伯爵城のごはんは本当に美味しいです
四日ぶりに見る婚約者は、長身を屈めるようにして、食堂の椅子に座っていた。
頬杖をつき、こちらを振り向いている。
部屋着なのだろう、シンプルな服装をしていた。すらりと細長い印象があったけど、袖から覗く手首の太さにドキリとする。
燭台の明かりに浮かび上がる、精悍な顔立ちと、緑色の瞳。黒い睫毛に縁取られた目を細め、彼はわたしを見つめていた。
「四日ぶりか。……見違えたな。また一層、綺麗になった」
「……恐縮です。グラナド伯爵様のご厚意に、心より感謝を申し上げます」
わたしは深々と頭を下げた。
彼は数秒の沈黙、のち、低い声でぼそりと言った。
「家名や称号で呼ぶのはやめろと言っただろう」
「あ……すみません。そうでしたね」
「キュロスでいい、俺たちは婚約したのだから」
「……はい……あの、キュロス様は、こんな夜更けになにを?」
尋ねると、彼は小さなグラスを掲げて見せた。お酒? いや、お茶らしい。香ばしい茶葉の香りがする。
どうやら彼はついさきほど仕事を終え、入浴後の一服をしていたらしい。
「仕事が立て込んで、夕食を食べ逃してしまってな。眠る前に、なにか少しでも腹に入れようとしていた。マリーは?」
「わたしは……ただなんだか寝付けなくて」
「そうか。じゃあ、こちらに座れ」
「えっ」
思わず、変な声が出た。怪訝そうに眉をひそめる婚約者に慌てて首を振って、わたしは小走りでテーブルを回り、彼の斜向かいへと腰掛けた。……だって、二十人ぶんくらいの大きなテーブルだもの。真正面に座るのも、アレだし。隣に座るのはもっとアレだし。
すると彼は立ち上がり、さっきのわたしと同じように、テーブルをぐるりと回ってやってきた。隣の席に腰を下ろす。
そのままナニゴトもなかったように、手を伸ばしてグラスを取ると、残りのお茶を飲み始める。
――んっ?
「じきにミオが戻る。マリーのぶんはそれまで待て。俺が淹れるよりあいつのほうが美味い」
……右耳を、低くて柔らかな声がくすぐる。
うわ……男の人の声だ。ち、近い。
普段だったらいちいちそんな、異性を気にすることはない。でもこんな夜中で、わたしは寝間着みたいな格好で。こんな近距離で。どんな顔をして、向かい合えばいいのかわからないわ。
ちら……と眼球だけ、向けてみる。緑色の光が視界に入って、またあわてて顔ごとそらした。
明後日の方を向いたまま、わたしは早口でまくしたてる。
「み、ミオは、どこに行ったんですかっ?」
「厨房。夜食に出来るものがあればと――噂をすれば」
食堂の奥から、燭台を持ったミオがやってきた。いつもの無表情の侍女に、心の底からホッとする。
声が聞こえていたのだろうか、彼女はわたしの姿に驚かなかった。
逆にわたしたちがアレッと驚く。ミオの後ろに、料理長トッポがいたのだ。侍女に隠れているつもりなのだろうか、しかしトッポはミオの三倍くらい横に大きくて、ほとんど全身がはみ出ていた。
「トッポ、お前も起きていたのか」
「ええ、起きておりましたとも。おかえりなさいまし旦那様。お夜食をお持ち致しました」
トッポはそう言って、テーブルの上にお皿を置いた。上蓋をパカリと開くと、独特の香りが立ち上る。
キュロス様は歓声を上げた。
「おっ、鶏と餅芋の塩スープ。いいな、美味そうだ。マリー、パクチーは食べたことがあるか?」
いきなり振り向かれて、わたしは慌てて首を振る。
「そうか。ちょっとクセのある香草だが、口に合えば言葉通りクセになる。試してみるといい。トッポ、マリーの分の取り皿も頼む」
「はぁーい」
トッポは肩をすくめて、厨房へと戻り、わたしの分を取り分けてくれた。お礼を言おうと彼を見上げる。しかし、
「どうぞ。マリー様のお口には合わないかもしれませんけれども」
……なんとなくトゲのようなものを感じて、小さく頭を下げるしかできなかった。
あつあつのスープから昇る湯気は、食欲をそそる素晴らしい香りだった。そっとスプーンを差し込んで、ひとくち。
「わっ……――美味しい!」
調味料は塩と、鶏の旨味だけだろう。スープはほとんど無色透明なのに、奥行きがある濃厚な味わい。
香草も良いアクセントになっている。ほんの少し香るのはオリーブオイルね。
もっちりした粘り気のある芋が、また美味しい。
わたしはおなかが空いてたわけじゃないのだけど、スプーンが止まらない。おなかがあったまるにつれ、逆に食欲が増してくるようだった。
