エピローグとプロローグ
ディルツ王国、最南端にある港町から北上すること、数日。
運河の水は清く、やわらかい。馬車から見える景色は淡い緑と、鮮やかな花の色。
それでも時々、花畑の端に固められた雪垣が見えて、わたしはぽつりと呟いた。
「……ディルツの春は、やっぱりイプサンドロスよりも寒いのね。あちらは冬が終わるより前に、雪なんか融けて消えてたのに」
「その代わり、夏は暑くてたいへんだったな」
隣に座るキュロス様が言う。
彼の言葉には、わずかに喜びが混じっていた。彼にとってもディルツは母国であり、久しぶりの――実に一年と半年ぶりの、帰国だもの。気分が上がろうというものだ。
馬車の速度は控えめで、人が歩くよりも少し早い程度。わたしたちはゆっくりと、久しぶりの景観を堪能していた。
やがて……遠くに、白亜の石壁が見えてくる。戦時中は要塞として、ディルツの国境を守ってきた城、現在は グラナド公爵令息、キュロス伯爵の居城である。一見、物物しく威圧的にすら感じるけれど、わたしたちにとっては心安らぐ家。ただただ懐かしく、嬉しい。
城門前に馬車をつけると、すぐに門番が駆け寄って、大仰に出迎えてくれた。明るい小麦色の髪をした青年は、一年半前より少しだけ、背が伸びているようだった。
懐かしい顔に、わたしはすぐにでも飛び出したくなったけれど、キュロス様に止められた。路面からわたしの手を支えてくれるつもりだろう、自分が先に降りるから少し待てと言われた。わたしは素直に頷いて、彼が車室から出ていくのを見送った。
途端に、わあーっと大きな歓声が聞こえた。
どうやら門番だけでなく、大勢の侍従たちが門前に集まっていたらしい。
開いたままの扉、長身の夫の肩越しには、ニコニコ顔の湯の番。どこか照れくさそうにしている庭師。ぴょんぴょん飛び跳ねているふくよかなコックと、背筋を伸ばして一礼する老執事。その腕には、記憶よりもずいぶんと成長した侍女見習いのお団子頭がぶら下がっている。
みんなみんな懐かしい、よく知った顔だった。そんな騒がしい中、ひとりの声がいっとう耳によく届いてきた。決して大きくはないのに、金属の鈴を鳴らしたようによく通る。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「ああ、ただいま」
キュロス様は頷いた。
「従業員みんなを集めたのはおまえか? ミオ」
「ええ。旦那様が港町が着かれた時に、早馬で便りを出してくださったでしょう。侍従どもは総出で、お迎えの支度をいたしました」
彼女の声は淡々としていたけれど、ふとした時にちょっとだけ、柔らかな労りが混ぜられる。
「……お疲れを癒す準備は滞りなく整ってございます。さっそく、湯で旅の垢を落とされますか? お食事ならば温かな軽食を。まずは休息を取られるのであれば、お部屋はすでに暖まっております。どうぞごゆっくり――」
そこまで言ってから、ふと彼女は言葉を止めた。怪訝な声で、独り言のように窺う。
「おや、旦那様。髪をお切りになったんですね」
「ああ……」
彼はうなじを撫でて頷いた。むき出しの首がまだ少々、慣れないようで、暖めるように手を当てた。
「髪型が気に入っているとか言ってられなくなってな。なにせ見つかり次第引っ張られる」
「ひっぱる?」
「どうもあの長さといい太さといい、本能的に掴みたくなるらしい。抱っこをするたびに、こう、ぐいーっと」
会話は続いていたけれど、わたしはもう我慢できなかった。夫を待たず、自らスカートを翻し、馬車から飛び出す。懐かしい顔、ずっとずっと会いたかった、大切な友人の胸に飛び込んだ。
「ミオ! ただいま!」
「マリー様っ」
「はい、どうぞ!」
