好きなものも楽しいこともありません
二十人ぶんの椅子が並ぶテーブルに、二段重ねの奇妙なポット。その正面に、婚約したばかりの男女が二人。
それだけしかない空間。どうやって会話を始めればいいのか、わからないまま時間が過ぎる。なにか、なにか話さなくては――焦る気持ちだけで、言葉が出てこない。
話題がないのよ。
好きなことを話せと言われても、思いつかない。
……彼が楽しい話題。彼が好きなものの話。世間知らずなわたしに、彼を楽しませることができるのか?
ぐるぐる思考で目が回る。そんなわたしの耳に、低い声が、ぼそりと届いた。
「悪かったな。良いようにしてやるつもりが、かえって君に気を遣わせてしまった」
淡々としていたけど、苦い物が混じった声。
トッポのことだろうか。わたしは首を振った。
「いいえ、ミオは気兼ねなく選んで、残すようにと何度も言ってくれました。全部美味しくて選べなかった、わたしの食い意地のせいですから」
「……ミオは、ドレスもと言った。他にも何か、心苦しいことがあるんじゃないのか」
「そんな――そんなことはないです。何もかも素敵で、贅沢で、わたしにはもったいないくらい」
「……。では他に足りない物は? なんでも言え。俺は城を留守にしがちだし、女の要り用が分からん」
「とんでもありません。十分以上に……」
「ハンナとイルザは?」
聞こえた名前に、一瞬、びくりと肩が震えた。それでも首を振る。
「――お世話になっています。彼女たちは、たしか王宮に勤めていたって……」
「ああ、マリーのために雇い入れたんだ。王宮に友人のツテがあってな。侍女の中でも忠実な……親切で腰の低い者を流してもらった。君はもう伯爵の妻になるのだし、そうでなくても男爵家の一員だ。姉と同じく、ふさわしい接遇を受けるべきだと思って」
「……。はい。そのようにして頂いてます……」
ふさわしい――ああ、なるほどと腑に落ちた。
あの二人は、本当にそうしていただけなんだわ。誉れ高い王家の主にはそのように。わたしには、わたし相応に。
貴族の称号は名ばかりの、貧しく古い田舎の家。その中でも出来損ないの、要らない娘。
政略結婚でもらわれた家の、借り物だけで着飾った、ハリボテの妻。あの二人はそれを見抜いていたのね。ずたぼろのくせに男爵令嬢と名乗り、伯爵様の厚意に甘えて、この城の住人のような顔をして……身分不相応だって、教えてくれていたんだわ。ああ――その通りだ。
俯くわたしに、キュロス様は苦笑いでため息をついた。
「マリーの『我慢癖』は深刻だな」
「えっ?」
「初めて来た他人の家で、何も我慢していないわけがない。好き嫌いだって、人間なら必ずあるはずなんだ」
「……だって、でも。皆様には本当に、良くして頂いていて……」
「『良くしてくれている』からって、それを喜ばなくてはいけないわけじゃないんだぞ」
何か猛烈な違和感を覚えて、わたしは顔を上げた。
わたしの正面で、緑色の宝石が煌めく。キュロス様の瞳が細められ、瞬いたのだ。
「よかれと思って、ありがた迷惑ってやつだな。愛し合う家族にだってままあることだ。予見して気を配るにも限界がある。それは自分にとって嬉しくない、と、伝えてくれないと分からん」
「……だけど……喜んでもらおうとしたのに、そうでなかったら悲しいわ……」
「そうだな。だけどそれ以上に、相手を悲しませていたということが悲しい。……マリー」
俺は今、悲しい――彼はそう、口にはしなかった。それでも眼差しから伝わってきて、わたしは胸を衝かれた。
「ごめんなさい……」
俯いた視界の外で、彼が嘆息する気配がした。
「なぜ、君を謝らせてしまうのだろう。俺の顔ってそんなに怖いか?」
「ええっ!?」
驚いて思わず、顔を上げる。想像していた表情と違っていた。彼は眉を垂らし、心底困り果てた顔だったのだ。ちっとも怖い顔なんかじゃない、むしろ叱られた子供みたいに、不安げにわたしを見つめていた。
端整な顔立ちとのギャップで、滑稽なくらい。うっかり笑ってしまいそうになり、わたしは慌てて口元を覆った。
「こ、怖くなんてないわ! ごめんなさい、わたしが口癖みたいにごめんなさいって言っちゃう、ああまたごめんなさい。違うの、お気になさらないで」
キュロス様はやっぱり困った顔のまま。わたしは猛烈な悲しみに襲われた。これじゃいけない。
彼の言うとおりだ。自分なりに気を遣ったのに、かえって相手を悲しませていたとき、こんなにも悲しいのね。こんなのイヤだ、同じ思いをキュロス様や、この城のひとたちにさせたくない。
どうすればいい? ――ちゃんと言えば良かった。
なんて言えば良かった? ――大丈夫、平気、我慢できます――それは違った。だけど他の言葉が見つからない。
事実、トッポの料理は美味しかったし、ドレスは全部素敵だった。わたしには好き嫌いがないの。嫌いという感覚、いや、好きなものを選ぶってことがよくわからない。
物心ついた頃から、わたしの前に、『選択肢』はなかった。
あるのは『やらなくてはいけないこと』と『やってはいけないこと』の二つだけ。やるべき仕事をやって、在るものを食べて、与えられた物を着るだけだった。
それで十分だと思ってた。わたしは十分、与えられている子供だと思っていたの。
――違うの?