結構ボリュームのある具までパクパク食べてしまう。
「……あの……お気に召しましたか?」
半分くらい食べたところで、トッポが聞いてくる。わたしは大きく頷いた。
「とっても美味しいです!」
「そ、そぉ。……それは、よろしゅうございました」
「良かった。俺もこれ、好きなんだ」
隣のキュロス様も同じペースで食べ進めていた。
「でもトッポじゃなきゃこの味にはならない。俺は料理はよく分からないが、外で頼んだものはどうも違う」
「シンプルだからこそ、個性が出るのかしら」
「大概はトッポがつくったものが一番美味い。公爵邸や、宮廷料理に呼ばれたこともあるがトッポ以上の料理人はいないよ」
きっぱり言い切るキュロス様。わたしはそういったものと縁が無く、比べることは出来ないけども、自分じゃ作れないだろうなっていうのはすぐわかった。
キュロス様の意見に全面賛成。
「本当に美味しい。このお城のご飯は、どれもいつも、すごく美味しいです……」
夢中で平らげてしまった。ごちそうさま、とカトラリーを置いたところで、トッポが何か、喉を鳴らした。
わたしの方を恨めしそうに見下ろして、
「……だったら奥様、どうしていつもあんなに残してしまうのです?」
「――えっ?」
皿を下げながら、トッポは背中を向けた。それで立ち去るわけでも無く、俯いてブツブツ、イジイジと肩をくねらせて。
「毎日毎回、何を出しても、これで良しと言っていただけず。これならどうだ、これでもかと、手を替え品を替え、工夫を凝らしてお作りしておりますのに」
「あ、あの……」
「いいのです、このトッポのプライドなど。坊ちゃまには国一番と褒めそやされたって、本気にしちゃおりません。男爵家の料理人が、トッポ以上の腕でも、悔しがりこそすれ恨みなど」
「あの――?」
「だけど! 食材が! 食べられるために命を奪われたお肉さんやお野菜さんが! 可哀想で可哀想でっ!」
「あのぅ、もしもしっ!? 待ってください、わたしは不味くて残したわけじゃありませんっ!」
わたしは大きな声を出した。ふえっ? と振り向くトッポの目に、大粒の涙が浮かんでいた。
ああっ! なにかとんでもない誤解をされてしまってる!?
「奥様……今なんとっ?」
「わたしが残していたのは口に合わなかったからじゃないです。むしろ同じことを考えてました。食べ物がもったいないって!」
「で、でも……」
トッポはわたしと、キュロス様と、ミオの顔を順番に見回した。ミオがキュロス様に視線を回し、全員の視線が彼に集まる。
キュロス様は、わたしを見た。
「マリーの好みが分からないから、とりあえず色々出せと言ったのは俺だ。気に入ったものを選ばせて、口に合わないものは二度と出さない。――マリー、ミオに、好みを伝えなかったのか?」
「……えっと……」
「マリー様からは、どれも美味しいとだけ聞いておりました」
ミオが答える。そしてそのまま、キュロス様に進言した。
「ちょうど、今日旦那様にお伝えする予定でしたが……マリー様は基本的に、嫌いなものをそうと言えない方のようです。『とりあえず全部出して好みを選んでもらう作戦』は、やめたほうがよいかと。食事も、ドレスも」
「……そうなのか、マリー?」
キュロス様がキョトンとする。わたしは思いっきり首を横に振った。
たしかに、そういう自己主張は苦手なほうだ。でもそれとは違う。
「トッポさんのごはんは、本当に嫌いな物がなかったんです。本当に、本当に、どれもこれも全部美味しかったんです!」
「奥様……本当ですか?」
「本当です。ただ、お腹がいっぱいになっただけなんですっ!」
わたしの主張に、トッポはしばらくぼんやりして、チャーミングな目を見開いていた。やがて、その瞳からボロボロッと涙が落ちる。
「うわっ?」
「――よ、よかった。良かった……奥様、ご満足頂けてたのですね。良かった!」
オウオウ泣き出すトッポ料理長。
うわわわわわっ。弟以外の男の人が泣くの、初めて見た。
ええっ、これわたしのせい? ど、どうすればいいのっ?
困り果ててミオを振り向くと、彼女はやっぱりいつもの無表情であった。食後のお茶を用意してきます、と厨房へ歩いて行ってしまう。
まだ喚いている料理長を、キュロス様が撫で撫でしていた。こちらも、特に驚いた様子はない。
「トッポの涙腺が弱いのは、いつものことだからな」
わたしに向かってあっさり言う。
……そ、そうですか……。




