警戒せずにはいられません
「……マリー……んむむ、やたらデカい背丈に不吉な赤毛。……もしやマリー・シャデラン? キュロス伯爵の妻の?」
男はトマスに尋ねた。トマスが「そーですよ」と雑に返事し終えるのを待たず、「ふうむ?」と首を傾げた。そしてゆっくりじっくり、にじり寄るように近づいてくる。
わたしを見つめる視線は固定されたまま……やたらと長い睫毛が、扇みたいにしばたいていた。
「うっ」
わたしは思わず、小さく悲鳴を上げた。
や、やだ。このひとなんか怖い……思わず逃げ出したくなるのを、強い自制心でどうにかこらえる。
キュロス様が不在の間、この城の女主人はわたしなのだ。ここで隠れたままだと、門番のトマスや厩番のアダムが一方的に、貴族への不敬で罰を受ける。わたしは彼らを背中に庇い、男と向き合った。
男性はわたしを見て、なにか驚いているようだった。底の見えない穴でも覗くように、小首をかしげながらまじまじと見つめてくる。目を剥いて、頭から爪先まで凝視して……。
「ううっ……」
ぞわぞわと背筋に寒気が走る。何? ほんと何なの!?
悲鳴を上げてしまう直前で、わたしは奥歯を噛み締め、ニッコリと淑女の微笑みを浮かべた。スカートの裾を摘まんで広げ、優雅にお辞儀をする。
「は――初めまして! ご高察通り、わたしがキュロス・グラナドの妻、マリーです。この度は当方の侍従が失礼な態度を取り、申し訳ありませんでした」
「んんっ……!?」
男の反応はやはり異様だったけど、案外すぐに、気持ちを切り替えたらしい。瞼の開き加減を普通に戻して、にっこりと紳士の笑顔になった。お洒落に整えた口髭の下、白い歯がキラリと光る。
「ああこちらこそ、申し遅れました。初めまして、ワタクシの名はダリオ・アルフォンソ。アルフレッド公爵家長女、ソフィアの夫であり、キュロスの義兄という立場です」
「キュロス様の義兄……!」
わたしは息を呑んだ。
婚姻してから日が浅く、そのうちのほとんどを海外で過ごしてしまったわたしは、グラナド家親族との交流が酷く不足している。それでも一応、書類からその名前と爵位くらいは暗記していた。ソフィア夫妻といえば、スフェインの子爵と婚姻し、そちらに小城を建てて暮らしているはず。子爵ではなく侯爵となったのは、アルフレッド公爵の力添えによるものだろう。次期公爵であり、現時点では伯爵位であるキュロス様と比べて、どちらの地位が高いのかはよく分からない。けれど、いずれにせよ上級貴族に間違いない。
どうしてそんな方が、事前連絡も無く訪問を……いや何より、アダムを止めておいて本当に良かった……!
「たいへん失礼いたしました、ダリオ様」
わたしも居住まいを正し、改めて最敬礼のカーテシーを送る。
「お出迎えが遅れましたこと、深くお詫びいたします。そして重ね重ね申し訳ないのですが、ご存じの通り、夫は国葬の準備で城を空けがちで……」
「ああ、知っているよ」
……ん? ダリオ侯爵の反応に一瞬違和感を覚えたけれど、気を取り直し、言葉を続けた。
「間もなく帰還する、と予定を聞いておりますが、現在は留守にしております。恐れ入りますが、それまで城内でおくつろぎになってお待ちください」
「ありがとう! ではお言葉に甘えて、グラナド城の美食を堪能させていただきますね!」
あ、あれっ? わたし今、どうぞ食事でもって言ったかしら?