キュロス様が、じっとわたしを見つめている。優しく、低い声が、さっきと同じことを囁いた。
「足りない物はなんでも言え。マリー。俺が全部与えてやる」
――なにが足りない?
なにかが足りないのはわかる。だけどなにも欲しいものがない。言葉が分からない……きっとそれはわたしの知らないもの。触れたことも見たこともないものだから。
生まれてから一度も――わたしは――……
言葉を無くしてしまったわたしを、キュロス様はそれ以上、追及しなかった。
ポットのほうへ身を乗り出し、蓋を開いて中をうかがう。んー、と剽軽な声を出した。
「まだもうちょっとだなー。これは渋みが出るほどしっかり煮詰めて、手元で薄めてこそなんだ。これじゃあだめだ。もうちょっと、時間を潰さないと美味いお茶にはならないぞ。さあどうしよう」
話題を変えてくれるらしい。わたしの全身から、ふっと力が抜けるのが分かった。この気遣いは、素直にとても嬉しかった。
「楽しいお話がしたいわ」
わたしは言った。キュロス様も、にやりと笑う。椅子に深く座り直すと、腕を組み、わたしを仰いだ。
「いいな。ではそうしよう。何が聞きたい?」
「……え、ええと。ええと」
「じゃあ俺が聞こう。マリーが好きなことを聞きたい。休日には家で何をしていたんだ?」
「ええと――屋根に登って、煙突の煤を掻いたり。それを鶏糞と混ぜて肥料にしたり……」
「……。友達とはどういう遊びを? シャデラン領は、綺麗な河川が豊富にあるな。自然の川遊びってどうやってやるんだ?」
「川は……水車がたくさんあって、シャデラン家はその管理を任されているので。村のひとに呼ばれて、歯車の修繕をしたり、小麦粉挽きの作業員を手配したりしていました」
キュロス様がまた困っている気配がする。あああああ。
わたしは内心、頭を掻きむしりながら必死で話題を探していた。楽しいこと楽しいこと。シャデランでの生活で、楽しかったことを思い出そうとしても、年単位で記憶に浮かんでこない。
「……無理はするなマリー、こういうのは時間がかかる。ゆっくりでいいんだ」
キュロス様の声が聞こえた気がするけども、今はそれどころじゃない。えーっとえーーっと楽しい話、わたしの人生で、楽しかったこと……どんどん年月を遡り、古い記憶を呼び起こしていく。待って嘘でしょ何にもないわ!?
十七歳、十五歳、十二歳、十歳、六歳――アナスタジアが、乳歯のひとつ欠けた口でニカッと笑う。――マリー、マリー、遊びましょ――
わたしはアッと声を上げた。
「――しりとり! キュロス様、しりとりしましょうっ」
そう叫んでから、直後に頭を抱えた。――なんでだ! しりとりって! 相手は二十四歳の公爵令息にして伯爵候、王宮に出入りし異国と貿易し、財を成した大富豪だ。そんなお方との話題に、しりとりって!
案の定、キュロス様はキョトンと目を丸くしていた。
「……しりとり? それって、子供の言葉遊びの?」
そうですそのとおりですごめんなさい。人生まるごとずたぼろなわたしには、それしか思いつかなかったのです。絶望しているわたしの横で、キュロス様は、フム……と顎に手を当てた。
「あれは、語彙の少ない子供だからこそ成立するゲームだろう。それなりに学がある俺たちでは、面白くならないのではないか」
ほんとそれです、失礼しましたごめんなさい……。
「この年で楽しむには、何か工夫が必要だな。一音を使用禁止にするとか、十文字以上の長い単語に限るとか」
……ん?
「ジャンルで縛るのが一番わかりやすいと思うが、俺たちでは、得意分野が偏っているだろう。なにか二人の知識量が釣り合うちょうどいいもの……どうだろう。マリー、どう思う」
えっと……。伯爵様、しりとり、してくださるのですか……?
わたしはぼんやりしたまま、何も浮かばず返事した。
「キュロス様のお好きなもので……」
「好きなものか。いいなそれ、そうしよう」
彼はにっこり笑った。パンッと手を叩いて、早口で述べる。
「『自分の好きなもの』縛りだ。好きなものなら動物でもお菓子でもなんでもいい。真偽は己の正義の心、公正なゲームを楽しもう。じゃあ、俺から行くぞ」
「あっ、はい」
「マリー」
「――普通、Aから始めませんかっ!?」
わたしが喚くと、それもそうだなと頷く婚約者。そしてすぐに、「アップルパイ」と回答した。
ご愛読ありがとうございます。
おかげさまで、ついにブクマ一万、三万ポイントを突破いたしました。ジレったい主人公のスローペースな物語に、粘り強くお付き合い頂き、本当に感謝しかございません。更新がんばります。
ということで今日は二話連続更新します!
 




