それゆけミオ様
「ここが、エルヴィン・フックス侯爵の邸宅……?」
馬車を降りて、僕はあまり感情の入らない声で呟いた。
それもそのはず、フックス侯爵邸は、その爵位から想像したものよりはるかに小さく、質素なものだった。土地代の高い王都にあれば大豪邸といえるけど、地方であれば、せいぜい裕福な商家くらい。二階建ての木造で、外観から想定できる部屋数は、十あるかどうか、という印象だ。
「まあ、立派というか、綺麗な家ですね」
「そうですね」
やはりミオ様も、心なしか気が抜けたような声で返事をする。
そう、綺麗な佇まいではあった。築百年くらいになろうかという、古い建物なのに、端から端までよく手入れされている。鉄門に錆は無く、通行人の目を楽しませるための花まで飾ってあった。落ち葉一つ無いところから、複数の使用人が常駐しているのも分かる。門扉は間口が広くて、客の出入りの多さを感じさせた。
「フックス侯爵って、この家にずっと住んでたんですかね。なんか侯爵邸としての名残も感じるんですけど」
「どうやら当主亡きあと、一部を取り壊して改装したようです。大きな屋敷を維持するのは大金がかかりますからね」
「なるほど、それでこのサイズ感」
「しかし侯爵としての公務は今でも問題なくこなされているようです。爵位は宙に浮いていますが、領地の治安は安定して、高額な税金もちゃんと払われていますので」
ミオ様がペラペラと書類をめくりながら言う。僕も横から覗き込み、
「公務は奥さんがこなしてるんですかね。でもなんで爵位は継がなかったんだろう。ここ、娘の婿も一緒に暮らしてるって書いてあるのに」
「それを調べるのが今回の目的です」
そう言って、ミオ様はスルスルと三つ編みを解き始めた。その後、鞄から取り出したのはどこか見覚えのある丸眼鏡と帽子。ちなみに今着ている服はいつもの侍女制服ではなく、淡いイエローのワンピースである。
僕は顔をひきつらせた。
「まさかまた、カリナ・バートンに変装するんですか?」
「違います。侯爵邸に潜入するのにカリナと名乗って何になるのです」
確かに、それもそうか。ではどうするというのだろう。ぼんやり見ていると僕をミオ様はチラッと確認して、
「トマスはそのままでいいでしょう。ああそのジャケット、グラナド城で与えられたものですね?それだけは高級感があるので外しておきましょうか」
「あっやっぱり身元を偽りはするんですね……で、今度はなんて名乗って潜入するんです」
「名前はミオとトマスのままで大丈夫です。ただし様付けは無し、私との会話で敬語を使わないように」
「まぁ、いいですけど――結局僕たちは何者のふりをするんです?」
「侯爵の隠し子」
あっさりと言われて、僕はその場に崩れ落ちた。
瀟洒な屋敷。誰もが沈黙する部屋の中に、カチコチと耳障りな時計の音だけが響いている。
長い長い静寂――久しぶりに声を発したのは、僕の隣に座る『少女』、ミオ様だった。
「……突然のことで、信じられないと言われても仕方がないことだと思います。だけど間違いなく、私たちはあなたの夫、エルヴィンが、二十年前に我が母との間に作った子です」
グラナド城の侍従頭、もとい『エルヴィンの隠し子ミオ』がそう言うと、全員の顔が引きつった。
その場にいたのは僕たち『双子の兄妹』と、エルヴィンの家族だった。
僕たちの正面、テーブルを挟んだソファに座っているのが侯爵夫人。年のころは六十歳ほどになるだろう。つり上がった目元でキツい印象は受けるが、若い頃はかなりの美人だったと思わせられる。その夫人を挟む形で腰掛けている女性が二人。どちらが姉でどちらが妹かは知らないが、フックス家の長女と次女。正確には、このぺルラ夫人の連れ子なので、エルヴィンとの血縁関係はないらしい。その背後にそれぞれ、やはり四十歳ぐらいの男性が一人ずつ。彼らが娘婿だろう。ふくよかな婦人の後ろには痩せ型の夫、細身の婦人の後ろには恰幅のいい男性という組み合わせが、ちょっとだけ面白かった。
さらに離れて、扉に張り付くような形で少年少女がずらり。その数八人……おそらく姉妹の産んだ子どもたちだ。一組の夫婦が四人の子を産むのは珍しくないが( 僕も六人兄弟だし)八人も揃うとさすがに壮観だった。
ということで、大人の女三名、男二名、子供八名の大家族――その視線を一斉に浴びながら、ガタガタと震え上がっている僕一人。せめて同じ立場で隣に座るミオ様も、一緒に震えてくれたらいいものを。
出された紅茶を持つ手も震え、テーブルにビチャビチャ零しまくってしまう。さすがに夫人が怪訝な表情で僕を見た。
「そちらの方……」
「兄のトマスです」
「トマス君、酷く震えているようですが、どうかなさったの?」
「ああ、問題ありません。兄は二年ほど前に事故で頭を強く打って、以来手足が震える症状持ちなのです」
「まあ、大変ね」
いや何普通に雑談っぽく一瞬で嘘八百並べてるんだ。無理だ無理だ、絶対に無理だって。
震える僕の隣でミオ様は堂々としたものだった。
「兄のことはお気になさらず。それより、夫人……私の話を信じていただけたでしょうか」
「…………そうね。つまりあなたは夫の隠し子であると、そう言いたいのね」
「はい」
ミオ様は堂々と頷いた。夫人と、その家族たちの目がギラリと光る。ひえええ。
「二十年、名乗り出てこなかった理由は?」
