灰色の侵入者①
グラナド城、来賓用の食堂に近づくと、侯爵の声が聴こえてきた。誰かと話をしている。
わたしとキュロス様は顔を見合わせた。エラさんにも目配せし、人差し指を唇に当て、扉に耳を近づける。
……扉越しでも、機嫌のいい様子が窺える。まるで歌のような節をつけて、ダリオ侯爵は一人でいっぱい喋っていた。
「んー! シェフ、なかなかやるじゃないか。味は言うまでもなく、献立や彩りも完璧だっ!」
「恐れ入ります、ムシュウー」
応対している声は、グラナド城の料理長、トッポ。
「これならば宮廷料理にも引けを取らないだろう。しかし、少々ソースに頼りすぎだね?」
カンカン、とシルバーでお皿を叩く音。
「我が里スフェインでは、自然の恵みを活かして料理をするのだ。味のベースにはニンニクとオリーブオイル。濃厚なソースなんてものに逃げず新鮮な素材そのものを味わう」
「は……なるほど」
「まあこれはディルツ人には理解できない教養だろうね。農業も漁業も未発達で、新鮮な食材に乏しい。保存食のような料理、イモやソーセージばかり食べているらしいじゃないか」
「確かに……仰る通り、なのでトッポはフラリア仕込みのソース術で食卓には彩りを」
「その点、スフェインは国土の多くが海に囲まれているからね! 海の幸が食卓の柱、それに保存食もディルツより発達している。シェフ、『出汁』の概念は知っているかね? 貝を生きたまま煮た時に出るスープの味を知っているかね?」
「ええ、グラナド城に来る前はスフェインにも渡って――」
「たとえ今後、ディルツの料理が発展しても無駄だろうね、国民の舌と自意識が育っていないのだから、何を食べても同じ味と言いそうだ。ハーッハハハハハ!」
むむっ、失礼な。確かにわたしは大体のものは美味しく食べてしまうけど、それは極貧生活が長くてあらゆる栄養素が貴重だったからであって、美味しい、美味しくないって感想くらいはあるもん。いえわたしのことはさておいて、ディルツへの風評被害が酷い。芋とソーセージしか無いなんてことはないし、キュロス様は美食家だ。トッポの料理はバリエーション豊富で、なおかつどれもこれも、いつだって美味しい。小馬鹿にされる謂れなどないわ。
ダリオ侯爵はさらに調子に乗ったのか、フフンと鼻を鳴らした。
「それに……この短時間でこの品ぞろえ。さては昨夜の残り物、誰かの食べ残しを寄せ集めたね?」
「えっ!? ち、違います。これは旦那様がもうじきお帰りになると聞いてっ」
「嘘まで吐くとはいい度胸だ。この侮辱、一生忘れないようにメモをしておきますね」
「そそそ、そんなぁ」
トッポが焦って泣きそうになった声。ひどい、言いがかりだわ。泣き虫のトッポを泣かせるだなんて許せない、もう黙ってられないっ!
わたしは鼻息荒く食堂に乗り込んでやろうかと思ったけれど、キュロス様に止められた。
「エラさんを見張っていて」
と、小声でわたしに囁いて、ひとり静かに、食堂への扉を押し開いた。
グラナド城、来賓用の食堂はとても大きい。晩餐会にも使われるため、三十人が座れる巨大なテーブルと、給仕が走り回れるように広い空間がある。そんな場所に一人でぽつんと腰かけていたダリオ侯爵は、突然現れた城主に驚かなかった。席を立つどころかフォークにお肉を刺したまま、視線を上げただけ。にやりと笑って、軽く言う。
「キュロス伯爵。お帰りなさいませ」
「……ダリオ侯爵。この度は侯爵がお越しのこととは存じあげず、留守にしてしまい、申し訳ありません」
丁寧な口調の中には明らかに、「事前連絡くらいしろ」という圧が含まれていたけれど、ダリオ侯爵はどこ吹く風。ホワイトソースに濡れたフォークをヒョイと振って、
「伯爵は良い料理人をお抱えでいらっしゃる。たいした腕前です。残飯だがね」
「違いますぅ……」
後ろでトッポがシクシク泣いていた。
ううっ……わたしも食堂に入りたい。エラさんから目を離すわけにはいかないけれど、ああでもトッポだけでも攫って逃げられないかしら……。
キュロス様は、ダリオ侯爵の向かい席に腰かけた。もちろん料理には手を付けずに、
「ようこそグラナド城へ。しかし侯爵、いったい何用で? 父の葬儀後、いったん自国へ帰られたはずですが?」
「いや実はね。自宅からこのディルツの王都までは海路も駅馬車も整備されていないので、往復には何十日もかかってしまう。すると国葬には間に合わないので、帰国はせずこのまま滞在することになったのですよ」
「……国葬の儀は私共のほうで執り行います。侯爵は自国で、喪に服すだけで十分かと」
「なんと! そんな薄情なこと、このダリオには出来かねます! 他ならぬ妻の父――いいえ我が第二の父と敬愛するアルフレッド様の最期だというのに」
ヨヨヨ……とわざとらしい泣き声で言う侯爵。きっとキュロス様の言ったことは、公爵邸で親族と相談し決定したことだろう。それなのに、どうして今更?
ダリオ侯爵の言動は、わたしにはまったく理解できない。だけど何かを企んでいることだけはきっぱりと分かるわ。このひとを放置してはいけない――。
わたしの思いとキュロス様の考えは、ちょうど一致したらしい。食堂から、キュロス様の声が飛ぶ。
「マリー。入ってきてくれ」
わたしは頷き、エラさんの手を取った。彼女は一瞬だけ全身をこわばらせたけど、諦めたように脱力し、わたしと一緒に歩き出す。
侯爵は、わたしが呼ばれただけならば余裕の微笑みで紅茶を喫っていた。だけどわたしは、背が高い。平均身長程度の女性ならば、わたしの後ろに隠れてしまうほど。わたしはキュロス様の近くに着くと、ヒョイと横へよけた。後ろに隠れていた灰色の女性、エラさんが姿を現す、と。
「――ぶぇっふうううっ!?」
ダリオ侯爵は紅茶を噴き出した。
うわわわわ。宙を舞う飛沫に、わたしとキュロス様、そしてトッポは慌てて逃げた。ああ、絨毯に水たまりが……!
ところがエラさんは駆け出すと、その場所に膝を付き、這いつくばった。灰色の服に茶色のシミが広がるのを一切気にせず、ダリオ侯爵を見あげて、
「も、申し訳ございませんダリオ様、私、私ったらまたドジをして、グラナド城の方に見つかってしまいましたっ……!」
「んあっ!? ば、馬鹿者! そこで謝ったら私がおまえに命令したことがバレ、いやまるで私が共犯かのように誤解されるではないかっ!」
「ああっ、そうでした! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「ごめんで済むか、ええい近づくな私のズボンに汚れが付くっ」
紅茶の水たまりに額を付けて謝るエラさんと、そんな彼女に唾を飛ばして叫ぶ侯爵……。
……。……前言撤回、案外、放置しても問題にならないかも。
キュロス様も大体同じ見解らしく、頭痛をこらえる仕草をしていた。ひどく面倒くさそうに、エラさんを助け起こすと、大きなため息を吐く。
「とりあえず……理由を聞こうか。弁解でも言い訳でもいいから」




