フックス侯爵の私室は、やはり想像よりは質素で、シンプルな部屋だった。上級貴族らしい高価な調度品はごくわずかで、どちらかといえば商人らしい、天秤や拡大鏡、商売関係の書物などが目立って見える。色んな人からの土産物らしい、嗜好がバラバラの置物がキャビネット上に並んでいる。個人が人好きで、交流関係の広い人間だと感じられた。
「どこに置きますか? どうせならば壁の一番目立つところに、掛けて飾ってもよろしくてよ」
「……そうですね……どこに置けば、母が一番喜ぶでしょうか……」
ミオ様はぐるりと部屋を一周し、あちこちを注視した。僕にはわかる、彼女は何かを探しているのだと。夫人はクスッと笑った。
「雑多で、贅沢な部屋ではないでしょう? 貴族という商売は世間で思われているほど儲かってはいないのです」
その声にはなんとなく、棘のようなものを感じた。僕は思わず飛び上がって、要らない弁明をしてしまう。
「あ、あの僕たち本当に財産狙いとかじゃないですよっ!」
「ああ、そういうつもりで言ったのではありません。失礼」
夫人は意外にも柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「ただわたくしが、夫の財産目当てで略奪したなんて思われたなら、心外で。ちょっと、言い訳してみたくなったのです」
「……失礼。ご夫人……もしかしてエルヴィン侯爵の亡きあと、公務や商売を回していたのは、ご夫人で……?」
「ええ、その通り」
ミオ様の問いかけに、夫人は胸を張って即答した。
「――そもそも夫とのなれそめは二十五年も前、彼の稼業であった毛皮製品を、わたくしがアンバサダーとなっている婦人会に卸したことがきっかけです。わたくしもともと、社交界ではちょっとした顔役でしたの。夫の力なんてなくても、わたくしはお金に困ったことなどありません――」
「へーっ。じゃあ侯爵の亡くなったあとは、夫人の力で家族を養ってこられたんですね」
思わず、普通に感心の声を上げる。僕はその時、何にも考えていなかった。というより、よくわかっていなかった。ただ僕の生まれ故郷、南国ルハーブには毛皮産業なんてものはなく、どうやって儲けるのか見当もつかない。それで成功したという夫人を、素直にすごいなと思って、そう口にしただけだった。
だがそんな僕の反応は、夫人に予期せぬ衝撃を与えたらしい。ハッと息を呑むと、目を見開いて僕を見つめた。さっきの僕と同じくらい震える声で、呟く。
「そう……そうなの。そうなのよ……」
「じゃあ、侯爵様とも恋愛結婚だったんですね」
「……ええ、そう……そうだったの。でも、多くの人はそう思ってくれない。それがもううんざりだったので……」
夫人は、急に緊張が解けたようにふわりと微笑んだ。
「ありがとう。そう言ってもらえてうれしいわ」
もともと整った顔立ちだったのが、優しい微笑みを浮かべると、花のように美しかった。可愛らしくすら見えてくる。
なんだ? 僕の今の言葉の、何が夫人の琴線に触れたんだろう。混乱していると、後ろからポンと背中を叩かれた。ミオ様が、僕にしか聞こえない声でぼそりと呟く。
「お手柄ですトマス。あとで茹で卵を贈ります」
何それ?
ミオ様は僕にはもう目もくれず、夫人の傍に近づき、そっと心配そうに顔を覗き込んだ。
「――ご夫人、誰かがあなたのことを金目当てで、正妻から男を奪ったなどと、酷いことを言う人間がいたのですか?」
「ああ……ごめんなさいわたくし……ええ、とても身近にね」
夫人は怯えたように顔を曇らせ、眉間にしわを寄せ、震えていた。
「……前夫は、わたくしと娘たちをさんざん虐げておきながら、いざ逃げ出したら野獣のような声を上げ、この館にまで乗り込んできた。匿ってくれたエルヴィンを殴り、わたくしを罵って……エルヴィンがどうにか追い出してくれたけれど、その後は街を練り歩き、ペルラは淫売の泥棒猫だと喧伝したの」
「そんな――お可哀想に。そんなことがあったのならば、エルヴィン様に惹かれても仕方がないことですね」
ミオ様は夫人の心に寄り添うことで、きっと何か、情報を引き出そうとしているのだろう。もしかしたらうまく取り入って、もう数日、ここに滞在できるよう狙っているのかもしれない。僕は黙って二人のやりとりを聞いていた。
「わたくしの真実を理解してくれたのは、夫と娘二人だけ……」
「それはそれは、さぞお辛い日々だったでしょう」
「ええ、だけど本当に辛かったのは、街の人々の白い目ではないの。夫の連れ子――わたくし達よりも先に、この屋敷にいた子の目が、誰よりも……」
夫の連れ子?
