赤ちゃんのお披露目です
おだやかな春の日差しが差し込む部屋に、赤ん坊の声が響き渡る。
「ぅぇ……えぁっ、えああん。えああああん」
けたたましく、天を仰いで絶叫する赤ん坊。その名はエリーザベトという、生後半年の女児である。
「え、あっと、っとぉ……?」
抱っこしているのは、わたしの侍女、ミオだった。腕の中で泣きわめく乳児を見下ろして、ブツブツ呟いている。
「お腹が空いている……わけではないですよね。オムツも濡れていない……」
リサをひっくり返してあちこち確認するミオ。いつも冷静で、何でもできる侍従頭の困り果てる様子に、わたしは思わず笑ってしまった。
「ふふっ、きっと眠たくてグズっているのだと思うわ」
「リサ様は、眠いだけで泣くのですか?」
「ええ。赤ん坊ってそういうものじゃない?」
わたしの言葉に首を傾げるミオ。わたしは両手を伸ばし、
「おいで、リサ。ねんねしましょうね」
すると、ミオは助かったという表情をし、すぐにリサを渡してきた。わたしは赤ん坊の体を縦に抱いて、胸にもたれさせ、背中を優しくポンポン叩く。
そうすると、リサはあっという間に泣き止んだ。むにゃむにゃと意味のない声を漏らしながら、目を閉じた。そのわずか数秒後には、静かな寝息を立てはじめる。
リサはこうして、人が抱っこしてないとなかなか寝付かない。だが抱きさえすればすぐに寝付くのだから、穏やかなほうかもしれない。
ミオはそんな娘のようすにホウと息をつき、わたしに向かって頭を下げた。
「申し訳ありません、マリー様……子守りの役に立てませんで」
「とんでもないわ、お茶を飲む間をくれるだけ十分よ。ありがとう」
わたしがそう言っても、ミオは納得いかない様子だった。
本当なら貴族の家は、たとえ大事な跡継ぎであろうとも、両親が直接子育てをするということはない。専門の乳母や、熟練の侍女が子守りを請け負うものである。
だけどリサが生まれたのは外国で、周りにいた侍従と言えばグラナド商会の事務員か水夫くらい。わたしは夫、キュロス・グラナドと二人で、新生児期を乗り越えざるを得なかった。そのせいかリサはたいへんな人見知りだ。わたしかキュロス様、どちらかがそばに居ないとむずかるし、抱っこされるなんて絶対に許さなかった。
それで言うと、短い時間ながらも抱っこができて、機嫌のいい時なら遊び相手もこなせたミオは、十分すぎるほど優秀な乳母だった。本人は納得いっていないみたいだけれど、さすがミオだとわたしは思う。
そう話すと、ミオは首を振った。
「自分の力不足に恥じ入るばかりです。こんな柔らかくて小さなものを取り扱うのは、どうにも不慣れで」
「あらどうして? ミオはキュロス様の育児もしたんじゃなかったの?」
と、尋ねると、彼女はなぜか遠い目をした。フッ、とシニカルな苦笑いまで浮かべて、
「当時、旦那様はもう二歳。赤ん坊という年ではなく、私もまだ幼い頃ですから、遊び相手のほうが近いですよ。……坊ちゃんも頑丈でしたし」
そ、それは、心身ともに発育が良くて手がかからなかったという意味……よね? キュロス様のこと乱暴に扱っても大きな怪我をしなかったって意味じゃないわよね!?
