最後は、みんなで幸せに②
その部屋には、おびただしいまでの紙があった。
デスク上だけでは収まらず、ティーテーブル、キャビネットの上まで紙の束。さらに床にまで広がって、見渡す限り紙だらけ。そしてそのすべてに、文字やら絵やらが書き込まれている。
オグランはしばらく呆然としてから、紙以外のもの……人間の姿に気が付いた。部屋の中央、カエデさんが床に這いつくばるような姿勢で、紙に何かを書き込んでいた。
キュロス様が苦笑する。
「おいおいカエデ、ずいぶんな量になってるな。昨日の今日で、どれだけ企画書を書き上げたんだ」
「き、きかくしょ?」
「そうっ! 事業企画書、よ!」
突然、カエデさんが顔を上げ、全力の大声で絶叫した。
徹夜明けのせい……だけではないだろう、ちょっと異様なテンションである。
「あんたたちにとって朗報中の朗報! この私、とマリーさんとグラナド商会に感謝感激で土下座して、そのまま頭蓋骨を骨折しなさい!」
「えっ? なに?」
「朗報だって言ってるでしょう? とりあえずお礼を言いなさい!」
「ちょっと落ち着くでござるよ、カエデ様」
色んな意味で話にならないカエデさんの代わりに、穏やかな声をかけてくれたのは、アンジェロさんだった。奥のベッドで半身を起こし、オグランを手招きする。彼の手には雑紙が数枚ある。
「これは清書前の草案ですが、イメージは掴めるでしょう。どうぞご一読くださいませ」
わたしとキュロス様も近づいて、オグランと一緒に、彼の手元を覗き込む。フラリア語で大きく題字があった。
――『旧市街地、再開発計画書』――。
「……さい、かいはつ……」
「ええ、あの廃墟街化した旧市街地……グラナド商会が、土地まるごと買い上げることにしたの」
「街を、買うっ⁉」
オグランは目を剝いて叫んだが、キュロス様はけろりとした表情。
「珍しいことじゃないだろう。外洋貿易船を作る時には、製造スペースと人員のため村ひとつ買ったぞ。いくつかも港町にも倉庫区画を開発しているし」
「い、いやそんなの、どんだけ金持ちだって普通しないだろ!」
「何を言う、俺はグラナド商会の経営者であると同時に、ディルツの伯爵位、一国の治水計画が本業だ。開墾事業などお手の物」
あんぐり口を開けたまま、オグランは固まった。
……そう、彼にとってこれは難しいことではなかった……らしい。わたしがそれを、決死の思いで提案した時、「ああなるほど、了解」と簡単にうなずかれてしまったほどに。
「旧市街地の廃墟街化、治安の悪化は国にとっても頭の痛いお荷物だった。土地代は二束三文だったよ。老朽化した建物の撤去費のほうがはるかにかかるな」
「そ……それじゃあ……オイラたちはもう、住む所が無くなっちまうのか……」
オグランは怯えた声でつぶやいた。
彼ら孤児は、あの街が国に放棄されているからこそ住みつけている。再開発は彼らが家を失くすことを意味していた。賢いオグランは、いつかこんな日が来ると覚悟していたのだろう。震えながら、諦めたように目を閉じていた。その瞼を、わたしは無理やりこじ開ける。
「――無くさない。新しくなるだけよ」
「…………新しく……?」
「そう、家も、仕事もね」
わたしはあたりを見回して、目当てのものが描かれた書類を探した。直後、カエデさんが巻物を投げよこす。書き物に集中しながらも、会話は聞いていたらしい。
わたしは礼を言って、羊皮紙を広げた。
大きな紙だった。背の高いわたしが両手いっぱいに広げても少し開ききれないほど長い。それでも十分、書かれていることは見て取れる。
それは地図のようなものだった。旧市街地を再開発し、生み出される新市街地……いや、『キオウイン&グラナド商会 イプサンドロス合同支部』および『社員宿舎』の、都市開発設計図だった。
「旧市街地は、治安の悪い廃墟を潰し、巨大な工業都市として再起する。主な事業は、紡績。ミズホから輸入した上質な絹糸を使い、衣服や絨毯など、繊維製品全般を大量生産する」
ぽかんとしているオグラン。その瘦せた肩を掴んで引き寄せ、キュロス様は設計図を指さしていく。
「……ここ、ど真ん中にあるのが工場。隣接している五軒も同様に、別の作業をする場所になっている。こっち側の、小さな建物がいっぱい並んでいるのは倉庫。広場を挟んで建っている、背の高い建物が従業員宿舎……つまり、おまえたちの家、だ」
