俺は彼女を心配している
俺の胸に顔を埋め、すべての体重を預けて眠る、小さな体。娘はぐっすり眠っていた。そろそろクーファンに下ろしても大丈夫かな……と、娘を体から離したが、その瞬間にぐずりだす。
小さな手が、なにかを掴もうと宙を掻く。俺の前髪を探しているのだ。
俺は思わず笑い声を漏らした。
「いったいいつまで、俺の髪を引っ張りながら寝る癖が直らないのかな」
仕方なく抱き直し、また体を揺らして、寝かしつける。
ぽん、ぽん、と、背中を軽く叩きながら。
えいやあ、漕ぎ出せ野郎ども
一糸乱れぬ 連帯の鼓動
見えたぞ 波間に遠くの陸地
船を進めろ 野郎ども
星色航跡 夢描く水平線――
子守歌らしからぬ歌は、コンコンと控えめなノックの音に遮られる。俺は歌を止めて、「どうぞ」と応えた。
ノックの主が、そうっと扉を開く。
「失礼します……」
「ああ、夜の遅い時間に、すまなかったな」
俺がそう言うと、彼女はビクリと体を震わせた。どうやら相当な人見知りのようだ。俺が個人的に怖がられている、とは考えないでおこう。
白灰色の髪をした、若い女だった。髪型は「ざんばら」としか言いようのないもので、きちんと風呂に入っているはずだが清潔感が無い。鼻の先まである長い前髪の隙間から、わずかに除く青紫の目は、追い詰められた小動物のようにビクビクと怯えていた。
エラは小刻みに震えながら、胸元に手を当て、大きく深呼吸をした。胸いっぱいに空気を入れたわりには消え入るように小さな声で、
「……はい。その……不慣れでは、ございますが、精いっぱいご奉仕させていただきます……」
「……ん? ――とっおおおお、待て待て違うっ!」
釦を外し始めたのを見てすべてを察し、慌てて大声で否定する。危ない、うっかりリサを放り投げて止めに行くところだった。俺の声で再びグズり始めたのを、ちょっと強めの背中ぽんぽんであやしながら、
「いきなりぶっ飛んだ誤解をするな、君をここへ呼んだのは、ただ話をするためだ、服を直してくれ!」
俺の意図が伝わったのか、釦を外す手を止めるエラ。
……良かった、物の分からない人間ではないらしい。と、ホッとしたのもつかの間、突然ボロボロと泣き始めた。
「あ、ありがとうございます……ありがとうございますぅう」
……社交界や商談の接待で、突然脱ぎだす女性は何人かいたが、そのあと泣きながら礼を言われたのは初めてだ。これはどういう心理だ、ちょっと理解できない人種である。
俺は彼女を理解するのは諦めて、それよりも本題に入ることにした。
「ええと――何か語弊があったなら、すまない。本当なら呼び出したのも夕方、夕食前にという話だったはずだ」
「はい、仕事が立て込んで、夕食が取れなかったので。遅くなって申し訳ありません」
深々と頭を下げるエラ。
……夕食が取れないほど、仕事が立て込んだ? グラナド城では、ハウスメイドの仕事は時間交代制だ。侍従頭のミオが組んだスケジュールによって完璧に管理をされているはずである。ましてやこのエラは研修生であり、侯爵が連れてきたゲスト。そんなに無茶な仕事量でもないはずだが……。
……もしかして、これも、そういうこと……なのだろうか。
俺はエラに、ティーテーブルの椅子に座るよう促した。自分もそれと向き合うように腰掛ける。そうして彼女と対面して、ゆっくりと、言い聞かせるように問いかけた。
「エラ……君の仕事ぶりは、メイド長や執事から聞いている。良く働いてくれているとのことで、感謝を申し上げる」
「そんな、とんでもございません」
「それと同時に、少々トラブルがあったことも聞いた。人間関係……他の侍従達から、君が嫌がらせを受けている、と」
エラの表情がみるみる曇る。何かを言いたそうに口を開いてから、すぐに口を閉じて、飲み込んだ。
「……いえ……みなさんから親切にしていただいています。仕事がたくさん回ってくるのは、私が仕事に慣れるためで、厳しい言葉も、叱咤激励だと承知しております」
「……そうか」
「申し訳ありません。この城の調和を乱してしまって」
――ん? 調和を乱す?
状況だけを言えばそうではあるが、エラが乱したというわけではないだろう。この言い方だと、エラが何か悪いことをしたみたいに聞こえてしまう。エラは言葉の選択を間違えている。
エラは上目遣いで、俺の顔色を窺っていた。
「キュロス様に話したのは、マリー様ですか?」
「いや、メイド長だ。休憩時間、一緒に食堂へ行こうと誘っても逃げてしまう、私達に遠慮しているんじゃないかと相談された」
そう言うと、エラは目を剥いて驚いた。
「は、伯爵様が、メイドの休憩時間の過ごし方を調べているのですか?」
「爵位は関係ない。俺は城主で、グラナド商会という組織の取締役だからな。新しく入った従業員の様子伺いくらいはするさ」
「そ、それも、そうですね……変なことを聞いてしまってすみません。私、貴族のことも社会のことも何も知らなくて……」
どうやらこの女性、ほとんど無意識で、すべての事象を「自分が悪いせいで」に帰結してしまうようだった。なんでそんなクセがついたのかわからないが。
しかし「話したのはマリーか?」だと? マリーとも何かあったのだろうか。
今日はマリーとの交流はほとんどなく、リサの寝かしつけを代わる時、一言二言話しただけだが。気遣い屋のマリーのことだから、他人の話を告げ口のように俺に伝えるのを良しとしなかったのだろう。
俺はそこには追及せず、言葉を続けた。
「とにかく、あまりうまくいっていないのは事実のようだな。……しかし正直、信じがたい。身内贔屓ではあるが、侍従の人選は厳選している」
エラは黙り込んで、何も言わなかった。
「しばらく前、急遽招き入れた侍女が大外れだったことがあってな。この城に来たばかりで恐縮しているマリーを、さらに追い詰めるような言動をし、追放した。それを反省して、人事は他人の紹介を鵜呑みにせずに厳選しているんだ。面接を重ねて、場合によっては出自に調査まで入れて精査をしている」
「それだけ、私が嫌われやすいということでしょうね」
悲しい声で呟くエラ。その言葉も口調も表情も、自分自身を責めるものだったが……グラナド城の侍従達が嫌がらせをした、ということを、肯定している。
俺は、彼女の口からそれを否定する言葉が出るのを、しばらく待ってみた。だが結局それは無いまま、不思議そうにしている。俺が何故黙り込んでいるのか、本当にわからないようだった。
――娘の前で詰問はしたくない。
そう判断し、俺は「もういい」と首を振った。
「とにかく、俺は城主として、またダリオ侯爵から君を預かった身として、グラナド城での生活が良いものになるよう、努力をしなくてはいけない。侍従達にも、身内贔屓することなく制裁を加えていくつもりだ」
「……恐縮です」
「他、困ったことがあればなんでも言ってくれ。近いうちに侍従頭のミオも一時帰還するはずだしな」
エラは更に何度も何度も頭を下げ、謝罪と礼を言いながら帰って行った。
俺はそんな彼女の様子を見て、ひどく心配になった。
エラという女のことではない、我が妻マリーが、胸を痛めているのではないか、と。
「……話を聞かせてくれと呼びだすのは、マリーにするべきだったかもしれない」
娘を肩に抱いて、俺は呟いた。