「私たちがそれを知ったのもつい近年のことなのでした。母が病で死に、その遺品の整理をしている時に、これを」
――と、ミオ様が差し出したのは、こぢんまりとした可愛らしいアクセサリー。小さな貝殻を天蚕糸で繋いだ、ブレスレットであった。あれ? これって確か、しばらく前にマリー様が何かのお土産に買ってきたやつじゃなかったっけ。ミオ様も日常、よく着けていたような。
夫人は怪訝な表情のまま、「失礼」と言ってブレスレットをつまみ上げた。手のひらで転がすように確認し、嘆息をしてテーブルに戻す。
「これが何? 大したものではなさそうだけど」
「母とエルヴィン様が出会ったのは、この領の観光街でした。学生だった母は、露天商でこのブレスレットを見つけたものの、手持ちが足りず。諦めかけたその時、声をかけてきた男性が居ました。『それを着けて僕とお茶をしてくれるなら、これをプレゼントするよ』と――」
夫人の眉がピクリと上がる。
「……その男が、我が夫エルヴィンだと?」
「そのようです。その男は自らをルートヴィヒと名乗っていましたが」
また突拍子もない出鱈目を……と思ったが、意外にも夫人はそれで相好を崩した。なにか諦めたように苦笑し、大きく嘆息する。
「確かに、主人はお忍びで街を遊び歩く時、そう名乗っていましたわ。若い頃、同じく身分の高い級友を誘い出すのに、その名を使っていたとか」
まさかの偶然ヒット!? ってことはないか。きっとミオ様は、アルフレッド公爵様との交友関係を調べる過程で、その情報を得ていたのだ。侍女怖い。
「それが縁で、母は男と真剣に恋をし、何度か逢瀬を重ねたと……しかし母が妊娠したと話した直後、男は姿を消しました。――今は結婚できない、けれどいつか迎えに来る、それまで待っていてと言葉を残して」
「ああ……あの男がやりそうなことですわね」
夫人の口調はすっかり投げやりになっている。ミオ様はさらに続けた。
「それでも母は、男の想いを信じ抜き、私たち双子を生み落としました。……大変な苦労をしていたと、思います。産後の体で、幼子を抱えて昼も夜も働いて――時には足元に血だまりを作りながら――それでも私たちには笑って――」
ぐすっ、と洟を啜る詐欺師。あちこちからすすり泣きの声が漏れる。僕は下から漏らしそうだった。
「そんな無理がたたって、母は寝込みがちになり……先日、とうとう命を落としました。最期の最期まで、男を信じて待ち続けていました。このブレスレットは、あの人が私を愛していた証。そしてこれが、父としておまえたちを愛している証明だと」
そう言って、ミオ様はブレスレットの横に何か、金属製のメダルを置いた。
鉄か鉛だろう、やはりさほど高価ではないものだ。夫人はそれもまた手に取り、まじまじと見つめる。
「いよいよ生活に困ったらこれを持って、エルヴィン・フックスを訪ねるように。家のものにこれを見せれば、当座の金はもらえるはず、それで生活してくれと。そう言われていたそうです」
夫人はメダルをひっくり返し、そこに刻まれた文字を読んだ。
「……メアリーに金五十の借用。エルヴィン・フックス……と書かれていますね」
「はい。母は――騙されたふりをしていました。本当は分かっていたんです、ずっと前から。ルートヴィヒ――彼の名はエルヴィン・フックス。男の言うことは何もかも嘘。彼には妻子がいて、自分と結婚することなどないって!」
「ううっ!」
という悲鳴じみたうめき声は、夫人の娘二人が上げた。その後ろにいる婿たちは、どちらも洟を垂らして泣いている。
「最低だぜ義父……! 女を何だと思ってるんだ……!」
「子どもたちも可哀想、ううっ、こんなことって……」
なんか、想像と違う方向で怖くなってきた僕。本当に心から、早く帰りたい。
だってこのメダル、手紙とかだと筆跡でバレてしまうから作った苦肉の策でしょーよ。金属への彫刻なら筆跡なんてわからないし。それだけで十分のはずなのに、トドメとばかりにそんな悲しいエピソードまで付けなくてもいいじゃないか。
ミオ様は、眼の端に浮かんだ涙のような液体を拭った。メダルを慈しむように指先で撫で、ふっと、自嘲の笑みを浮かべる。
「だから母は、父、エルヴィンを訪ねることはありませんでした。ただし私たちが本当に困窮したなら、借金取りのフリをして、フックス邸を訪れるよう言いつけたのです。それが、母の最期の言葉でした」
「……なるほどね」
夫人は、しばらく考え込んでいた。
その間に、ミオ様は出されたお茶を一口啜り、ほうと息を吐く
「……美味しい。なんて美味しいお茶なんでしょう。ねえ、お兄ちゃん」
「え。あ、ああ、そ、そだねミオ……」
「お母さんにも飲ませてあげたかったね。生きているうちに、一度くらい……」
もうやめてーやめてー僕が死ぬ!
いやほんと無理無理無理、無理だってマジで無理。
シャデラン家に潜入した時とはまた違ういたたまれなさでとにかく本当に無理。大体、ミオ様と僕が兄妹ってのがもう無理だ、しかもなんで僕が兄なんだ? ミオ様の方が僕よりも十歳以上年上じゃないのかどうなんだ!?
もうなにも言えずに震え続ける僕を、夫人は心配そうに見上げた。
「お兄さんの後遺症は、言葉にも影響が?」
「はい、そうです。だけどそれは私のせいなんです。母が倒れたあと、お兄ちゃんは一所懸命働いて……それで事故に……」
さらに泣き出すフックス家。僕はもう、好きなようにしてくれという境地になっていた。