やっぱりオグランは呆けたまま、言葉がない。
それもそのはず。だってこんな話は寝耳に水、わたしが思いついたのも、つい昨日のことですもの。
今朝――いや、まだ朝日が昇りきっては無かったので、深夜というべきか。キュロス様との相談を終えたわたしは、カエデさんの寝室、もといカエデさんが入り浸っているアンジェロさんの寝室を訪れて、寝ている彼女を引っ張り起こした。まだ寝起きでフニャフニャだった肩を掴み、揺さぶりながら、一気にこの計画を話してみた。寝ぼけ眼をチカチカさせながらも、さすがミズホの商人、わたしの話を一度聞いて理解した。
彼女の返答、第一声は、
「無理だよ」
だった。
「あ、あのでも……廃墟を取り潰すのにも人手は必要なので、孤児たちの雇用はすぐにでも……黒字が出るまで、彼らを抱える資金は十分あるって、キュロス様は……」
「そういうことじゃなくて。取り扱うのがミズホの製品、それを私に頼みに来たってことは、私に輸入の監修と製品開発をしてほしいってことでしょう?」
……本当に、さすがだ。
「はい。製造計画を立てるには、何を作り、それには何が必要なのか知識のある人が必要です。……もちろんイプスに永住してくれということはありません。合間を見て、ミズホに帰ることもできるし」
「もしミズホに帰ったら、もう船には乗らない。……ミズホで、父の仕事を手伝いながら一生を終えるわ」
やはり彼女は首を振る。
「しょせんね、家出娘の冒険だったのよ。あの小さな島国で、親の紹介する男と結ばれて、子どもを産んで一生を終える……そんなの嫌だって、抵抗しただけだったの」
「そんな――どうしたんです? カエデさんらしくない」
わたしは思わず非難するように言ったが、彼女は反論もしなかった。自嘲気味に笑って、肩をすくめた。
「なんかもう、ばかばかしくなっちゃったっていうかー。そういうのも悪くないかなって気がしてきただけ。……ほかに、結婚したい男なんて、もういないしぃ」
黒曜石のような瞳が、ちら……と、動く。つられてわたしも、彼女の視線を追いかけた。その先には彼女の従者、金髪のサムライことアンジェロさんが、ベッドの上でオレンジを剥いていた。
女二人の視線を受けて、きょとん、と。
「えっカエデ様、ミズホに帰るでござるか?」
「…………ほかに、どこでどう生きていくってのよ」
「いえ、カエデ様ならばこのまま一生、世界を巡る旅を続けるのかと思っておりましたので」
眉を垂らして呟きながら、オレンジの白い筋を取る。
「残念でござる。拙者、ミズホを出たその日から、そうして一生を終えるつもりでござった」
瞬間、カエデさんの額に大きな青筋が浮かんだ。腕を組み、いかにも皮肉気に鼻を鳴らす。
「……何よ。もしかしておべっかのつもり」
「畏くも拙者、ミズホの男……都合のいい嘘は吐いても媚を売るのは苦手でござる」
それは逆のほうがいいのでは? と思ったけれども、黙っておいた。カエデさんの顔がさらに怖くなったので。
「ほんと、嘘つき。あんたはただ仕事で付いてきてるだけでしょうが」
「ええ、カエデ様がそう命令なさったので」
悪びれもせず隠しもせず、彼は言う。
「拙者は、カエデ様の従者にござる。ゆえにカエデ様のご命令とあれば、なんなりと。喜んで付き従う所存」
「…………この国で……お父様のいるミズホを出て、何年でも?」
「もちろん、永遠にでも」
アンジェロさんは変わらない。声も表情も、カエデさんを見つめるまなざしも、いつも通りの彼だった。いつも通りの彼のまま、当たり前のように頷いている。
「拙者は、カエデ様の侍ですから。たとえあなたがどんな選択をしても、最後の最後まであなたの味方です」
「私が、命令したら。なんでも言うこと聞くの?」
「ええ」
頷くアンジェロさん。その眼差しは、甘く優しくて。
こ、これは……もしかして⁉
わたしは両手を口元に当て、零れそうな溜息を押し殺す。カエデさんは天を仰いだ。
「……だったら……例えば……例えばの話だけどもね?」
カエデさん……耳の裏が真っ赤になってる。意味もなく手足をバタつかせて、指をもじもじと絡め、口をパクパクさせては押し黙る。
「私、と、結――」
わたしはそのようすをハラハラしながら見つめていた。心の中で、「言っちゃえ」と応援しながらドキドキしていた。
頑張れ……頑張れっ!
