ああっミオ様!
ミオは、わたしたちよりも一足先にエラさんの部屋――かつてわたしが使っていた貴賓室へと入って行った。そこでエラさんはリサの面倒を見ているはずだけど……。
先にミオが開いた扉の向こうから、赤ん坊の声がする。
「あぎっ、あんぎゃああぎゃあぎゃあぎゃあああ」
「おーよしよしよしよし」
……泣いているのはリサ。もうひとつの声は……まさか?
わたしは部屋に飛び込んだ。
「リュー・リュー様っ!?」
「あら、マリーさん」
くるりと振り返るリュー・リュー様。
ああ……なんだか彼女ともずいぶん久しぶりに会ったような気がする。日数的にはまだそれほどでもないはずなのにね。
あれは公爵様が亡くなった直後。緑の瞳を泣きはらし、憔悴しきった顔で俯いていた……それが最後に見た姿だったけど、今はわたしが知る、溌溂とした表情に戻っていた。
明るくてマイペースなのも以前通り。けたたましく泣いているリサを、ハイハーイと笑いながら適当にあやしている。
「あっはっはっはっ、よく泣くわねー。赤ん坊は泣くのが仕事、働き者でいい子だわ。さすがキュロスとマリーさんの娘ね」
は、働き者って……?
わたしは半ば呆然としながら、部屋を見渡した。リサがリュー・リュー様の腕の中にいるならば、乳母のエラさんはどこに……と思ったら、彼女はカーテン裏に隠れていた。キュロス様も気づいて、リュー・リュー様の肩をつついて、指を刺す。
「あれ、エラだよな。一体何しているんだ?」
「いやあ、私にもなんだかわかんないんだけどさ。私が部屋を入って、リサを抱かせてって言ったらとたんにすっごい悲鳴をあげて逃げてっちゃったのよ。私ってそんなに怖い顔してるかしら?」
最後の質問はわたしに振られた。わたしは慌ててブンブン首を振る。
「怖くないですリュー・リュー様はお優しいです、そしてお美しいです!」
「あはは、ありがと。なんかねえ、昔からこの手のタイプとはちょっと相性悪いみたい。でもすんなり渡してくれてよかった。私がこの子の母親ですなんて言われたりしたらどうしようかと思ったわ」
コロコロと明るく笑うリュー・リュー様。この会話の間にも、リサはもちろん泣いていた。けれどもリュー・リュー様があまりにも気にしなかったせいか、次第に泣き声が静かになっていく。
「ふぇぁ……?」
と、不思議そうな声を漏らし、祖母の顔をまじまじと見つめていた。
そしてリュー・リュー様の笑顔につられたのか、ニコッと笑顔になったのだ。これにはリュー・リュー様も顔を蕩かせる。
「まあぁーっなんて可愛いんでしょう! ほっぺがぷくぷく、笑うとエクボが出来るのねえ。ベロベロばぁー」
そう言って、お顔を指で思い切り捻りあげる公爵夫人。
絶世の美人が織りなす抜群の変顔に、リサはきょとんとした後、キャハーッと大歓声。手を叩いて笑い始めた。
「おやリサちゃん、いないいないばあが好きなのね? ようしおばあちゃん張り切っちゃうぞ。ほうらあばばばばばば」
ひたすらにテンションが高いリュー・リュー様。そうしてリサを笑い転がしながら、リュー・リュー様は少し、遠い目をした。リサのほうを見つめたまま、わたしに語る。
「ごめんねマリーさん。本当だったら 一番手伝ってあげなきゃいけない時だったのに、私、自分のことで頭がいっぱいになってた」
「……リュー・リュー様」
「旦那が逝って、悲しい寂しいってそればっかりで……。こういうのは姑が出たがらない方がいいって言い訳をして、ほったらかしにしちゃった。ごめんね……」
「と、とんでもないです」
「これからは何でも言ってちょうだい。可愛い孫と、義理娘のためなら何でもするわ」
リュー・リュー様はどんと己の胸元を叩いた。
「そ、そんな、リュー・リュー様だってお辛い時なのに。夜も眠れていないようだって、キュロス様から聞いていました」
「そうそう、どうせ眠れないから孫の夜泣きに付き合うことにしたわけ。それに年寄りは睡眠時間が短いの、若い人と違って代謝が悪いからね、あははははは」