ミオとキュロス様は、義理姉弟と言って差支えが無いほど長く深い付き合いがある。二人が幼い頃は、ここディルツ王都ではなく南の公爵領……グラナド城ではなく、アルフレッド・グラナド公爵様の私邸で暮らしていたらしい。どんな暮らしだったのか、想像すると何だかニコニコしてきちゃう。きっと二人とも、子どもの頃は可愛かったんだろうなあ。いや、今が全く可愛くないってわけじゃないけれど。
――と、そんなことを考えているところへ、扉がコツコツ、軽快なリズムでノックされた。わたしがどうぞと声をかけると、ミオが扉を開けに行く。
「こんにちはーお邪魔しまーす」
扉の向こうに居たのはよく知った顔、それも二人分。わたしは歓声を上げた。
「アナスタジアお姉様、ルイフォン様!」
立ち上がり、カーテシーをするために赤ん坊を籠へ置こうとすると、ルイフォン様に止められた。気さくに手を振って、
「お構いなく。赤ちゃんは両手で抱いておいてあげてくれたまえ」
わたしは礼を言って、娘を抱いたまま座り直した。そのままで軽く頭だけを下げて見せる。
「お二人とも、おひさしぶりです。わたしがディルツを出て以来、だから……もう丸一年半?」
アナスタジアはパタパタ手を振った。
「そうそう。帰って来たって聞いて、すぐに駆け付けたかったけど、ちょうどこっちもバタバタしててさ。ごめんね」
「とんでもないわ、こちらこそ。お二人の結婚パレードに参加できなくて――新聞で読みました。世界一美しいロイヤルカップルですって」
「やめてよ、もう。そんなのほとんど衣装でしょ」
アナスタジアお姉様はそう言って、照れくさそうに笑った。確かに王子の結婚とあれば、新郎新婦ともに大層飾り立てられただろうけども、それを抜きにしても、かの二つ名は誇張ではないと思う。
二十二歳、すっかり大人の女性となったアナスタジア。別れた時には男の子みたいな短髪だったけど、今は肩にかかるほどの長さに伸ばし、きちんと編み上げていた。服装も貴婦人用の華やかなドレスだ。
「お姉様、男装はもうやめたんですね」
わたしが言うと、アナスタジアは肩をすくめた。
「んー、いや、仕事中はもっと男みたいな格好してる。男装ってわけじゃなく、作業しやすい格好ってだけだけど。髪が伸びたぶん、ちょっと雰囲気変わったかな」
「確かに――そういえばルイフォン様も……」
と、わたしは視線をルイフォン様へと移動した。彼はいつものとおり優美な貴族服で、中性的な美貌も相変わらず。ただし口の下、顎の先に何か白いものがくっついている。髪の毛と同じ白銀色の、短い顎髭だった。ルイフォン様、お髭を伸ばし始めたのね……。
わたしの視線を感じたのか、ルイフォン様は「ああこれ?」と、自身の顎を撫でて苦笑した。
「結婚を機会に、夫婦の肖像画を残すことになってね。威厳のために髭でも生やせと、父が」
「ああ……国王陛下のご用命であれば断れませんね」
「いや実は僕も、ちょっと憧れてたんだ。歴代の王族はみんな立派な髭を蓄えていたからね」
なるほど、ご本人は気に入ってらっしゃるのね。良かった、似合わないとか言わないでおいて。わたしはホッと胸を撫で下ろした。ルイフォン様はニコニコと上機嫌で、綿埃みたいな顎髭を指で撫でる。
「ここまで伸ばすのに苦労したんだよ、もともとあまり生えない体質でさ。なんだかこう、良いものだね、男の象徴という気がするよ」
「そ、そうですか……そうですね……」
「ちっとも似合ってないけどね」
隣のアナスタジアがバッサリ言った。
恨めし気に見る夫を、慰めるでもなくさらに追い詰める。
「なによその顔、事実でしょうに」
「ファッションでやってるわけじゃないんだけど」
「別に無理して伸ばさなくても、肖像画の時だけ付け髭すれば良かったじゃない」
「自前で事足りるなら伸ばしたっていいだろ。妻帯者になって、中性的な王子様なんて格好つかないし」
「格好だけつけてどうするのよ、ついてないし。初めて見た時、本気で綿埃がついてると思ったわ」
「いや君、思っただけじゃなく引きちぎろうとしたよね」
……うん、仲がよろしくて何よりです。