「結――あ――アンジロウ!」
「はい」
「あのっ……その――オレンジ、私に全部よこしなさいっ!」
「嫌でござる」
アンジェロさんは満面の笑みのままそう言って、綺麗に剥いたオレンジを、一口で食べた。
――そんな感じでグダグダと終わった二人だけども、カエデさんはすっかり元気を取り戻したらしい。明るい、を超えてもはや燃え盛る炎のように燃え上がり、夜も明けきらぬうちから紙という紙を集め、計画書を書き始めたのである。
ぽかんとしているオグランは、初めて年相応に幼く、可愛らしく見えた。思わず吹き出し、クスクス笑ってしまうわたしとキュロス様。カエデさんも一度は笑ったけど、不意に厳しい声で釘を刺す。
「もちろん、あんたたちのほうが労働なんて御免と言うならば、追わない」
やはり紙に筆を走らせながら、吐き捨てるように言う。
「そこのお人よし夫婦はどうだか知らないけれど、私にとってこれはビジネス。東洋の果て、西洋への門扉であるイプサンドロスに、ミズホ原産の資材と技術の工場を置く。それはミズホ製品を世界に流通させるのに、欠かせないプロセスだった」
「……という需要に、東西を結ぶ貿易商、グラナド商会が乗っかった形だな」
キュロス様が笑って言う。
「グラナド商会にとっても、買い付け、転売だけでは利益率に限界があった。俺や目の利くごく一部の管理職員が毎回船に乗り、イプスのグランドバザーを回って買い付けるのは効率が悪い。いっそ現地に自社工場を、と、かねてから狙っていたんだよ」
「……工場……って、なんだ……?」
オグランが疑問符を浮かべても無理はない。イプサンドロスは昔から、手作りの文化がたいへん盛んな国なのだ。熟練の職人ともなれば、人の手とは信じられないくらい緻密な細工をものすごい速さで作ってしまう。企業が大勢を一堂に集め、共同で大量に製造するなんてシステムは、今までに無かったのだ。不安そうな彼を抱き寄せ、わたしは優しく囁いた。
「今はなんだかわからないだろうけど、安心して。ディルツの工業科学は世界トップクラスなの。お世辞にも豊かとはいえない土地だからこそ、それだけは自慢の国なのよ」
「どこかの王太子が戦後もコツコツ兵器を開発していたからなあ……」
キュロス様は遠い目をして呟いた。
「……工場施設が整ったら、ディルツから大量生産の設備を搬入するの。力のない女性や子どもでも作業ができる機械があるのよ。それに、作業工程を完璧に覚えた指導者を一人置いておけば、初心者にもできる作業を割り振れる」
「それよりまず、旧市街地の解体からだがな。腕力と体力のある若い男、それをサポートする女性や子ども、老人を、大量に雇用しなくては――どこかにそんな人材を紹介してくれるやつはいないだろうか」
と、キュロス様の緑の目が、オグランをチラリと見た。
オグランは聡い。彼の視線の意味にすぐ気づいて、表情を変えた。喜びではなく、警戒と嫌悪に眉を顰める。
「オイラたちに、家と仕事の施しをあげよう、ってこと?」
わたしは半分だけ頷きかけて、首を振った。
「施しなんかじゃないわ。わたしたちは、わたしたちの利益のために、あなたたちの労働力が欲しい。……これはビジネスよ」
「そうそう、ミズホの絹を持ち込み、イプスの技術で製作して、ディルツの科学で運搬する。儲かるよお、これは」
カエデさんはニヤニヤ笑って、それはもう楽しそうに筆を走らせ続けていた。
彼女が今、書いているのは工場に導入する機材のリスト。
「うひひっ。グラナド商会の資産を使って、イプスの地にミズホ製品の工場を作れるなんて夢みたい。うふふふふ。紡績機が百台、力織機が四十台」
「まずはその半分からだ。それより、宿舎と食堂を広く取ってくれ。従業員がこの街で普通に生活し、安心して子育てできるよう、生活基盤をそろえなければならない」
「子どもまで産ませる気かよ⁉」
オグランが呟くように吐き捨てた。
「別に産ませるわけじゃなく、勝手に産むだろ? 性別入り混じって集団生活をしていれば、何かしら人間関係が発展するさ。禁止するつもりもない」