そんなおどけたことを言う。わたしは思わず笑ってしまった。
キュロス様も笑って、母親の腕の中にいる娘の頬を指先でくすぐった。すかさずその指を捕まえて食べようとするリサと格闘しながら、
「突然、無理を言ってすまないな。国葬が済むまでの数週間、夜だけは力を貸してくれ」
「いやいや、渡りに船ってもんよ。マリーさんにも言った通り、私にとっても良い気分転換だもん。……と言っても、私はキュロスを育てるときも侍女や乳母の手を借りまくってたからね。正直そんなたいした子育てなんかできやしない」
「なんなら私も頼られたような気がします」
隣でミオがボソリと言った。リュー・リュー様はやはりけらけら笑って頷いている。
「そんなだから、マリーさんの代わりだとか、実親みたいに子どものしつけなんてする気はない。私ができるのはただ夜の間、この子に危険がないように見守るだけよ。その間、マリーさんとキュロスはしっかり体を休めてやるべきことをやってちょうだい。それで心も体もリフレッシュさせて、昼間しっかり『両親』をやること――いいわね?」
「はいっ、もちろん!」
わたしとキュロス様、ふたりぶんの声が同時に上がった。それから夫婦で顔を見合わせて、同時に吹きだし、頷き合う。それでリュー・リュー様も満足そうにしていた。
そんな話をしている間、エラさんは相変わらずカーテンの裏に隠れたまま、顔すら出さない。時々こちらの様子をカーテン越しに伺う気配だけはする。ミオは構わずつかつかと歩み寄り、いきなりカーテンを開いた。
ひいっと悲鳴を上げてるエラさんに、いつものクールな声で呼びかける。
「というわけです。リサ様の実の祖母であり、公爵夫人であるリュー・リュー様が乳母を名乗り出た以上、あなたの出番はありません。あなたに落ち度はありませんが、ご了承ください」
「は、は、はい……」
「これにより、本日付であなたは乳母の任を解かれ、メイドに戻っていただきます。乳母としての給料は、前払いで受け取っていますね? それは返却しなくて結構。異論はありますか」
「あ、ありません、大丈夫です……」
エラさんは震える声で小さく呟いた。主そっくりの鷹揚さで、ミオは頷く。
「よろしい。ではメイド長に話をつけにいきましょう。よかったら旦那様たちもご一緒に」
そう言われたのでわたしとキュロス様もついていく。並び順は先頭にミオ、その後ろがエラさんで少し離れてわたしとキュロス様。エラさんの後ろ姿は、なんだか処刑台に上がるように囚人のように縮こまっていた。メイド長と話をつけるとは、どうするんだろう?
これはわたしの見立て……想像でしかないんだけれども、エラさんは今まで完全に演技していたわけじゃないと思う。なんならあのオドオドビクビクした性格は、ほとんど地だったんじゃないかな。嫌がらせは自作自演だったとして、メイドたちに嫌われ雰囲気を悪くしたのは真実――つまりエラさん自身にもどうしようもないこと。
他のメイド達も、エラさんを虐めるなと叱ることは出来たとして、好感度には干渉できない。仲良くしてやれと命令し表面上はそうさせても、何も解決はしないのだ。
ミオ、どうするんだろう――。
館を抜けて、白亜の城の方へと入っていく。メイド長のオードリーは、いつものようにランドリールームでメイド達に指示を出していた。人が近づいて来た気配を察すると、すぐに立ち上がって丁寧にお辞儀する。
「ミオ様! お帰りなさいませ」
「お疲れ様です、オードリー。ただいま戻りました。しかしまたすぐ用事で留守にします。その間、このエラをそちらでよろしくお願いします」
そう言って、エラさんを自分の前に押し出す。とたん、メイド達全員が嫌そうな顔をした。いつもは公平で明るいオードリーも顔をしかめる。嫌そうに……というよりは、どうしたものかと本気で困惑しているような表情だ。エラさんとメイド達の間に立って、オードリーはどうにか言葉を選びながら話す。
