【閑話】瑞穂の約束②
そこに食べ物があった。
だから、俺は喰らった。それだけしか頭になかった。
夜明け前の魚河岸の倉庫地帯、鍵のかかっていない倉に入り込み、荷箱を漁った。
高価そうな絹織物も多くあったが、そんなものには目もくれない。綺麗な紙包に覆われた、甘い匂いに向かって手を伸ばす。暗闇で、それがどういうものなのかはよくわからない。ただ食べ物であると確信するなり、片っ端から掴んで口に入れ、飲み込んだ。咀嚼の手間すら惜しかった。
ひと包みを喰い尽くしても、乾いて枯れた身体は満たされない。木箱をひっくり返し、さらに食べ物がないか探した。
やっと見つけた人間の食べ物だ。こんなに清潔で安全なもの、次に食べられるのは何日後かわからない。二度とないかもしれない。
無我夢中だった。こんなに物音を立てては人目に付く、倉庫の主が帰ってくる――なんて思いもつかないほどに。
「なにをしている!」
鋭い声と同時に、蹴とばされた。不意打ちに身体が吹っ飛び、地面を転がる。
船頭らしき男は倒れた俺に構わず、慌てて荷箱を確認し、
「くそっこの乞食野郎、ちいっと目を離した隙に――あぁっひでえ、お嬢の菓子が……」
大騒ぎしている隙に、俺は倉庫を飛び出した。都だと泥棒に科される罰は良くて両腕、悪ければ首を切り落とされる。逃げるしかない。
だが走り出してすぐ、何人もの大男に通せんぼされた。先ほどの男にも追いつかれ、羽交い絞めにされる。
以前の俺ならば、こんな小男たちが何人ぶら下がってきても跳ねのけて、逃げのびることが出来ただろう。だが何十日もの間、ろくに食わず眠れもせず、山を越えてきたところだった。抵抗する気力もなく、殴られるまま放置した。
俺が抵抗しないのをいいことに、彼らは四方八方から拳と踵を振り下ろし、俺を打つ。やがて蹴るのも疲れたか、ひとりがふと手を止めた。
「……なんだこいつ。髪の色がおかしいぞ」
ちょうど朝日が昇りかけた頃だった。俺の髪は、日が当たると水面のように金色に光る。両親の故郷ではさほど珍しくはない髪色だが、ここミズホの人間は、幽霊でも見たような顔をする。
髪を掴んで引っ張られ、血まみれの顔面が晒される。すると男たちは「ひいっ」と悲鳴を上げて退いた。
「な、なんだ⁉ 目の色が、海みてぇに真っ青だ……!」
「顔の造りも、肌もだ! ひっ、ヒトか? この世の者なのか⁉」
「鬼だあ!」
己の口にした言葉でなお恐ろしくなったのか、男たちは慌てて俺を突き飛ばし、距離を取った。
――こういう反応をされるのは慣れている。むしろこうして逃げ出してくれるならありがたい。
多くのミズホ人は、俺の姿を見るなり悲鳴を上げる。中には問答無用で『討伐』しようとする者もいる。
……そうでなければ俺も、今こんな風にはなっていない。
そう考えると、悲鳴を上げて逃げる彼らを憐れむ気持ちにはなれなかった。逃げ延びるのに、彼らの恐れを利用させてもらう。彼らの腰が引けている間に身を起こし、逃走の隙を窺う。
だがひとりだけ、俺の容姿をまったく気にしない人間がいた。
「なに大騒ぎしてるの」
若い女性の声。彼女は腰を抜かした男どもの背後から現れた。小さな歩幅で、トコトコとやってくるなり彼らの頭を扇で叩く。それから俺を一瞥し、フンと鼻を鳴らした。
「なんだ。ただの異人じゃないか」
「し、しかしお嬢、あいつ髪も目も――」
「そう、見た目がちょっと違うだけ。……うちにも昔ひとりいたけれど、なんてことない、普通の男だったさね」
豪気な言葉とは裏腹に、彼女の体は小さかった。年は十五になったかどうか。桃のように丸い頬といい、肩より上で切り揃えた黒髪といい、雛人形にそっくりだ。
「ほらおまえたち、いつまでも縮み上がってないでとっとと捕まえな。あいつの軸足が下ってる。逃げるつもりだよ」
彼女の号令で、男たちが慌てて俺に飛び掛かる。俺は抵抗せず、力づくで押さえつけられるまま、地面に這いつくばった。顔の半分を砂利に埋めながらも、視線だけは彼女から外さない。
小ぢんまりと整った顔立ちではあったが、可愛らしいより先に、凛とした印象。ぬばたまの目はやけに鋭くて、年齢に見合わぬ高い知性を感じさせた。
唯我独尊――この世にある自分以外の生命体は全部不要。少女の目にはそんな力強さがある。
この眼差しに覚えがあった。
……もしかすると、この女性は……ずいぶん成長しているけれど、そういえば顔立ちも――。
俺にじろじろ見つめられて、彼女は不快そうに顔を歪めた。眉間に皺を刻み、「何を見ているんだ」と言いかけた言葉が、途中で止まる。
鋭かった瞳がまん丸になった。
「ま――まさか、あんた……杏侍郎っ⁉」
……やはりそうだったか。俺は苦笑いした。
十年ぶりです、楓様。色々あって自分はこのように薄汚れてしまいましたが、楓様はお変わりないようでなによりです。お館様もご健勝でしょうか?