いやもとより、案内しないわけにいかないとは思っていたので、いいけど。
「いやあこのグラナド城! 噂には聞いていたけれど、本当に大きくて立派な城ですなあ!」
くるくると舞うように回転しながら、ダリオ侯爵は高らかに叫んだ。
「公爵邸よりずっと大きいじゃないか。こんなに大層なところの主だなんて、羨ましいくらいですよ」
「お、恐れ入ります。そう言っていただけると夫も喜ぶかと」
「これは歴史に残ることでしょう、妾腹の子が城を持つなど異例なこと、まして蛮族の血では」
…………。
わたしは思わず、表情をこわばらせた。
そんな小さな変化を気付いているのかいないのか、ダリオ侯爵は誰に案内されるまでもなく、ずかずかと城門をくぐり、進んでいく。歩きながら高らかに、
「あっそうだ、ワタクシの馬車をよろしく!」
……仕方なく、わたしはトマスとアダムに指示を出す。
「アダム、侯爵様のお車を城内へ。馬も休ませてあげてちょうだい」
「……マリー様、しかし」
「厩舎に入れなくても、どこにでも空きスペースはあるわ。たとえば中庭とか。丈夫な楓の木があったでしょう、そこへ馬をつないでおくのはどうかしら」
「あっなるほど、それなら感染も避けられます――けど」
アダムは困ったように眉をひそめた。
「それだと屋根も風よけも無いです。あの綺麗な車体が野晒しになってしまいますよ……?」
「仕方がないでしょう。ダリオ様、それでよろしいでしょうか?」
わたしが尋ねると、ダリオ侯爵はにっこり微笑んで、頷いた。
あっさりと許可を得て、アダムは拍子抜けしたらしい。肩をすくめて、ダリオ侯爵の馬を引き、歩き出した。侯爵はその後ろを追う形で、城門をくぐり、グラナド城の敷地内へと入っていく。
薪置き場は、城門と正面玄関の間にある前庭を右に曲がり、奥まったところにある。わたしも彼らについて歩き出したところで、「マリー様、ちょっと」と声がかかった。
門番のトマスだ。これまでずっと、神妙な面持ちで黙って見ていた彼は、固い表情のまま、わたしにそっと耳打ちをした。
「……あの馬車、怪しいです。城内に入れないほうがいいと思います」
「ええ、わかってる」
わたしも小声でささやき、侯爵の馬車をじっと見つめた。
侯爵の馬車は、素晴らしく優美なデザインをしていた。小柄だが丸みのある車体、純白に塗られているが、要所要所に黄金が施してあり、豪奢なのに可愛らしい。童話でお姫様が乗っていた馬車そのもの。古式ゆかしく華美な侯爵がいかにも好みそうで、大切にする気持ちは分かる。
それなのに、アダムに馬を引かれるのは抵抗しない? 城内であれば粗末な扱いでも満足?
馬車を城内に入れることが目的――だけど馬や車を大事にしているわけではない。だったら、可能性は一つ――積み荷に何かを仕込んでいる。
城主に内緒で、敷地内に持ち込みたい荷物? もとより、姻族であり上級貴族であるダリオ侯爵の手荷物検査などする気はない。だから懐や鞄には入らないサイズや形状で、なおかつ城主に見つかれば糾弾されるようなもの……。
終戦から五十年、泰平の世。スフェインとは友好関係にあるし、グラナド家は国政に直接関与はしていない。まさか兵器や毒物なんてことはない、と思う。たぶん。でもキュロス様が留守の間に無警戒に受け入れるわけにはいかない。
……検めなければなるまい。
トマスも同じ見解らしく、車体を指さして目配せしてくる。わたしは頷き、侯爵様に声をかけた。
「それでは侯爵様、馬車のお荷物を下ろしますね」
そう言うと、侯爵は明らかに狼狽した。
「えっ!? い、いや大丈夫です、ワタクシの荷物はこれだけですのでっ!」
そう言って掲げたのは、羽飾りのついた扇一本、そんなものは荷物と呼べない。わたしは微笑んだまま言葉を続ける。