「……ああ……もちろん、拒否なんかはしませんけどもね……。でもエラは、この職場に向いていないと思うんですよ。技術は問題なくあるんですけども、みんなと一緒に作業、ってのがどうにも……かといってひとりだけ別室で、仕事だけやってろっていうわけにもいかないし」
オードリーが話している途中、誰かがぼそりと呟いた。
「本人がそうしたいって言ったのよ。涙ぐみながら、私は嫌われてるみたいだからって」
オードリーは振り返ったけど、全員が下を向き黙々と作業を続けている。誰が言ったのか分からないなか、さらにまた別の誰かが呟いた。
「そのくせ、仕事を押し付けられたって誤解されるような言い方で、メイド長にニオワセてさ。こっちは部屋に運んであげるぶんだけ手間かかってるんだけど」
「それを虐めてるみたいに言われたら、たまったもんじゃないわ」
その呟きはエラさんの耳にもしっかり届き、彼女はまた涙を浮かべ、ごめんなさいごめんなさいと繰り返していた。オードリーは心底困った顔で肩を竦める。
「……こんな感じなんですよ。ミオ様、あたしの力不足です。もうどうしてやったらいいのかわからなくて」
わたしは胸が痛んだ。
そう……オードリーは何も悪くない。メイド達も、この中に意地悪なひとなんて誰もいない。だからこそ、エラさんと一緒にいるのは辛いんだ。自分が悪役にされてしまうから。
これではメイド達を叱りつけるなんて逆効果だ。本当に一体どうすればいいのだろう?
ミオは一瞥し、状況を正確に理解したようだった。ふむ……呟きながら、ごく短い時間考える。そして、一気に話し始めた。
「確かに、彼女を使うのは難しいようです。そこでこれから、彼女への指示の仕方を指示します」
「指示の仕方?」
「はい。オードリー、あなたは『褒めて伸ばす』という教育方法ですね。それで結構ですので、これからは彼女自身ではなくその技術とやり方について評価をしてあげてください。『あなたは正しい』ではなく『そのやり方は正しい』です。それならば彼女は謙遜せず、胸を張って己を肯定できるでしょう」
――あっ……!
「はあ、それ何が違うんです?」
オードリーは首をかしげたけれど、わたしは思わずウンウン頷いてしまった。
そうそれ! まさにわたしがずたぼろだった時、そうして欲しかったこと!
自己肯定感が低すぎる人間は、ひとからいくら褒められても信じることができないの。嘘、お世辞、皮肉と受け取って、気を使わせてごめんなさいってますます委縮してしまうだけ。だけど行動そのものを評価されたなら、自信を持って頷ける。だってそれは、教科書や先達の見本通りに模倣して、確かに磨いてきた技術。つまりは他人様の力だから。
外見もそう、「あなたは美人だ」なんて信じられない、けれど化粧や髪型、艶やかになった肌やドレスならば喜んで肯定、自慢もできるのよ。「そう、チュニカはすごいでしょう? このドレスはミオが選んでくれたのよ、素敵でしょう?」って。
思えばエラさんもそうだった。家事や育児の能力について語るとき、彼女は自信満々に「お任せください」と言っていた。あなたは悪くないといくら慰めても聞き入れなかったのに。
ミオはさらに続ける。
「叱る時も同様に。エラという人間を否定するのではなく、具体的な行動について窘め、指導をして
ください。あなたは覇気がない元気を出せ、みんなと仲良く上手くやれというような、抽象的な言葉では混乱するだけです。この作業を何分以内に終わらせてくれ、同僚からこう言われたらこうした文言を口にするように、最初に顔を合わせた時にはおはようございます、時間で交代する時はお先に失礼しますという『呪文』を唱える。同僚のみなさんも、彼女がそう口にしたらこれは挨拶をしているのだと理解をしてください。これで十分だ、と」
「……それでなんか、解決するのかいね……?」
またまた首を傾げるオードリーと、さらにウンウンと首がもげそうなほど頷くわたし。そうそうそうなのよ、そんな風に指導してくれたらどれだけ心が楽になるか! ああっミオさすがミオ、わかってる! わかってくれてる……!
