甘すぎて泣いてしまいます
わたしは……わたしは本当に力が抜けてしまって。ミオの前でへなへなと、床に崩れ落ちてしまった。その場に膝をついたまま、それでもなんとか、微笑む。
「ご、ごめんなさい、急に大騒ぎしてしまって。あの――もうすぐ立つからね」
「ご無理をなさらず。マリー様はリサ様のお世話で疲れているのでしょうから」
わたしは首を振った。実際、睡眠時間はたっぷり取れているはずだ――なんならこの頃はずっとベッドに寝転がっているくらい。わたしは何にも苦労をしていない。すべて、エラさんのおかげで。
「わたしは平気……それよりミオ、あなたに相談したいことがあるの」
「相談?」
「エラさんがね――あっごめんなさい、ええと、ソフィア様と、ダリオ侯爵様はご存じよね? あちらのメイドが……いやもともとは侍女だったかしら、うちのメイドになって、乳母になったんだけど」
話しているうちにどんどん取っ散らかってくる。おかしい、わたしってこんなに話下手だったかしら? 得意というつもりはないけれど、それにしたってもっとわかりやすく、相手に伝わるように話せていたはずだ。情報を補填しなくてはと焦れば焦るほど、主語が増え文章が捻じれ、時系列もぐちゃぐちゃになっていく。
キュロス様は眉を顰め、「落ち着け」と言い聞かせてくる。やっぱり客観的に変な話し方になっているのだと実感し、ますます話すのが怖くなる。もういい、詳しいことは後回しだ。とにかくエラさんを。
「ミオ、エラさんは可哀想なの。早くなんとかしてあげなくちゃ……でもどうしていいかわからなくて、侍従頭のあなたならどうするか教えてちょうだい。知恵を借りたいの」
ミオは、しばらく無言でじっとわたしを見つめていた。やはり伝わらなかったのかと、再度説明をしようと口を開いたが、手のひらで制止される。彼女は何も促さず、ただじっと……わたしの顔を見ていた。そして、
「なぜ、マリー様が?」
意外なことを聞き返してきた。
「……え?」
「侍従頭の私の知恵だけ借りて、マリー様が、なんとかする。今の言葉はそう聞こえました。合っていますか?」
「え、ええ。そうね。そういうつもりで言ったわ……」
「なぜです? 女主人の命令は、『なんとかしろ、それが侍従頭の仕事だ』でいいのに」
……なぜ?
なぜ……だろう。もともとわたしは、他人に命令をするのが苦手だ。貧しい男爵家では侍女にまでこき使われていたせいか、他人に仕事を言いつける習慣がない。それでも、メイドの仕事はメイド、侍従のことは侍従頭が執り行うと、理解している。
…………そう、理解しているはずだった。なぜ……わたしは、自らエラさんを助けようと、こんなに必死になっているの……?
「マリーはエラに、恩義と罪悪感を感じているのだろう」
キュロス様がぼそりと言った。
「あるいは憐憫か。とにかく、彼女を不幸から掬い上げてやらねばならないと思わされているな」
「思わされて……? ち、違うわエラさんは本当に可哀想な状態なの。グラナド城のみんなから嫌われてしまったみたいで――」
「なるほど、マリー様も彼女のことが嫌いなんですね」
さらっと、あまりにも簡単に、ミオは言った。
わたしは呆然として、その場に立ち尽くした。
…………嫌い?
……わたしがエラさんを、嫌い……なんて。そんな……こと。
わたしは首を振った。
「そんなこと、あるわけないわ。だって彼女、わたしにそっくりだもの……!」
そう――これがきっと、わたしがエラさんに同情している最大の理由。彼女はわたしに似ているのだ。生家での境遇だけではなく、性格、言動が。
ビクビクオドオド、他人と関わることに怯えて、褒められても素直に受け止めることができなくて。助けてもらったら感謝ではなくお詫びをし、相手の気分を損ねてしまう。謙虚なくせに断るのも下手くそで、結果的に無下にして、「余計なお世話だったかな」と相手に罪悪感すら持たせてしまう。そうして自分こそ他人を傷つけていく。
最低、最悪、本当に可愛くない――嫌な人間。それがエラさん……いや、わたしだ。
わたしは、わたしが嫌いだった。だから救いたかった。エラさんを笑顔にしたかった。
あの時、キュロス様やミオ、グラナド城のみんながそうしてくれたように……。
それなのにわたしは、そんな彼女が嫌い?