「えっ?」
わたしがいきなり押し付けたものを、ミオは反射的に受け取って、すぐに「うわあっ」と声を上げた。いつでも沈着冷静な侍女も、さすがに驚いたらしい。自身の腕の中にある、小さな人間……まだ羽毛みたいにやわらかな女の子を、まじまじと凝視して。
「お……おおう……赤ん坊、だ……」
ぼんやりとした声を出す。わたしとキュロス様は顔を見合わせ、大笑いした。
「ごめんね、びっくりさせて。だけどキュロス様の次に抱っこさせるのは、ほかの誰よりもあなたが良かったの」
「……え……と。これ、が。そうですか、お二人の……」
まだ呆然としているミオ。彼女がこんな風に動揺するのは本当に珍しい。
「なんと……まあ。小さい……」
わたしの妊娠が確定した時、キュロス様はすぐに手紙を作成し、グラナド城に送っていた。つまりミオはずっと前に知っていたはずなのに、いまいち実感がなかったようだ。
そう、妊娠の可能性に気付いてから、わたしたちはイプサンドロス残留を決めた。首都の大きな病院に掛かり、安寧に過ごしながら、イプサンドロスの四季を見た。
出産から三か月……母子の回復と気候のいい時を待って、こうして赤ちゃんを連れて帰ってきたのである。
「も、もちろん、話には聞いていましたが……こんなに小さくて、軽いとは。もう少しこう、がっちりした感じを想像していたので……」
「あら、どちらかというと大きく生まれたのよ。わたしとキュロス様のどちらに似たのかはよくわからないけど」
「……ああ……髪の色は、マリー様ですね。顔は……まだ猿ですね……」
ミオは溜息すら赤子にかからないように、口元を抑え、恐る恐る覗き込む。キュロス様がニヤニヤ笑ってからかった。
「なんだ、赤ん坊を抱くのは初めてか? 今までにも何人か、メイドが産んで連れ帰ってきたじゃないか」
「もう少し成長してからでしたし、私が抱く機会などありませんでしたので。坊ちゃんの時はもう走れるくらいでしたし……」
そうっと、人差し指を赤ん坊へ伸ばすミオ。ふにゃふにゃ、ふっくらの頬に、ほんの少しだけ指先が埋まる。その瞬間、小さな小さな手が伸びてきて、彼女の指をギュッと握った。ミオはビクゥッと全身を震わせて、数秒完全に石化。それからかすかに、口元をほころばせた。
「なになに? 赤ちゃん?」
「どこ⁉」
「えーっ旦那様、子ども産んだの⁉ トッポも見たいぃ」
あらら、ほかの侍従たちも大騒ぎを始めてしまったわ。
ミオはわたしに赤ん坊を返し、いつもの凛々しい立ち振る舞いで侍従たちをたしなめていく。頼もしいガードをしてもらいながら、わたしたちは入城した。
歩く時は、キュロス様が抱っこの係。初めて抱き上げた時はそれはもうおっかなびっくり、さらに毎回のように髪の毛を引っ張られて涙目になっていた彼だけど、今はもうすっかり慣れたもの。子どももパパの腕の中で、心地よさそうにぐっすり眠っていた。
ホールに入り、館へ続く庭園に出ても、おかえりなさいの声が止まらない。
城の侍従たちはみんな、わたしたちの姿が見えるや否や駆け寄ってきて、はしゃいだ声をかけてくれるのだ。
「旦那様、おかえりなさいませ!」
「お久しぶりですマリー様、この度はご成婚とご出産、おめでとうございます!」
「おかえりなさいませ」
ひとりひとり、全員に、わたしは手を振って返していく。
このグラナド城を、わたしが初めて訪ねたのはもう二年も前……。
旅に出ていた期間を差し引けば、決して長い年月、住んでいたわけではない。
だけどわたしは胸を張り、何の迷いもなく笑顔で言える。
だってここが、わたしの家なんだもの。
わたしは両手を広げ、とびっきりの大きな声で、家族のみんなに呼びかけた
「――ただいま!」