「なんでエラ以上にマリーが頷いているんだ?」
横でキュロス様が呟いたけれど、これはきっと、キュロス様には永遠に分からない。キュロス様は本当に優しくて格好良くて世界一素敵なひとだけど、だからこそ、分からないのだ。いやミオだって真実、こんなわたしやエラさんに共感なんかしていないだろう。それでも人間観察と推測で、最適解に辿り着いたのだ。わたしは感動のあまり手を握り、拝んだ。
「さすがは侍従頭、我らがミオ様……!」
「様?」
横でキュロス様が、心底不思議そうに呟いていた。
ミオの指導はまだ続く。
「――あと、エラだけは一人で作業をするという方法について。それで一切問題ないですよ。ちょうどいいことに彼女、仕事は出来ます。オードリーは早朝、エラに任せたい仕事をとりわけておいてください。エラは一日の始まりにそれを取りに来て、仕上げて夕方に『納品』し、終業です。誰も何も、心苦しく思う必要はありません。そういうシステムの雇用条件としますから」
これには、オードリーが少し難色を示した。俯いていたメイド達も顔を上げ、みな眉をひそめている。
「そんな、まるきり仲間外れじゃないですか。それじゃあエラだって寂しいでしょう、ねえ?」
「えっ! ……あ、あの私」
突然自分に質問を振られて、エラさんは硬直する。しかし、
「自己責任です。それが嫌なら自ら顔を出しなさい」
ミオはバッサリと切り捨てた。
「エラ。ここはあなたの職場です。本来、みんな仲良くというのは義務ではありません」
「……は……はい……」
「だからこそ、仲良くできない自分を責める必要もありません。オードリーも、メイドの皆様も同じです。それを見て、あなた達が意地悪をしているなんて誰も思いません。自分でそう思う必要もありません。各々、自分が得意な作業を、自分にとって一番楽なやり方で務め上げればよろしい――それが『分担』というものです」
「……分担……」
わたしの呟きを最後に、ランドリールームがしんと静まり返る。だけどそれは、冷たい沈黙ではなかった。メイド達の表情が緩んでいる。エラさんも、どこかホッとしたような顔をしていた。部下達の表情に、オードリーは驚いていた。そう、オードリーも気負いすぎていたんだわ。みんな仲良く、和気あいあいとしなくてはいけないって。それは理想だけれども、ベストではなかったんだ。わたしも肩の力が抜けていくのを感じた。
毒気を抜かれたようなオードリーに、ミオは釘を刺すのも忘れなかった。しっかりと向き直り、厳しい声で言いつける。
「そして、誰にどの作業をどれだけの量、担当させるか。それを決めるのがメイド長、あなたの仕事です。あなたならば公正に、誰からも文句の出ないような素晴らしい采配をしてくれると信頼しています。よろしくお願いします」
「は――はい! 承知いたしました。ありがとうございます……!」
畏まり、侍従頭に深く深く頭を下げるオードリー。それを見て、ミオは微笑んだ。
それから私とキュロス様の方へ向き直ると、
「では、旦那様。この場は解決したようなので、出かけて参ります。もう大丈夫だと思いますがリュー・リュー様のこともよろしくお願いします」
さらっと、そう言った。
「うん、城のことは全部任せてくれ。気をつけてな」
頷くキュロス様。ミオはわたしに一礼し、それ以上は何も言わず、すたすたとどこかへ歩み去っていく。そうしてキュロス様はすぐに踵を返し、館へと戻ろうと促してきた。彼と並んで歩きながら、わたしはキュロス様に尋ねてみた。
「ミオはどこへ行ったの? リュー・リュー様はこれから館に滞在されるし、国葬の手続きはキュロス様とウォルフが執り行うのでしょう? ミオはゆっくりできるんじゃないの」
「仕事だよ。ミオには別件、頼みごとをしているんだ」
「別の仕事……」
「さっき言ってただろ? 探偵調査はこの後で――と」
そう言って、キュロス様はにっこり笑った。
彼にしては珍しい、なんだかちょっと意地悪な……面白そうなものをこらえるような微笑みだった。




