俺は家族を護りたい 【後編】
取り出した書類――『ダリオ・アフォンソ調査報告書』を、膝の上でめくりながら読み上げる。
「――ダリオ・アフォンソ、四十五歳。スフェイン国サンダルキア地方、侯爵領の主。ソフィアとは二十歳の時に婚約、五年後に結婚」
ここまでは俺も知っている、ダリオの略歴だ。しかしこれ以上の情報を、俺はほとんど持っていない。ダリオがソフィアの夫になった時、俺はまだ幼く、二人についてほとんど知らないまま今に至る。
だが長女の縁談で、夫となる男の素性が不明なんてことはありえない。彼の経歴記録が公爵邸のどこかにあると踏み、ミオに探索を頼んでいたのだ。ついでに、噂話の聞き込みも。
「現在は領内に屋敷を構え、妻のソフィアと、十八歳になる長男と同居。領の主な産業は近海漁、果物、観光……わりと豊かな暮らしのようだな」
「はい。ただし領主の経営手腕というよりは、天然の恵みによるもの。近代科学の発展に伴い、一次産業の価値が下がっていく時勢に乗り切れるかが課題といったところでしょう」
「……ん、侯爵位になったのは、ソフィアと結婚してからなのか。生まれた家の爵位は子爵。ソフィアとの縁談を推したのは……ディルツの侯爵、エルヴィン・フックス?」
その名を読み上げてみたが、記憶に引っかからない。おかしいな、俺もディルツの貴族くらいなら頭に入れているはずなのだが。首を傾げている俺に、ウォルフガングが説明してくれた。
「十年前にお亡くなりになった方ですよ。戦時中、毛皮加工産業で軍備に貢献し、国の信用と莫大な資産を得られました。戦後は表舞台には出ず、ゆっくりと資産を消化している感じですね。ただし領地がスフェインとの国境近くゆえ、アルフレッド・グラナドが港町を開墾する際、なにかと相談相手になったと伝わっております」
ウォルフガングは即答した。彼は歴史上の貴族を全員暗記しているのだろうか。俺もミオもそこまでの知識は無いので、素直に感心しながら、彼の言葉を聴いていた。
「すでに故人ではありますが、なかなかの大人物です。公爵令嬢と異国の子爵……とはいえ、彼に持ち掛けられた縁談ならば、アルフレッド公爵も無下にはできなかったでしょうね」
ウォルフガングの言葉を継いで、ミオが報告書を見ながら言った。
「確かに、エルヴィン・フックスが公爵邸に出入りをしていた様子はあったようで。私も旦那様もまだ幼く記憶にない頃、何度となく公爵邸を訪れて、アルフレッド様と酒を酌み交わしていたと、メイド長から証言を得ております」
「……その男と、ダリオとの関係は?」
「エルヴィン・フックスは、ダリオ様の姉、ぺルラ・アフォンソの夫です」
――ダリオの姉婿。思いのほか近い身内だ。
「なるほど。妻の弟……それなら縁談を推しても不思議は無いかな」
「ええ、そうですね。ただし――およそ二十年前、ダリオ様とソフィア様との結婚式……エルヴィンが連れていた妻は、ぺルラではありませんでしたが」
「……ん?」
「そして、新郎親族席に座ったぺルラも、エルヴィン・フックスとは違う男性と、その間に生まれた子を連れておられました。当時、両者ともに、それぞれが、伴侶を持っていたわけです」
……ん? 一瞬、頭の中が混乱する。
それぞれ伴侶と子……つまり二人は再婚同士ということか。報告書に俺も目を通してみると、確かにこの二人、ソフィアの式の五年後に成婚している。
「何が縁になるか分からないもんだな」
と、俺が雑な相槌を打つと、ミオとウォルフガングが共に半眼になった。……視線が「やれやれお坊ちゃんはこれだから」と物語っている。
……ええと?
……ディルツでもスフェインでも、離婚と再婚は禁忌ではない。もしかしたらこの結婚式で二人は恋に落ち、ダリオ姉は夫と別れたのかもしれない。別にそれは悪いことではない――のだが。
となると、時系列がおかしい。エルヴィン・フックスが父上に、ダリオを婿にと推した時、ダリオの姉とはまだ結婚していない。それどころかお互いに伴侶がいた。つまりエルヴィンは当時縁も所縁もない青年を、懇意の公爵の婿にと推したことになる。
……なぜ?