「うっ――ぐ」
わたしは口元を押さえ、お腹を押さえて呻いた。気持ち悪くてたまらない。必死で吐き気をこらえるわたしを見て、キュロス様は低く呟いた。
「そうか。それが君の、罪悪感の正体か」
わたしは視線をあげた。キュロス様は、苦笑いをしていた。まるで呆れているように。
「自分のコピーが、大好きなみんなに忌み嫌われていくのを見て、苦しかったんだな。自分自身の嫌なところを、客観的に突きつけられて。エラの罪を自分の罪のように感じてしまった」
「……わ、わたしが……エラさんの罪を」
「過去、自分はエラと同じことをした。だから自分がエラを嫌いになるほどに、自分も他人から嫌われていたんだと、過去を遡って苦しんでいたんだ」
「………………」
何も、言えなくて。黙り込んでしまったわたしのおでこに、キュロス様は自身の額を押し当てた。こつん、と軽い衝撃で、キュロス様はわたしを折檻する。
「……馬鹿だな。馬鹿マリー」
ミオは、あっけらかんとしていた。やはりいつも通りの無表情で、いつもの通り、さらりと言う。
「ほんと、何言ってんだって感じですね。マリー様とエラが似ている? どこがですか。頭のてっぺんから足の小指のつま先まで、何一つ似通っていませんよ」
「えっ?」
はっきりきっぱり言い切られて、思わず素っ頓狂な声が出る。ミオは肩を竦め、なんだかコミカルな仕草でさらに言う。
「彼女はごめんなさいと言いながら、悪いなんて思っていません。いや本人はそう思っているつもりなんでしょうけど、心底から反省なんてまったくしていませんね。被害者ぶっているだけです」
「な――なんで? どうしてそんな風に言い切れるの?」
「だって、何も変わっていかないから」
キュロス様が言葉を続けた。
「エラとマリー、似ているのはマリーがここにきて数日分だけだ。今のマリーとは全く違う」
「当時から違いますよ。マリー様は自分に自信がない、だからこそ全力を尽くして状況を打破しようと工夫してきました。私が初めてマリー様のお顔を見たのは、あなたの父が私に殴りかかってきた時ですよ」
「……そ、そんなこともあったかしら?」
「ありました」
なんだかすごく機嫌良さそうにミオは言う。キュロス様もニコニコ笑っていた。
「思えば最初から、マリーは他人に親切だったな。シャデラン邸で道に迷っていた俺を、主役の自分不在のパーティー会場へ導いてくれた」
「そ、それはただ、あなたが困っていたから。当たり前のことだわ」
「その当たり前を出来たのが、マリー様の素晴らしいところですよ」
ミオが続けて、さらりと言う。
「自分の代わりにチヤホヤされている姉への求婚者なんて、私だったら底なし沼の方向へ案内していたところです」
「いくらシャデラン家が無駄に広くて荒れ放題だからって、敷地内に底なし沼なんて無いわ」
と、関係のないことだけ突っ込んでおく。だってそれ以外に、なんと言えばいいの……。
わたしが黙り込んでいる間に、謎の褒め殺しタイムがまだまだ続く。
「マリー様は、他人を恨む、という感覚がほとんど無いんでしょうね。あんな環境で、なぜこれほど善良に育ったのか未だに不思議でなりません」
「それな。うちの侍従達にも積極的に話しかけ、仲良くなろうとしていた」
「根性ありますよね。半生、ずたぼろなんて酷い揶揄を受けて育って、他人に話しかけるのは怖かったでしょうに」
「この粘り強さは、夫としては心配でもある。この城にふさわしくないと思い込みながらも、ならばふさわしい貴婦人になろうとしていた。ダンスを練習しすぎて足をボロボロにしたこともあったよな」
