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ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される  作者: とびらの
キュロス・グラナド伯爵は新しい家族に溺愛される

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241/320

娘をよろしくお願いします

 

 朝――というには少し遅い、太陽が昇り切った頃。

 食堂で、わたしがリサに離乳食をあげていると、キュロス様がやってきた。

 わたしの隣の椅子を引きながら、


「おはよぉう……」


 という声にあくびが混じっている。わたしが短い睡眠を取って、キュロス様からリサを預かったのが夜明け前。交代で眠ってから、それほどの時間は経っていない。


「大丈夫ですか、キュロス様。睡眠時間が足りていないのでは?」

「マリーこそ。それに俺、昼前にはまた出発するんだ。どのみちそろそろ起きて……」


 話しながら、身体が横に揺れている。

 わたしは笑って、自分用に淹れていた珈琲(コーヒー)を彼の前に差し出した。


「どうぞ、まだ口を付けていませんので」

「それは残念だ……」


 と、呟いて、カップを一口すすり。


「……今俺、寝ぼけた勢いで気持ち悪いこと言ったな? 忘れてくれ」

「はい」


 わたしは笑いながら、素直に頷いた。

 気持ち悪いなんて思うはずがないわ。こんなにフラフラになるまで、我が子を夜通し抱いていた夫。そうしてなるべくわたしを休ませようとしてくれている。彼の気持ちも、行動も、本当に嬉しい。ありがたいと思って、かなり甘えさせてもらっている……けど。


「もう、あまり無理はしないで……」


 わたしが言うと、彼は眉をひそめた。珈琲の香りで多少は覚醒したらしい、エメラルド色の瞳が凛々しく光る。深い溜め息を一度つき、彼は何か、言葉を探しているようだった。どうやら寝ぼけ眼を押してでも、話したいことがあるらしい。わたしが促すと、彼はかなり言いにくそうに話を始めた。


「ダリオ侯爵から預かっている、あのエラのことなんだが――」


 ――と、彼が話した内容は、わたしも知っていることだった。エラさんが、グラナド城の侍従達とあまりうまくいっていないこと。それどころか、どうやらイヤガラセまでされているらしいということ。わたしも少し悩んでから、昨日、彼女の背に暴言が貼られていた件を話した。その時の彼女の態度も。


「心配ですよね、エラさん……」

「どちらかというと俺は、この城の治安を懸念している」


 キュロス様は頬杖をつき、また嘆息した。


「せめてエラ本人が訴え出てくれないとな。状況も犯人も理由も不明では、解決案が出てこない。いっそ、もっとわかりやすい暴力沙汰でもあればと思ってしまうよ」


 最後の言葉には同意はしかねるけれども、その通りだった。

 それに、エラさんの言葉の端々から得られる情報から考えると、犯人は一人じゃなさそうだ。集団の場合、一人を締め上げてもエラさんのほうに原因があると言い張られてしまう。それでも問答無用で断罪することはできるけど、あのエラさんは土壇場で「自分が悪い」と言い出して、グダグダと終わってしまいそう。

 どうすればいいのだろう。他人の喧嘩の仲裁なんて、経験が無くてさっぱりわからない。キュロス様も、女性同士の集団心理には手を出しにくいのだろう。


「こんな時にミオがいれば……」


 と、呟いたその時、わたしの右肩にドッと重たい衝撃。驚いて振り向くと、キュロス様の頭が、わたしの肩に乗っかっていた。

 ……キュロス様……椅子に座ったまま、寝ている。

 腕を組んで考え事をしている姿勢で、真横に倒れ、わたしにもたれかかっていた。


「き、キュロス様……!」

「ぐう」


 あら可愛い寝顔――じゃなくてっ。


「わわ、落ちる落ちる!」


 慌てて横から支えるも、わたしも片腕にリサを抱いている。キュロス様はわたしよりも二回り大きくて、重い。彼の体重を支え切れなくて、わたしもリサごと倒れてしまいそうになる。

 なんとか踏ん張っているうちに、どんどんキュロス様の体が傾いて……わたしの緊張を察したのか、腕の中のリサも火が付いたように泣き出した。びゃぁああああっと耳を劈く我が子の絶叫、それでも起きないキュロス様――うわああっいけないこれは無理落ちるコケる倒れる、危ないっ。


「キュロス様起きっ、あっあっあっ助けてミ……オはいないんだっ誰か、誰かー!」


 声を振り絞って叫んだ、その時。


 救いの手は不意に現れた。

 救世主は、ぐいっと力強くキュロス様の姿勢を戻し、直後、泣き叫ぶリサをひょいと奪う。

 そして、


「よしよし、もう大丈夫よ」


 ――と、豊かな胸に頬を埋めさせ、背中をぽんぽん。わたしは叫んだ。


「エラさん……!」


 エラさんは何も言わず、リサを泣き止ませにかかっていた。聖母を思わせる優しい微笑みで、背中を叩くのではなくパタパタと仰ぎ、涼しい風を送る。それが心地よかったのか、リサはぴたりと泣き止んだ。涙を浮かべながらも、不思議そうに彼女の顔を見つめる。