「そ、そりゃあ、でもそれじゃあ何も解決しない! ずっと言ってるだろう、あいつらには学がない、生んだ子どもに字を教えてあげられないんだ。いくら大きな工場を作ったって、仕事は無限にあるわけじゃない、雇える人数にも限りがある。また飢える子どもが出てしまう――!」
叫ぶオグランの目に涙があふれていた。ふっくら丸い、幼さの残る頬を涙が伝って落ちる。わたしは彼の前に身をかがめ、床に滴った涙を――もとい涙が濡らした紙を拾い上げた。
「そのための施設が、ここ。宿舎のすぐ隣、一番大きなこの建物」
爪でなぞったその場所を、オグランはじっと見つめる。書き込まれた走り文字を、目を剝いて見つめ、読み上げた。
「…………学校…………?」
「兼、保育所ね。子持ち従業員の就業中は、ここで子どもを保育、成長すれば教育をする。これがあれば親になってからも安心して働けるし、子どもたちは将来のための学びを得られる」
「夜間には大人も、希望する者は教育を受けられるようにする予定だ」
キュロス様が補足した。
そう、これが、わたしが一番作りたいものだった。
学校での授業は読み書き計算だけでなく、イプサンドロスの伝統工芸の製造や、通訳、事務、営業など、労働者としてのスキルアップ教育が含まれる。
そしてこれも、福祉じゃない。ここで育った従業員は、工場製造業のみならずグラナド商会の良き人材となってくれるだろう。その研修機関でもあるのだ。
「オグラン、おまえにはいずれ、そこで教職についてもらいたい」
「教師……オイラが?」
「そう。読み書き計算はもちろんだが、商売のいろは、接客営業までおまえならお手の物だろう? もちろん、教師になるための研修もちゃんとやるぞ。……うまいこと、身内に暇をしている隠居がいてな」
キュロス様はそこで親指を窓辺に向けて、くいっと引いた。視線をやると、窓の向こうに白髪の老紳士の陰。いつから聞き耳を立てていたのだろう、ケマルさんが、背を向けたままグッと親指を立てていた。
オグランは、ゆっくりと状況を把握していった。
床中に散らばった紙を見つめ、黙ってなにか考え込んだり、時々「ええ?」とか「うう」とか奇声を漏らしたり。
やがて、ふらりと体が揺らぐ。倒れこみそうになるのを慌てて支えると、彼はそのまま、わたしに体重を預けてきた。
二人、抱き合うようにずるずると地面にへたり込む。抱きかかえた胸の中で、オグランがすすり泣く声が聞こえた。
「……オグラン。……余計なことをしたかしら」
オグランは首を振った。
「――オイラは……今まで、ずっと、必死だった。今日を生きるため、明日のパンを手に入れるためで頭がいっぱいで。『未来』のこと、なんて、考えられなかった」
そう言ってから、また首を振る。
「いや違う、考えると怖くなるから、考えないようにしてた。考えたって良いようになんかならない。怖い想像しかできなかった」
「……うん」
ぎゅうっと、オグランを胸に抱きしめる。
わかるよオグラン。わたしもそうだったから。
未来のことを考えないようにしていた。どうせいいことなんかないって、気づいてしまうのが怖かったから。夢を見ないようにすることで、夢の中にいた。それを心地よく感じていた。たとえそれが悪夢でも、醒めてしまうよりもマシだった。
そんな生活が何年も、何年も続いて、希望を忘れてしまった。目の前に差し出された、希望につながる手を拒絶したことさえあったもの。わたしは愚かだった。
だけど、オグランは、わたしよりも賢く、そして強い。
わたしよりもずっとずっと早く、顔を上げた。
オグランは言う。わたしの胸の中で、震えながらも、逃げずに言った。
「オイラは今、生まれて初めて、期待してる。未来を想像して、幸せな気持ちになってるんだ」
「……うん……」
少年の頭を撫でながら、共感する。
わかるよオグラン。わたしも……今はもうあなたと同じ、未来を向けるようになったから。