「その性質は、他人のためとなると強く発揮されるようですよ。自分が他人を傷つけてしまったと気付いたら、すぐに対策を練り、改善していました」
「自分の傷にはどこまでも寛容なのに、他人が傷つけられると烈火のごとく怒るしな」
「れ、烈火のごとく!? わたし、そんなに激昂したことありました!?」
「あったあった」
けらけら笑うキュロス様。わたしは目を白黒させて、「嘘でしょ、そうだっけ? まさか」と一人ぶつぶつ呟き続ける。さらに二人は笑いながら、わたしの恥部、もとい思い出語りを始めてしまった。
「っていうか意外と根っこは明るいよな。なんだかんだ言って、仕事にやりがいもっていたみたいだし。好奇心は人一倍、面白そうなことがあるとツェリよりよっぽど目をキラキラさせて食いついていく」
「なんなら毎日そんな感じですよ。新しい本を手にしては踊り、形のいい芋が掘れては飛び跳ねて、侍従達と手を取り合って喜んでます」
「えっ、えっ、えっそんな……」
「そうそう。だから、初対面では誤解をしてしまった侍従達も、今ではみんなマリーのことが大好きだ。あんなに可愛いひとはいない、もし夫婦喧嘩がこじれたら、自分はマリー様の味方をしますからねって、今まで何人から言われたか」
はっはっは、と嬉しそうに高笑いするキュロス様。
わたしは顔を真っ赤にした。た、たしかに記憶の上ではなんとなく、そういう言動をしたと、思い当たることはある。だけどこんな……何、何なの急に? この褒め殺しの時間は一体なに!? 罵倒されるより耐えられないんだけど!
思わず顔を手で覆い隠すわたし。その手首を、キュロス様がそっと掴んで開かせた。
紅潮したわたしの顔を覗き込み、緑色の目を細めて、甘く笑う。
「みんな、君のことが大好きだよ。マリー」
「…………う……うん……」
「それは君がずたぼろで、可哀想だったからじゃない。むしろ逆だ。君は誰よりも優しくて、努力家で芯が強い……何度転んでずたぼろになっても、また前を向いて歩いて行ける。そんな強くて格好いい女性だからだ」
キュロス様は目を閉じて、わたしの指先にキスをした。忠誠を誓う騎士のように、跪いて、額を載せる。
「俺も。君のことを尊敬している。この世界で誰よりも、ただ一人だけ、君のことを愛している」
……わたしは、もう、たまらなくなってしまった。
強くて格好いい女だって、言ってもらったばかりなのに、泣きそう。口の端をぶるぶる震わせて、涙が零れないようこらえるのが精いっぱい。
なにも言えなくなってしまったわたしを、二人が同時に抱きしめる。そのままぎゅぎゅう―って、苦しいくらいに抱きしめられて、頭をわしゃわしゃ、髪を掻き混ぜるみたいにめちゃくちゃに撫でまわされる。こんなの卑怯よ、ふたりがかりで甘やかされたら、わたし大人なのに、伯爵の妻だし娘の母親だし、立派に自立をしたのに、力が全部抜けていっちゃうよ。
「う……っぅ、く……」
「大丈夫、泣いてもいいんだ」
わたしの背中をぽんぽん叩いて、キュロス様が囁く。
「それは君がこれまで頑張って来た証だから。俺の前では泣け。涙のぶんだけ全部褒めてやる」
わたしは、もう全然だめになった。キュロス様の胸に顔を埋め、ミオの手を握り締めて、恥ずかしいくらいに大きな声でわんわん泣いてしまった。
泣いても泣いても、大粒の涙があとからあとから湧いてきて、キュロス様の服をびちょびちょにしてしまった。それでも泣いた。
頭の中と胸の奥と、お腹の底にまで溜まっていた全部、全部を涙粒に変えて外に出す。キュロス様はその全部、全部を吸い込んで、約束通り全部を褒めてくれた。
「お疲れさま。いっぱい頑張ったな」
――って。