「ふえ……」

「よしよし……」


 エラさんの穏やかな声に、リサの表情がみるみる蕩けていく。

 エラさんの体に顔を預け、うとうとと舟をこぎ出す。やがて、スースーと寝息を立て始めた。

 えっ、すごい! わたしとキュロス様以外の抱っこで、リサが寝るところを初めて見た。


「ど、どうして……この子、いつもすごく寝つきが悪いのに」

「泣いたせいで体温が上がって、暑かったのでしょう。ただでさえ赤ん坊は体温が高いから、寝入りにはあまりヌクヌクで抱っこをし続けるより、涼しいところにほったらかしておく方が、案外すんなりと寝てくれますよ」


 にっこり笑って言うエラさん。

 「ほー」と感心するわたしと、「なるほど」と唸るキュロス様。いつの間にか起きたらしい。夫婦でフンフン頷いていると、エラさんはハッと息を飲んだ。慌ててリサをわたしに返しながら、


「し、失礼しました! ごめんなさい私、勝手なことをして」


 しかしリサがその気配を察して、再びグズったのでまた抱き上げる。


「す、すみませんすみません。私、赤ん坊の泣き声聞いたらつい無意識に、あやしてあげなくちゃって、放っておけなくて。廊下で聞こえて、思わず飛び出しちゃって……!」


 眉を垂らし、自分こそ泣きそうな顔をするエラさん。わたしは首を振った。


「助かったわ。謝らないで」

「恐縮です……ありがとうございます」


 またお礼を言われてしまった。本当に謙虚なひとだわ。

 エラさんの腕の中で、リサは心底安らいでいるようだった。穏やかな表情でぐっすり眠っている。普段、我が子の寝かしつけには苦労しっぱなしのわたしたち、夫婦で顔を見合わせ、首を傾げた。


「本当にすごいな、エラ。父親の俺が言うのもなんだが、リサは本当に気難しくて、うちの侍従では誰も寝かしつけられなかったんだ。あなたには子どもがあったのか?」

「いえ……姉がたくさん子どもを産んだので。私自身まだ幼いころから、八人の甥姪を育ててきました」


 ああそういえば、前にもそんなことを言っていたわね。と、納得した直後、わたしは叫んだ。


「八人っ!?」


 隣でキュロス様も全く同じことを叫んでいる。

 す、すごい、それはベテランのはずだわ。初めての子に暗中模索しているわたし達とは経験値が違いすぎる。

 顔を見合わせているわたし達に、エラさんは何か言いたげだった。かなり長い時間をかけて言葉を選び、まさしく「おずおず」といった口調で話しかけてくる。


「あの……もし良ろしければ、私が乳母の代わりをしましょうか? 他のひとでは手に負えない、ご機嫌の悪い時や、お二人がお休みの夜の間だけでも……」

「えっ――そ、そんな、悪いわ!」

「私のことなら大丈夫です。先ほど言ったように、子育ては慣れておりますし。夜型生活も、体調を崩すことはありませんから」

「でも……」


 なおも食い下がるわたし。だってリサは本当に気難しい子なんだもの。そうでなくても夜通し赤ん坊を抱っこして過ごすなんて、身体も心もしんどいに決まっている。実の親であるわたし達がこんなにつらいんだもの、未婚で他人のエラさんにはどれほどの負担になるか。

 わたしはリサを取り返そうとした、けれど。


「お二人とも、お疲れの顔をしています」


  そう言われて、ぎくりと体をこわばらせる。


 ……二人とも……。


 わたしは恐る恐る、隣のキュロス様を見上げた。


 ……確かに、キュロス様はわたしよりも長い時間、夜泣きに対応してくれていた。日中も、お仕事や国葬の準備でお忙しくされていたのに。

 わたし自身、睡眠不足が続いて、余裕が無かった。それを言い訳に、伴侶の横顔をじっくり見ていなかった。いつも凛々しく、雄々しい彼の横顔に、明らかに疲れの色が見える。

 エラさんはまた困ったように微笑んだ。


「子どもを愛していれば辛くない、なんてことはありません。どれだけ幸せでも、体を休めなければ疲労は溜まります」


「わたしは大丈夫、だけどキュロス様は」

「俺は大丈夫、だがマリーは」


 と、言葉を重ねてから押し黙る。

 ……そう、自分自身は、もう少しくらい大丈夫だと思っている。でも相手の顔を見れば休息が必要だとは理解できる。きっとエラさんからはわたしたち二人ともがそう見えているのだろう。