「ちなみに二人の再婚は、フックス夫人が病死した直後。合わせたようにぺルラも夫と別れ、フックス邸へ転がり込んでいます」
俺は天井を見上げて、色々と想像して……。
「な、なるほど。……そうか。ちょっと思ってたのと違う方向にドロドロしてきたな……」
俺は正直な感想を呟いた。
こういうのは、苦手だ。正直報告書の続きを読む気が失せていたが、それをグッと堪えて読み進める。
――エルヴィン・フックスは現在、すでにこの世にいない。十年ほど前、旅先での事故により亡くなっていた。現在、フックス邸には後妻のぺルラ、その連れ子である娘が二人、さらにその娘婿と生まれた子までが一緒に住んでいるらしい。そのうちの誰かに商才があったらしく、エルヴィン不在でも商売や領地経営は順調で、納税に滞りは無し。ダリオとの交流も、特筆すべきことは無いという。
……不自然なところはない。なにも無いのだが……。
「どうしました、旦那様?」
「……いや……なんだろう。何か、引っかかるな……」
俺は顎を押さえて呻いた。
何か、引っかかる。記憶の片隅に……この家族構成が、どこかで聞いたような……。
「エルヴィン・フックス……彼の所業を、もう少し掘ってみたい。ダリオとの繋がりを……そこに、ダリオの企みを明らかに出来るヒントが眠っている気がするんだ」
ウォルフガングは少し悩んでから、恐れながら、と前置きをして進言した。
「旦那様、ダリオ様がよからぬ企みをしているのではと怪しむ気持ちは、僕にも分かります。特にあのエラという乳母。早々に、この城から追い出すべきかと存じます」
「ウォルフガング?」
俺は驚いて、老紳士を見上げた。彼は言うべき時には言う、頼りになる執事だが、こんなに強い言葉を使うのはとても珍しい。ミオとは逆に、いつも穏やかに笑っているような顔の彼は、やはり口元に微笑みは浮かべたまま……青い目を冷たく細めていた。
「あの女性は、不穏です。このウォルフガング、歴史を識る執事として、そして元軍人として、堅牢な城塞が堕ちる時を存じております。最も多くの英雄を殺したのは、豪傑ではなく、美女でございます」
ミオも驚いたようにウォルフガングを見つめ、無言だった。
……ミオはずっと公爵邸にいて、エラとはまだ顔すら合わせていない。判断はウォルフガングと、俺に任せるということだろう。俺はかなり長い時間悩んでから、頷いた。
「わかった。俺も、エラが乳母になってから、日に日にマリーの元気がなくなっていくのを感じていた。前より眠れているはずなのに、まるでこの城に来たばかりのように」
「妻子を護りたいのであれば、ご決断を」
「うん、エラを乳母から外そう。エラにはリサも懐いていて、これから少し楽が出来ると思っていたので、残念だが」
思わず少しだけ弱音が漏れる。ルイフォンからも言われた通り、マリーだけでなく俺も、やはり限界が近かった。徹夜でリサを寝かしつけ、立ったまま意識を飛ばしたことが何度もある。それでもまだ、娘が可愛い。そうして妻子を守る覚悟をしてきたし、何より俺自身が、マリーに楽をさせてやりたいと望んでいる。
今、俺が多忙を極めているのは父上の国葬という公務を控えているからだし、娘の人見知りもそのうち治まる。あと少し、どうにか堪えれば――馬車のシートを安眠仕様に改装しようかな。
そんなことを考えている俺の前に、ミオが歩み出てきた。良いこと思いついた、というふうにポンと手を打って。
「そういえば、ちょうどひとりヒマをして、気分転換も必要な状態の、子育て経験者がおりますね」
――と。
――そうして、ミオはフックス邸を調査するため、再び城を抜け出していった。俺はこの王都で、自分のやるべきことをやっていく。
具体的には、公爵家嫡男、および伯爵位、グラナド商会の経営者としての責務をこなす。同時に、家族との交流も。
「おおっ、もうこんなにいっぱい食べるようになったのか!」
甘芋煮を完食した娘に、俺は歓声を上げる。すると、マリーがクスクス笑う。幸せそうに、明るい声で。
「そうなんです。離乳食って、ただ色んな味に慣れる練習っていうもののはずなのに、リサったらいつもペロッと食べちゃって、おかわりをねだったりして」
「すごいな……どっちの遺伝だ? 俺が赤ん坊のころもこんなだったか、リュー・リュー?」
俺が尋ねると、母はけらけら笑った。
「いやあ、あんたは好きな味しか食べない、結構めんどくさい子だったよ。リサちゃんは人見知りがキツいぶん、食べ物関係はおおらかなんだねえ」
リュー・リューは、リサが食べている最中にもほっぺたをツンツンしている。マリーも俺も、無意識でよくそうしているので、赤ん坊のほっぺたには人の指を吸い寄せる、強い引力があるのかもしれない。
マリーは、からっぽになった離乳食の皿を見つめていた。明るい山吹色の瞳を細め、
「……そう。リサは、いい子だわ」
そう呟いた。
「思えばずっと、そうだった。生まれてから今まで、大きな病気もしなかった。泣き声が大きいのは、身体がよく発達している証拠だわ。……よく寝て、よく食べて、よく泣く……いい子だった」
「マリー」
なんとなく、肩を抱く。するとマリーは素直に頭を傾け、俺にもたれかかって来た。
「キュロス様。赤ちゃんって、可愛いですね」
俺は頷き、妻と娘を抱きしめた。
……俺は、やるべきことやり、守るべきものを守り抜く。今は何よりもそれが大切な仕事だと確信している。
リサが生まれた時から――いや、マリーを城に迎えたその日から。
俺は、俺の家族を幸せにするために、生きていくと決めたんだ。