というと、エルヴィン侯爵とその前妻の間に生まれた女の子か。確かに書類にもそういう記載があった気がする。上級貴族の家督は基本的に女児が継ぐことはできないし、政治や商売にかかわった記録もないので、名前も書かれていなかった。
ペルラ夫人は後妻とはいえ、正式にエルヴィン侯爵の妻になっている。前妻の子など、それほど気にする地位ではないはずだけど……。
「あの子は、母親を亡くしてから六年間、孤独に生きてきたの。父親は仕事が忙しいと嘘を吐き、他の女――わたくしの家に入り浸っていたから。それが後ろめたくて、わたくしはあの子に媚を売った。だけどあの子はそんなわたくしを、汚いものでも見るような目で睨んでいた。わたくしが作った料理には手をつけず……買ってあげた服も、封すら開けなかった。当てつけみたいに自分で料理を作り、古着を縫い合わせて繕って。後妻よりも、わずか十歳の自分のほうが良く出来ると言わんばかりに率先して家事をして、夫に見せつけたの」
「それって夫人が、義理の娘に嫁いびりをされていたということですか?」
僕が言うと、夫人は驚いたように目を丸くした。それから長い時間考え込んで、ふっと微笑んだ。
「そう……ね。そうかもしれない。だけど夫も、それを理解してくれなかった。前妻との子をいじめる、意地悪な継母だと思われてしまった。わたくしは、あの子を大切にしようとしたの。だけど構えば構うほど、継子いじめと思われる。距離を置けば、実子と差別して意地悪だと思われる……八方塞がりの中で、支えてくれたのは娘だけだった。男たちはみんなあの子の味方――」
そこまで言って、夫人は急にワアッと泣き出した。顔面を両手で覆い、しゃくりあげるほどの泣き声で、夫人は叫んだ。
「わたくしが悪いの! 前夫から逃げるために、あの子の母から夫を奪ったのだから。あの子はわたくしを恨んでも仕方がなかった、だけどあの子は決して、わたくしを罵ったりはしなかった!」
顔を覆った指の隙間から、しずくが零れ落ちるほどに泣きじゃくって。
夫人はそれでも、継子を庇う。
「あの子は可哀想な子――そのうち夫もあの子を疎むようになって、家に居着かなくなってしまった。悪い子じゃないの。きっと不器用で、人とうまく関わることができなかっただけ。あの子なりに、自分に出来ることをやってくれただけなのよ。それなのにわたくしは、継母への当てつけだとか、娘婿を懐柔しようとしているだとか、嫌なことばっかり考えてっ……あの子と仲良くすることが、最後の最後までできなかった。わたくしは、あの子の母親なのに……!」
とうとう床に突っ伏して、声を上げて泣き出した夫人。
僕とミオ様は、しばらく無言で、老婦人を見下ろしていた。
――僕は、この夫人に対し、完全に同情はしていなかった。
なんだかんだ言って、自分も夫がありながら妻子ある男と付き合っていたのは事実だし。今は贅沢な暮らしをしているのも真実だし。前妻の子――当時十歳? の娘と、張り合うなんて、大人げないという気がしたのだ。
だけど……何か引っかかる。
彼女の言葉の中に、何かの既視感があった。
いや、この屋敷に来てからずっと、どこか引っかかるものを感じていたんだ。スフェインとの国境でバイリンガルが当たり前の土地、ダリオ侯爵と縁があり、ソフィア様との縁談を結んだ男。
二人の娘を連れた後妻、八人の子どもたち――。
ミオ様も何かを感じたらしい。泣き崩れる夫人の前に跪くと、慰めるふりをして、表情
をしっかり覗き込む。
「……その娘さんは、今もこの家に?」
夫人はブンブンと首を振った。
「お、弟に……弟の婚家に、人手が足りないからと、呼ばれて。わたくしは、これ幸いと弟に押し付けて……」
可哀想な子。ひとの好意をすべて被害にする女。屋敷に居場所をなくして、ダリオ・アフォンソによって連れ出された少女。まさか……。
「夫人、落ち着いてください。心中お察しいたします。その可哀想な子、母の命日に教会を訪ねた時にはその子の幸福をともに祈っておきましょう」
「ああ、ありがとう、ありがとう……」
「その娘の名前は?」
ミオ様の問いかけに、夫人はやはり激しく鳴きながら、顔も上げずに呟いた。
その、静かなる悪魔の子の名を。
「エラ・フックス」
――と。