「あら、ご冗談を。ダリオ侯爵ははるばるスフェイン国から来られたとのこと、着替えや食料を持っていないはずがありませんわ」
「い、いやそれは……近衛兵達がそれぞれ分担して持ってくれているから!」
と、言われても、兵たちは自身の武具しか持っていないように見える。何より彼らもまた「えっ聞いてないけど?」みたいな表情で、お互いの顔を見合わせているのだ。侯爵は顎まで汗を滴らせている。
どうしよう、ここで強行しても兵士たちが邪魔するだろうし……と、少しだけ悩んで、わたしはにっこり笑った。
「そうでしたか。では、近衛の皆様も侯爵様とご一緒に食堂へどうぞ。主が戻るまで、当城自慢の料理でおもてなし致します」
「おお、それはそれは、ありがたい」
「トマス、アダムと一緒に馬車を中庭へ引いて行ってあげて。わたしは皆様を城内へご案内するわ」
「畏まりましたあっ」
トマスは元気よく返事をした。わたしはなるべく自然な笑顔に徹しつつ、侯爵様と十人の近衛兵を、食堂へと導く。
「側近の皆様も、お座りになって。当城では主も侍従も同じテーブルに着くのがならわしです。長旅でお疲れでしょう?」
そんなことを言いながら、ひとりひとりに椅子を引いて座らせて、自らお茶を淹れてお出しする。さらに下男には足洗の湯と、家政婦には料理長への伝達をお願いした。そうして全員のお尻に根が生えたところで、わたしはやはりニコニコしたまま、手を振った。
「では、わたしは一度自室へ戻り、侯爵様をおもてなしするにふさわしい衣装へ着替えをしてまいります。皆様はごゆっくり、お食事を摂りながらお待ちください」
――と……するりと食堂を抜け出し、扉を閉めるなり、全速力で駆け出した。わたしの自室、居住用の館につながる回廊は中庭を突っ切る形になっている。途中までは回廊を行き、中程で庭へと駆け込んだ。
中庭の開けた場所、普段は馬を運動させる広場に、トマスとアダムが待機していた。馬はアダムが退避させたのだろう、車体だけがその場に置かれている。わたしは無言のまま車体に近づき、深呼吸をして扉を開けた。
馬車体の中は、外側に負けず劣らず可愛らしい装飾だった。柔らかそうな赤いベルベットのシートに、花柄の刺繍、デフォルメされたネズミや小鳥の模型があちこちに置かれていた。足元には、びっしりと花びらが敷き詰められている。
むせかえるほど可愛らしい、夢のような空間だわ。そこにはやはり、旅の荷物らしいものがあった。だけど、思っていたよりはかなり少ない。何の変哲もない、木箱が一つあるだけだ。芋やタマネギなど保管するのによく使われるもので、馬車の積み荷としては極めて一般的。
……早とちりだったかしら?
「あの木箱、開けてみましょう。念のためマリー様は少し離れていてください」
トマスが言って、アダムから上着を借り、自身の顔を覆った。万が一、危険物だった場合に備えてだろう。
「トマスも、気を付けて……」
後ろに下がりながら、祈るわたし。その隣でアダムも息を呑む音。
「開け……ます!」
トマスが木箱に手をかけた、――その時!
意外な声は、後ろから掛かった。
「あれっ、マリー? こんなところで何をしているんだ?」
振り向くとそこに、よく知る顔が。
「キ――キュロス様!?」
なんてこと!? まさかこのタイミングでキュロス様が帰還するなんて!
つい先ほど帰ってきたばかりらしい、キュロス様は外套を羽織ったまま、わたし達の様子に首をかしげている。きっとよく事情もご存じないまま、わたしがここに行ったとメイドに聞いて来たのだわ。わたしは慌ててキュロス様に近づかないよう叫んだ、その声に重なって、
「ひぃあああっ?」
盛大な悲鳴を上げて、木箱の中から女が一人、転がり出てきた。