 同時にそう理解して黙り込んだわたしたちに、エラさんはクスッと笑い声をあげた。


「本当に、お互いを思いやる仲のいいご夫婦で、羨ましい限りですわ」

「ど、どうも……」

「そんなお二人なら、交代で体を休めるのではなく、二人同時にゆったりと過ごす時間も必要なんじゃないですか?」


 思わず赤面するわたしたち。今度こそエラさんは声を立てて笑った。


「どうぞ、リサ様は私にお任せください。お二人は今、自分自身のために使う時間が必要な時期です」


 ――正直に言って――この時、わたしはエラさんの微笑みが、聖母に見えた。

 弱った心の隙間に入り込んで、果てしなく甘やかしてくれる、蜜のような笑顔。

 ……そしてリサが、エラさんの腕の中で休んでいるという事実。

 何も言えなくなってしまったわたしの肩に、キュロス様の大きな手がポンと乗る。


「それがいいかもしれないな」

「……キュロス様……」

「本来、貴族が自ら子育てすることはごく稀だ。上級貴族にもなれば母乳を与えることすら少ない。すべてを乳母と家庭教師に任せるのが一般的だ」

「そう……ですね、シャデラン家でも、資産に余裕があればそうしていたのだと思います」


 わたしは渋々、頷いた。そう、わたしだってもともと、グラナド城のみんなに手を貸してもらうつもりでいた。だけどこの半年間毎日自分の手で抱いて、揺さぶり続けた我が娘……。

 これは心配ではない。わたしは惜しいのだ。愛娘を、たとえ短い時間でも他人の手に渡すことが、惜しいのだ。

 悩み続けるわたしに、「気持ちは分かるよ」というキュロス様。


「だが俺自身、父とリュー・リューだけの手で育てられたわけじゃない。頼れるものは頼る、その選択は娘のためにもなる。背負いすぎるのは親としての責任感ではなく、エゴだよ、マリー」


 ……確かに、本当にそれはその通りで。

 わたしも本当は、よくよく理解をしていて。

 ああ、頭の中がグルグルする。悩みすぎたせいか、突然くらりと眩暈がした。よろめいたわたしの肩を抱いて、キュロス様が囁く。


「お願いしよう、マリー」

「……キュロス様」

「エラの、乳母としての能力は信頼できる。夜の間だけでもお任せして、ぐっすり眠れ。体が元気になったら丸一日、街へ出かけてもいい。このところ、好きな本も読んでいないだろう」


 キュロス様はそう言って、わたしの瞼を親指でなぞった。

 ……確かに、そうだった。睡眠時間はぎりぎり、身体を保つくらいは取れている。だけどお出かけや読書など、自分の時間を楽しむということは、何も出来ていなかった。

 そんな日々が長く続けば、心が闇の沼に沈んでいく。やがて奥底まで沈みきってしまったら、再び浮上するのには長い年月がかかる。期待することもなく、どうせ駄目だからと諦めきって、欲しいものすらわからなくなる……それが二年前のわたしだった。もう戻りたくない。せっかくキュロス様達が、わたしを引き上げてしてくれたんだもの。


「そうですね……キュロス様の言う通り。ちょうどいい機会、ですね」


 わたしは笑って、頷いた。

 キュロス様も真顔で頷く。

 そう――これは本当に、ちょうどいい機会だった。

 グラナド城の侍従達と、人間関係に難アリのエラさんを、そのコミュニティから引きはがす。そして彼女の能力を評価し、役目を与えることで自信を付けさせる。目下の悩み事がすべて解決する決断だった。

 わたしの意思をしっかりと確認してから、キュロス様は再び、エラさんに向き直った。彼女の顔をまっすぐ見つめ、真摯な言葉で伝える。


「エラ、聞いての通りだ。今後、娘の面倒をあなたに頼みたい」

「は、はい……! かしこまりました。光栄です」

「しかし、あまりリサと離れたくはない。これからは俺たちが暮らす『館』のほうで寝泊まりをしてくれ。荷物を貴賓室に運ばせる。ほか必要なものがあれば、何でも言ってくれたらいい」

「ありがとうございます。かしこまりました」

「……よろしく頼む。娘と妻を助けてやってくれ」


 上級貴族に頭を下げられて、エラさんは面食らったようだった。声を上ずらせながら、慌てて自分も。


「ははは、はい、もちろんでございますめっそうもありません! こちらこそ、誠心誠意尽くさせていただきますです、よろしくお願いします、ありがとうございます……!」


 エラさんはこれ以上ないほど恐縮して、わたし達に頭を下げ、お礼を言っていた。



 それから、貴賓室にはさっそくエラさんの私物と、リサの揺り籠やおむつなど、お世話道具が移動された。貴賓室に入ったエラさんが「こんなところで私が暮らすんですか!?」と叫び、震えあがっていたのはご愛敬。

 それから彼女にリサの生活スタイル、わたし達の育児方針を伝え、具体的にスケジュールを決定。エラさんにお願いするのは基本的に夜だけで、早朝にはわたしかキュロス様がリサを受け取り、夕食の前、母乳と離乳食を与えてからエラさんに引き渡すというスケジュールだ。必然、エラさんは昼夜逆転の生活になってしまうので、日中のメイド業務はすべて免除。正式に、専属の乳母として雇い直した形である。

 報酬はメイドの五倍。キュロス様は「相場にちょっと色を付けた程度」と言ったけれど、わたしにはよくわからない。ただエラさんは数字を見て目を回し、そのまま後ろ向きに卒倒していた。


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