そう呼びかけようとしたが、言葉にならない。
人との会話が久しぶりすぎて、声の出し方を忘れてしまっていた。それだけ長い間、俺は社会から断絶されていた。
貴央院の家に拾われて十二年……お嬢の『侍』になったあの日から、俺はお館様に頼み込み、剣術道場に通わせてもらった。生まれ持っての膂力もあり、俺はあっという間に道場一の剣士となった。
これで俺は、商店の丁稚ではなくお嬢の護衛になれる。お嬢との約束通り、ずっと一緒にいられる――。
そう思った時、都の武官が、道場を訪ねてきた。ここで一番、腕の立つ者を城に献上せよ、と。
――都の城勤め。まともに考えれば大抜擢である。この国の男なら誰もが志す、侍になれるのだ。道場の仲間はおおいに喜び、俺を祝福してくれた。
俺は……しばらく悩んだ。城勤めとなれば少なくとも数年、この貴央院家には戻れない。お嬢と離れてしまうじゃないか――と。
だが結局、この召致は強制であり、断ることは出来なかった。
お館様に別れを申し上げると、お館様も喜んで、たくさんの路銀を用立ててくださった。目尻に滲んだ涙をちょいと拭って、
「良かったなあ杏侍郎。幼い頃に親を亡くし、苦労をしたぶんが報われたんだなあ」
「お館様、本当にお世話になりました」
「よい、よい。立派な侍になってこい。いずれまた帰って来たら――」
と、その時だった。どかん! と派手な音を立てて、襖が蹴り破られた。直後にどかどかと足音を立て、入ってきたのはお嬢……楓様だった。
「許さないよ!」
開口一番、楓様は叫んだ。
「か、楓……しかしこれはお国の命令でな」
「お国? なにそれ私より偉いの?」
……うん、たぶん、偉いと思う。
「どこのどいつだろうとも、杏侍郎は私の家来だ。私の命令が最優先でしょう」
「しかしだね――」
「うるさいうるさい許さない! 裏切り者、裏切り者!」
とうとう金切り声を上げ、泣き叫び、俺の全身をボカスカ殴りつける楓様。
それからはどれだけ諭してもどうにもならず、大人の男五人がかりで楓様を捕獲して、俺は逃げるように家を出た。
後ろ髪を引かれながらも都を目指し、歩き進め、城に着き――城主直々に、刀を渡された。とびきりよく斬れる業物だと、城主は笑って言った。
「刀を授かる代わりに、名を捨てよ。人の首を刈るのに、人の心は邪魔であろう」
それから俺は、命ぜられるままに働いた。相手は主にあだなす輩であったり、口うるさい家臣であったり、入れ込んでいる遊女の亭主であったりした。
理由も聞かされないことのほうが多かった。俺も尋ねなかった。なるべく、誰とも話をしないようにして過ごした。人と交われば、人の心を思い出してしまうから――俺は黙って刀を振り続けた。
――そんな日々を、いつ辞めたのか、俺は覚えていない。
気が付くと城からはるか遠く離れた場所で、腹を空かせて倒れていた。どうやら朝起きた時、急に仕事が嫌になったらしい。着の身着のまま財布すら持たず、俺は都から逃げ落ちていた。
もう城には帰れない。家臣らに見つかったが最後、裏切り者として取っ捕まって、口封じにと始末されてしまう。たとえ逃げていなくても、いずれは同じ運命だったろうが。狡兎死して走狗烹らる――刀を授けられた時から覚悟をしていたことだ。
だがどうやら俺の魂は、都で朽ちるのを良しとしなかったらしい。夢遊病のように逃げ出して、どこへ着くのかもわからない道を、ただただ歩いた。ひとを避けるため、街道は使わず山中の道ならぬ道を進んだ。ふらふらと、何も考えずにただふらふらと。
そうして辿り着いたのが長年過ごした土地だったのは、ただの偶然か。あるいは無意識に、懐かしい景色を追いかけていたのだろうか。食べ物の気配につられ、忍び込んだのが貴央院の倉庫であったのも、偶然ではないのかもしれない。
――帰りたい。その気持ちが、きっとここに俺を吸い寄せたのだ。
――帰りたい。この街に、貴央院に。楓様の元に。
「……楓様……」
この時、俺は縋るような目をしていたのだと思う。楓様は黙って、地面に這う俺を見下していた。
かつて俺は彼女を置き去りにした。「許さない、絶対に許さない」という少女の声は、今でも耳に残っている。それから十年……彼女はとっくに俺を見限って、すっかり汚れて帰ってきたのを軽蔑していることだろう。
彼女の目を見つめ返すことすらできず、俯く。
下げた頭を、ガツンと硬いもので殴られた。楓様は、手に持った扇子の一番硬い柄の部分で俺を打ち、フンと鼻を鳴らしていた。
「それじゃあ杏侍郎、あんたは今日から私の従者ね」
「…………は……?」
「そんな状態になってんだ、どうせ都落ちでしょ。あんたの見た目で、人相書きが張り出されたらもうおてんとうさまの下は歩けない。貴央院に戻る以外で生きてく術がないでしょうが」
「それは、そう、ですが。なぜ楓様の従者に……」
「うるさいね、私がなれと言ったならなるしかないのよ!」
また扇子で叩かれた。
「これから杏侍郎は私の従者! 貴央院の家でもお父様でもなく、私に仕えるの。私だけの侍なの! わかった⁉」
「……わ……わかりました」
「あとその話し方もなんとかしなさい。なんか偉そうで腹立つ」
「ええっ? ええと、では偉そうでない話し方とは、どのような……」
「従者らしく、ゴザルとかソウロウとか言いなさい。ほら、さっさと行くよ。――おまえたちっ、杏侍郎をそのへんの風呂屋に連れてってやんな。いやその前に井戸水でもかぶっておくべきだね。臭くてたまんないったらもう――」
男たちをどやしつけながら、楓様は歩み、去っていく。その歩幅はやはり小さくて、なかなか遠ざからない。俺は慌てて後を追った。
「臭いから寄るな!」
そう命令されても、従わなかった。




